早い時期にプロデューサー志向を自覚し、90年代終盤のデビュー以降は多くのヒット曲を送り出してきた冨田恵一。より自分だけの表現を追求する場として立ち上げたソロ・プロジェクト=冨田ラボのニュー・アルバムも今回で5枚目を数えるが、その新作『SUPERFINE』は、これまでのエレガントな佇まいを大幅にリニューアルし、フレッシュなゲストと共にリズム・オリエンテッドな昂揚感を提示している。その変革までの道のりを辿ってみると……

 

 のちに〈ポップ・マエストロ〉と呼ばれることになる冨田恵一が生まれたのは62年、北海道旭川市にて。音楽教師だった母の影響で、物心のつく前から始めたクラシック・ピアノが音楽の原体験だったという。が、彼の興味は次第にポピュラー・ミュージックの方向へと進んでいく。

 「通っていた音楽教室にはエレクトーンの部門もあって、それで、小学校の低学年あたりに〈アンチ・クラシック〉って気持ちになってね。代わりに好きになったのが、ヘンリー・マンシーニニール・ヘフティなど、ジャズ・イディオムを含んだ作曲家が作る映画音楽的なもの。ハーモニーの響きがすごく綺麗だと思って。あとビートルズの『A Hard Day's Night』を16ビートでアレンジしたエレクトーンのレコードも大好きになって、〈ノる〉ってことの楽しさがわかったりして。「奥様は魔女」のようなアメリカ製のTVドラマから流れてくるロマンティックな音楽なんかも好きだったな」。

 中学に入るとビートルズにのめり込み、バンド活動もスタートする冨田少年。そして高校入学と同時にエレキ・ギターを購入して、雑誌で〈上手い〉と紹介されているプレイヤーの音楽を聴き漁る。時代はクロスオーヴァー、フュージョン、AORの黄金期。その界隈で人気者であったアル・ディメオララリー・カールトンの音楽を聴いてみると、幼少期に聴いていたマンシーニの響きや16ビートのおもしろさが隠れていることを発見する。そこで過去とリンクしたことによって、強固な自己肯定感が生まれたことは想像に難くない。同時期に出会ったスティーリー・ダンも彼に多大な影響を与えることに。

 「ラリー・カールトンのコピー・バンドをやっていたとき、ステージでずっとソロを弾かなくちゃいけなかったんだけど、別に舞台の上で主役になりたいわけじゃないんだよな、と。演るのは好きだし、音楽のフォームも好きだけど、自分が前に出るようなことをやりたいわけではないと気付いたの。そんな頃、ラリー・カールトンが参加しているってことでスティーリー・ダンのアルバムを聴くんです。そして、〈このスタイルだ!〉と強く思ったわけです。プロデューサーやアレンジャーによって音の傾向が同じになるって知識も付いていたし、裏方志向が強まっていって、スティーリー・ダンのように音楽を構築することで喜びを見い出せるんだと、高3の頃にはっきり自覚できて」。

 次第に広がっていく音楽的な興味は、大学入学のために上京したことで、よりエスカレートしていく。ちょうど時代はブラコンが最先端になっていた頃。入部した音楽サークルにはAOR的な趣味の持ち主が多くいたようだが、彼はここで日本のポップスに目覚めることとなる。

 「きっかけは吉田美奈子さんの音楽。彼女が六本木PIT INNでやったライヴをエアチェックしたテープがサークル内で出回りまして、日本人にもこんなカッコイイ音楽をやっている人がいるんだ、って興奮したんです。東京出身の先輩たちはもともとはっぴいえんどティン・パン・アレーがすごく好きで、彼らの演奏にあるインスト・パートも辿ってみると、その大元がティン・パンだったりして、あ、そうなのね、みたいなことで。日本語の曲でも悪くないと思ったのがシュガー・ベイブ時代の大貫妙子さんの曲だったり、大学の2、3年の頃には坂本龍一さんがアレンジした彼女のクラウン時代のアルバムも聴くようになって。あ、もっとも大きな変化はその年に(シンセサイザーの)DX-7が発売されるんですよ。で、多重録音機器、リヴァーブ、リズム・マシーンなどを買い揃えたんですね。自宅で多重録音してはそれをバンドで演るというかたちになって、そこからはもういまに直結していると思う」。

 もうこの頃は音楽で食べていくことを考えはじめていたという冨田だが、サークルの先輩のなかには音楽の仕事をしている人もおり、作曲やアレンジもできる彼にお呼びがかかることもしばしばあったそう。音楽仕事が徐々に増えはじめ、スタジオ・ミュージシャンとしてレコーディングでギターを弾く機会も増加。88年にはKEDGEというユニットでアルバム『COMPLETE SAMPLES』を発表している。

 「その後アレンジャー仕事がメインになってきて、遊佐未森さんのプロデューサーとしても知られる外間隆史さんとの仕事が多かったな。b-flowerRAZZ MA TAZZともやった。で、そろそろ自分のことをやろうかなと思ってCOLDFEETWatusi角田敦)とOut to Lunchというユニットを組んだ。その頃に興味のあったモンド・ミュージック的なラウンジっぽいものと、サイケデリックなものをやってました。遊佐さんのアルバム(96年作『アカシア』)には〈Produced by Out to Lunch〉の曲がいくつかありますよ」。

 

〈プロデューサー〉であること

 そして97年、多くのリスナーが彼の名を知る機会が到来する。キリンジとの仕事で、〈プロデュース:冨田恵一〉というクレジットが初めて登場するのだ。

 「僕がやっていたもうひとつのバンド、MOVESが在籍したNATURAL FOUNDATIONの社長、柴田(やすし)さんから紹介された。〈もし興味があるなら彼らのプロデュースをしてほしい〉と。デモテープを聴いたら声が独特ですごく良かった。ただ、曲の構造はデビュー後の彼らに近い感じなんだけど、アレンジが好きなものを好きなところに入れたようなグチャッとした感じで、歌が聴こえなかったんだよね(笑)」。

 最初は〈シンプルに依頼を受けたというかたちだった〉というが、冨田が昔からやりたかった〈70年代的なエッセンスをベースにしたサウンド・メイキング〉の素晴らしさは多数の音楽通から絶賛されることとなり、結果、この組み合わせは大成功。キリンジの作品を通して冨田恵一というミュージシャンの音楽性が広く知れ渡ることになったのだ。

 「Out to Lunchの頃から考えていたのは、日本の音楽界でも制作チームに〈プロデューサー〉が必須の存在としてしっかり組み込まれるようなシステムが作れないかということ。というのも、アレンジャーとして関わっても、歌入れから先のことはディレクターとかの権限になっちゃうんですよ。構築作業が好きな僕としては、歌がここでこうきて、こういうリヴァーブを入れて、とか考えたいんだけど、反映されるのは稀だったりする。最終形までのヴィジョンをどうにか完遂するためには、プロデューサーの権限を得なければいけない。そういう僕のスタイルを知っていたからか、柴田さんは最初からキリンジの仕事は〈プロデューサーとしてお願いします〉とオファーしてくれて。僕にとっては願ったり叶ったりだった。最後の質感の部分まで思う通りに出来た、という意味ではキリンジ作品が最初でもあるんだよね」。

 

好きな質感で完遂すれば

 21世紀に入った頃には、すでにヒットメイカーとして認知されていた彼。MISIAの“Everything”、中島美嘉の“STARS”、平井堅の“Ring”など、冨田印のサウンドがお茶の間でも存在感を放つようになっていく。そんななか、冨田自身の夢の工房とも言える〈冨田ラボ〉としての活動が開始されることになる。

 「ま、キリンジをやれた時点で手応えは十分得ていたけど、やっぱり人間はより多くのことを欲する生き物だから。音楽家的な部分を満たすために、もっと自分なりの表現を追求したくなった。その時々の興味を反映させた曲を書いて、誰に唄ってもらったらいいかを決定する、というようなプロセスを昔から一度やってみたかったんだよね。これは依頼されてできるものでは決してないから。リイシューCDを聴いて心躍る感じを散りばめたサウンドを作る。それを好きなシンガーたちに唄ってもらう。それが自分のいちばん聴きたいもので、そのへんを深く追求している人はいないな、と思っていた」。

 記念すべき船出となった2003年作『Shipbulding』は、大御所から旬なアーティストまで多彩なシンガーを取り揃えて究極のポップスを追求した一枚で、冨田恵一マジックの威力が遺憾なく発揮された名作だ。スタンダード・サイズの名画の如き端正な佇まいを持ちながら、どこか確信犯的なヤバイ匂いも放つその世界は、多くのポップス・リスナーを狂喜させる。なお、同作や2作目『Shiplaunching』(2006年)は冨田恵一のシンガー・ソングライター的な資質が色濃く浮かんでいる点が特色であるが、『Shipbulding』はどの曲もシンガーが誰かを想定せず、前提なしに書いた作品だったという。

 「90年代の後半は、サンプリングで音を作るスタイルってたくさんあったけど、あたかもネタ元のような音楽をそのまま作っている人はいないよな、って思っていたのね。『Shipbulding』はそういう好きな音楽のディテールを再現することにかなりこだわった。西海岸の手練れのスタジオ・ミュージシャンが、1時間ぐらいかけた程度の詰め方で……とかイメージしながら作ったり。ただリズムに関しては、打ち込みやサンプリングが出現して以降の精度で統一しようと思っていた。プログラミングなんだけど、そういう印象を与えないような、生ドラムっぽく打ち込むやり方。その頃、僕が聴いて納得できるクォリティーのものはまだ世の中に存在していなかった。以前、キリンジのプロデューサーとしてインタヴューを受けたとき、記事の見出しに〈質感に異常にこだわっている〉と付いていて。69年のレコードの音は演奏がヘロヘロでも質感がカッコ良かったら全然聴けてしまう、とか話してる。そこに関して敏感だったから、自分の作品では〈好きな質感で完遂すれば、訴求力のあるものになるんじゃないか〉って読みがあって」。

 良質なポップスの研究所、冨田ラボの営業はその後も好調だったものの、作品を重ねるにつれて、予想外の要素が入ったサウンドも顔を出すようになる。大きな変化が感じられたのは、2013年に届いた4作目『Joyous』。フュージョン~AOR的な要素が抑え気味になり、シンセをフィーチャーした(時々ニューウェイヴ寄りな)サウンドが横溢し、何よりも近年のジャズへのシンパシーが端々に滲むことが新機軸と言えた。その方向性をより推進してみせたのが、全曲のプロデュースを担当したbirdの2015年作『Lush』。リズム・コンシャスなトラックはどこまでも刺激的で、そこからは、時代の真ん中を射抜こうとする鋭さが感じられたものだ。同作を聴きながら、冨田ラボの次作の方向性を占っていた向きも少なくなかっただろう。きっとそこには新章が待っているに違いないと……。