アート・オブ・メモリー
妄想する記憶装置/暴走する記録装置

オリヴァー・サックス 『音楽嗜好症(ミュージコフィリア) 脳神経科医と音楽に憑かれた人々』 早川書房(2014)

 音楽と記憶のことについて興味を持つきっかけとなったのは「私は誰になっていくの?」という本だった。この本は、アルツハイマー病を発症し根治には至らないものの症状を克服した著者が、その体験を綴ったものだ。著者は、闘病期間中、新しい音楽を聴くことが辛く、またショッピングセンターのような場所でBGMやレジの音などのたくさんの音にさらされることに大変な苦痛を感じたという。病状や進行の程度、人によっていろいろと違うのだろうが、覚えること思い出すことにダメージを与えるこの病固有の症状が音楽を媒介として現れることに興味を覚え、そこに音楽の本質を観たように思い何かと記憶と音楽について考えてみるようになった。

 最近復刊された作曲家近藤譲の「線の音楽」は、アーティキュレーションとグルーピングという概念を用い、二つ以上の音がいかに音楽化(構造化=作品化)されるかについての分析を試み、さらに自身の作品を創り出す方法に至った過程を示す。そこでは歴史(音楽史)―つまり記憶―が、生成する音に及ぼす作用とその反作用として新しい音楽を生む力学が語られるが、記憶の総体=歴史の外にでることの不可能性の中でこそ新しい音楽が生成し新しい音楽経験を生むことを再確認し、音と記憶は社会的コンテクストの中で音楽を生み出だしていることにあらためて気がつかされる。

 この「音楽嗜好症」は、映画「レナードの朝」で知られる脳神経外科医、オリヴァー・サックスの音楽にまつわる症状についてのエッセイをまとめた本である。冒頭、音楽が人類にとってまったく非本質的な能力/機能でありながら高度に発達したことの不可解さをとくダーウィンの説を引きながらも、著者はさまざまな障害を抱える彼の患者たちに共通して現れる音楽の治療効果や、あるいは音楽との関わりに現れる症状から音楽の不可解とされてきた魅力が人の生活に本質的な影響を与えているかを読み取る。記憶と音楽、認知症患者と音楽についてもいくつか興味深い症例が報告されている。音楽ってなんなの?という疑問があるなら今すぐ手に取るべき本のひとつだ。

オリヴァー・サックスが〈TED〉で2009年に行った講演