(左から)榊原尚美、中村幸雄、武田清一

 

日暮しというグループをご存じだろうか? 武田清一榊原尚美中村幸雄から成るトリオで、73年にデビュー。透き通るようなヴォーカルとフォーキー・サウンド、美しいハーモニーとメロディー・ラインで人気を博した(榊原尚美はのちに杉村尚美としてソロ・デビュー。“サンセット・メモリー”という大ヒットを飛ばしている)。

彼らには5枚のオリジナル・アルバムがある。日本コロムビアからリリースされた最初の3枚はすでにCD化されていたものの、4枚目の『ありふれた出来事』(77年)と5枚目の『記憶の果実』(79年)は後回しになっており、〈どうしてなんだ?〉という声は少なくなかった。フォーク畑で語られる日暮しだが、この2枚は近年ジャパニーズ・シティー・ポップの名盤という評価が確定しており、ハイグレードな和モノを追い求める若いリスナーたちの人気盤なのである。そんな人気作2枚がこのたびめでたくリイシューされることとなった。どちらも極上のフォーキー・ポップ・チューンが並ぶ良作だが、とりわけ『記憶の果実』のポップ・フィーリングは軽いショックを与えると思う(とってもシティー感覚に溢れた作品だと、ライナーノーツで仲井戸麗市も驚きのコメントを寄せている)。

この2作のプロデュースを務めたのは、RCサクセションの『シングル・マン』(76年)や井上陽水の『氷の世界』(73年)をはじめ、山ほどのジャパニーズ・ロックの名盤に携わってきた星勝。今回は、リーダーの武田清一と今回のリイシュー・プロジェクトのプロデューサーでもある星勝のお二方にインタヴューを敢行。取材場所となったのは、武田さんが営む国立のジャズ喫茶〈Sings〉。国立の街と同じようにゆったりとした時間が流れるお店で、〈セイちゃん〉〈勝さん〉とお互いを呼び合う2人の親しげなトークが展開された。おっと忘れるところであった、武田さんはRCサクセションの前身グループであるThe Remainders of The Cloverのリーダーでもある。今回は、彼の原点であるその時代の音源も日の目をみることがひとつのトピックスになっていることを伝えておかねばならない。

左から星勝、武田清一。74年、コロムビア・スタジオにて

 

日暮しと出会ったときに、ロック・グループとは真逆の美というものを感じた(星)

――今回のリイシュー・プロジェクトはどのような経緯でスタートしたんですか?

武田「数年前に(日暮しの)ベスト盤が出たんですけど、これが内容的に納得のいかないものとなっていまして(笑)」

「憤りを感じたと(笑)」

武田「シングルのA面B面をただ並べてあるだけだし、尚美ちゃんのソロ曲まで入っていたりして、それってなんなんだと。このお店には日暮しのファンがときどきやってくるんです。で、〈このCDに武田さんOK出したんですか?〉って訊かれるんだけど、僕は出してないし、まったく知らなかった。というわけで、ちゃんとした形で出してくださいってリクエストが少なくなかったんです。そこで勝さんのところに行って〈ちゃんと出し直さないとマズいんじゃない?〉って話をして」

「なんとかリヴェンジしないと、ってことだね」

――CD化熱望の声はこれまでにかなり多かったですよね。

武田「日暮しにとって4枚目、5枚目に当たるんですが、自分ではいちばん満足できる内容だったんです。内容もサウンドもいまの時代に聴いても全然色褪せてないし、皆さんから早く再発してほしいって言われていたんですよ。ただ僕の腰が重くて、う~ん……って言ってたんだけどね。アナログ・レコードでだったら良いけどな、なんて話をしていて(笑)」

77年作『ありふれた出来事』収録曲“オレンジ色の電車”

 

――アルバム制作当時のお話をお訊きしたいんですが、どういう作品にしようと動き出したんですか?

武田「それまでに日本コロムビアで3枚のアルバムを作っているんですけど、1枚目(73年作『日暮し』)の頃はまだグループの方向性も固まっていなくて、曲の出来、不出来に差があったり、他者が書いた曲が入っていたりして、バラバラな感じがありましたね。2枚目(73年作『日暮し2』)もそういう感じだったけど、3枚目(74年作『街風季節』)で少しやる気になったのかな。ちょっとがんばんなくちゃいけない、と思いはじめたときに星さんに出会ったんですね。〈日暮しに会いたい〉って星さんが来てくれたんです。ザ・モップスの星さんがなんで僕らに会いたいんだろう?って不思議に思ったというか、ロックの人というイメージがあったので結びつかなかったんですね。でも話してみるとそういう感じでもなくって……」

「ロックやリズム&ブルースが好きで、自分たちでもパフォーマンスしたくてモップスを始めたんですけど、楽器編成がギター、ベース、ドラムスしかなくて、キーボードが入っていなかった。いざレコーディングをするとなると、その編成だけでやろうとするとどうしても満足がいく形にならなくて。それで譜面の勉強をしながら、サポート・メンバーを呼んだりしながらレコーディングを続けていくうちに、バラード系などもできるようになった。だいたいが浮気性な性格で、歌謡曲でも好きなものはあるし、民謡も好きだし、好きなものは限りなくあるわけ。何でも好きになる。で、日暮しと出会ったときに、ロック・グループとは真逆の美というものを感じた」

ザ・モップスの68年作『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン』収録曲“朝まで待てない”。星がギター/ヴォーカル、74年に解散

 

――真逆といえば、日暮しは当時のフォーク・グループと一線を画すような洒落た感じの、洗練度の高い音楽をやっていらっしゃる。かなり洋楽のエッセンスを採り入れた音楽という気がする。

「モップスの話をすると、洋楽のコピーから入っているけど、途中から〈和〉のテイストを採り入れた音楽を作ろうってことでやり出したものの、そりゃあ簡単にはいかなかった。めざすべき世界が完成した、と自分たちでは思っていない。でも、日暮しの音楽を聴いたとき、これも〈和〉だなと思えた。清ちゃんは洋楽に精通していて、特にアメリカの音楽をたくさん聴いていて、その影響があるのは確かだけど、彼のルーツである〈岩手県〉が最初から見え隠れしているように感じましたね。ノスタルジックなムードに洋楽のテイストが上手く絡み合っているし、いいところを突いているなぁと」

武田「日暮しを結成する前は、かなり洋楽の影響を受けていたんです。ギターを始めた頃は、ピーター・ポール&マリーヴェンチャーズ、少し経つとラヴィン・スプーンフルラスカルズという東海岸のグループが好きになって」

「やっぱりいいところ突いてるんだよね。俺も好きだったよ」

ヤング・ラスカルズの67年作『Groovin'』収録曲“Groovin'”

 

武田「で、その後に西海岸の音楽に傾倒していって。ま、良い音楽ならどこ海岸でも好きになるわけです(笑)。アマチュアの頃にはそういう曲のコピーをやったり、ストロベリー・クリームというグループを組んで好きな洋楽曲に近い感じのオリジナルを作ったりしてたんだけど、このままじゃどうしても洋楽を超えられないという気持ちが芽生えはじめて。僕は岩手県生まれなんですが、情緒的なものというか、日本的な心の持ち方を表したほうが自分らしいなと次第に考えるようになっていったんです。そこで、和のテイストを持ったオリジナリティーのあるグループを作りたい、と思い立ち、日暮しを作ったんですけどね」

――確かに日暮しには季節の移ろいを描いた曲が多くあって、日本の四季が色濃く浮かんでくる。

武田「そうですね。そこには四季がはっきりとしていた田舎で暮らしていたことも関係しているだろうし、やっぱり人間は四季によって感情の持ちようが違ってきますからね。ある種古風とも言えるような繊細なものや情緒的なものを出したいな、って気持ちはありましたよ。それから当時、四畳半フォーク的な世界が性に合わなかったんです(笑)。AmからDmに行って……みたいな湿った感じは大嫌いでね。下地となっている洋楽のエッセンスを活かしつつ、四畳半っぽくならないようなコード進行を採り入れながら作ったのが日暮しの曲で」

79年作『記憶の果実』収録曲“秋の扉”

 

――日本情緒と、洋楽から学んだメジャー・セヴンス系の洒落たメロディーを繋ぎ合わせて出来たものが日暮しの世界だったと。

武田「そういうことです。だからDmだったら、Dm7を使うとか、そんな工夫をした。ヴォーカルの尚美ちゃんの声はどちらかというといい意味でオーソドックスな感じというか日本的な声の質の持ち主でもあり、それをマイナー・キーで表現すると日本そのものが強く出てしまう。それを避けるために工夫を凝らすという苦労というのはありました」

――当時、日本的情緒を自身の音楽にどう反映させるか、というような試行錯誤を行っていたミュージシャンは周りに多かったんですか?

武田「いやぁ~どうだろうねぇ。四畳半フォーク的なものは多かったけど」

「そうね、日暮し的な世界をめざすグループはほとんどなかったんじゃない? だってもしあれば僕はその人たちのことも好きになっているはずだから」

――なるほど。

武田「周りの音楽仲間から、〈日本的な曲なのに、清ちゃんはメジャー・セヴンスを結構使うねぇ〉って言われてたぐらいだから。ま、そうでしょ?って答えてたけど。そうすることによって彼女の歌声といい感じに混じり合って、すごく広がりが生まれたんですよ。ただ使い方に関しては法則も何もなくて、ほとんど勘というか感受性の赴くままにでやってたんですけどね。あと詞との組み合わせですよね。湿ったマイナーな感じの歌詞のときに、洒落たメジャー・セヴンスのコードを付けるとちょうど良くなるとか」

「(右手を差し出しながら)一方にロックやリズム&ブルースがあり、(左手を差し出し)もう一方にソフィスティケイトされた音楽があるとして、その二極の間には魅力的なものがたくさんあるわけですよね。僕もモップスをやっていたときにそちらの方向へ進みたいという気持ちを持ちはじめて、ちょうど日暮しの音楽と出会うことになった。僕も日暮しのアルバムのなかで曲を書いているけれど、いつもの日暮しの世界からちょっとこっち(右手側)寄りの曲になっているんですよ。やっぱりプロデューサーという立場としてバランスを考えなければいけないから。じゃあロックやってみてよ、なんてことは決して言わない。ただ、僕はその中間のフィールドで日暮しに合うものはなにかを探りながら作っていたと思う。作っていたというか、その作業を楽しんでいたと思うんだけどね。で、出来た曲を聴かせると、反応が悪いこともしばしばあったりしてね」

――当時、そういう星さんの苦労は気付かれてましたか?

武田「いやぁ、勝さんは日暮しの音楽を深く理解してくれていましたから。理解してくれているんで、ダメだとハッキリ言っても平気だろうな、たぶん傷ついたりしないだろうってわかってたから(笑)」

「傷つくのは傷ついたけど、そこで得た要素を採り入れたものをあとは作ればいいだけのことだから(笑)」

武田「とにかく勝さんとよく一緒に呑んでいたんですよ。呑みながら、ああしたいこうしたい、といろいろ話し合って」

「とにかくずっと一緒にいましたね。いっぱい話をするんだけど、3割は音楽のことで、残りはただ呑んでいるだけという(笑)。ただずっと会っているから、たった3割でもずいぶん話したことになるんですよ。その頃、僕は立川に住んでいたんで、彼のところに行くのが結構楽だったんです」

武田「その頃、僕は国分寺に住んでいました。仕事の帰りがけに寄ってもらったりしてね。そういう密なやり取りを行いながら作ったアルバムだから、満足度はかなり高いわけです」

――当時の忘れられないエピソードを教えていただけますか。

武田「そうだなぁ……。こういう曲が出来たよ、って勝さんが歌ってくれるときがあったんだけど、ヒゲモジャの勝さんがギターを弾きながら女性言葉の歌詞を歌う様子がもう可笑しくて、可笑しくて(笑)。見た目が三国志の武将みたいだったから」

「自分としては良い曲が出来たと思ってるし、〈これどう?〉って彼に訊くと、全然似合わないなぁ、っていう反応が返ってくるというね。気持ち良さそうに歌えば歌うほど、気持ち悪いと思われていたんだね」

一同「ハハハハ(笑)」