©吉田秋生/小学館

『詩歌川百景』~『海街diary』とゆるくつながってくる人たちの、生きるうえで大切なことを描く吉田秋生の最新作

 『詩歌川百景』第2巻は、第1巻がでてから1年4か月して刊行された。つぎはいつでるのだろうとおもいながら、でも、忘れ、忘れたころに、ふと、やってくる。さっそく読みはじめてみるものの、おおまかなことしかおぼえていない。読みながら、そうだった、そうだったな、とすこしずつおもいだし、一回とおしてから、あらためて、1巻目から読みなおす。

 第1巻、本をひらくと、カラーページは雪。雪かき。そして、山があらわれる。

 ひとつ前、『海街diary』、9冊で、12年かけて刊行された作品は、鎌倉あたり、海がそばにある生活が描かれていた。新しい作品では、山のなかに舞台が移っている。かわりに、川がある。流れている川、水の流れが。

 くるまを運転する飯田和樹のむこう、「シャーッ」と自転車で通り過ぎる若い女性。こっちを振りむいた顔と背のアップにつづいて、和樹は「妙!」とおもう。ふきだしで、だ。

 『詩歌川百景』は『海街diary』とおなじく、濃淡はあれど、何人もの人物をともにあつかってゆく。和樹はこの土地の、この物語を解説する役割もはたす。ふつうの会話としてのふきだしと、口にはださないがおもっている、考えていることを記したふきだし。和樹のナレーションは、四角にかこわれたことばと、絵のなか、宙にういたように記されたことばであらわれる。ふきだしのなかでも文字はいろいろ変わるし、オノマトペやモノローグも宙にでてくる。こんな多層的なありかたを、読み手はとくに意識することもなく、スピーディに読みすすめてゆく。

 妙が和樹を高台へつれていく。「お姉ちゃん」のはなしをする。『海街diary』を読んでいるなら、9冊のうち4冊――2、4、5、8巻――の表紙が階段になっていること、作品のなかで何度も階段や坂がでてきたのを、おもいだせる。おもいださなくても、『詩歌川百景』しか知らなくてもさしつかえない。ただ、知っていると、既視感があり、パースペクティヴがぐっとひろがる。この高台はまた、『海街diary』の第1巻第1話「蝉時雨のやむ頃」で初対面のすずが亡き父ののこした写真を走って姉たちに届けにきたとき、長姉・幸が「この町であなたが/一番好きな/場所ってどこ?」と訊き、一緒に長い階段をあがってゆくところだ。「お父さんも/この場所がとても/好きだったん/です」とすずは説明する、「ねえ なんか/鎌倉に/似てない?」と佳乃と千佳が、「うん!/あたしも/そう思った/あの山の/向こうに海が/見えたら/鎌倉だよね」と交わす景色の、すずがしばらくしていう「でも/なんで お父さんが/この町で暮らそうと/思ったのか 今日/わかりました/あそこからの/眺めが鎌倉に/似てたんです」ともひびきあう。

 吉田秋生の海、鎌倉の海は、『海街diary』のもっと前、1990年代『ラヴァーズ・キス』の風景をおもわせる。風景だけでなく、人物にも。これまた、『海街diary』が2000年代から2010年代まで継続したあいだに、忘れたり、おもいだしたり。『海街diary』の「番外編 通り雨のあとに」が、『詩歌川百景』を予告していたなんて、初読のとき、容易には気づけない。だから――1990年代から2020年代のいままで、読み、忘れ、おもいだし、再読三読し、あることをつなげたり、切り離したりしながら、吉田秋生は、ずっと、そばにある。自覚はなかったけれど、個人の吉田秋生ではなく、描き手の吉田秋生とともに時を過ごしている。一緒に年をとっている。