撮影:アンサンブルズ事務局

「ノイズをつくり続けることはどんな活動よりも影響力があるんじゃないか」
アーティストと一般参加者による参加型の音楽フェスティバル「アンサンブルズ東京」で来日!

 アンサンブルズ東京は、東京駅前で「みんなで作る音楽フェス」 を標榜し、大友良英のディレクション、アーツカウンシル東京の主催によって開催された音楽祭である。一般から募った参加者とのワークショップを経て行われる、アーティストと一般参加者によるコンサート、プロジェクトFUKUSHIMA!による一般参加者が風呂敷を縫い合わせた「大風呂敷」を敷く会場制作が行われた。今回、いしいしんじ原田郁子トクマルシューゴ芳垣安洋Orquesta Nudge! Nudge!らによるプログラムの中のひとつにフレッド・フリスのワークショップがあった。

 フリスはイギリスの音楽家、ギタリストで、ヘンリー・カウアート・ベアーズ、といったバンドを経て、80年代にはニューヨークを拠点に、ビル・ラズウェルとのマサカートム・コラとのスケルトン・クルージョン・ゾーンネイキッド・シティへの参加などのほか、以降現在までさまざまな国々の多くのミュージシャンとの共演を行い、参加した録音も膨大な数になる。1981年に来日して以降、特に80年代には日本の当時の即興音楽や地下音楽シーンにも精通し、多くのミュージシャンとの交流、共演も頻繁に行っており、大友との交流も90年代より続く。

 大友はアンサンブルズ東京で、外国からのゲストを招くにあたり、まずフリスのことを考えたという。これは、音楽を教えるということの社会的な意味、アンサンブルズ東京のワークショップとの関係などを中心に、現在はアメリカのミルズ・カレッジなどの大学で教鞭をとっているフリスと、大友とともに行った対話の一部である。

(C)新井潔
 

フリス「ミルズ・カレッジは女子大で、音楽学科があり1950年代から続く実験音楽を教える学校として有名です。そこで、大学院生に即興と作曲を教えています。その他にもスイスのバーゼルにあるミュージック・アカデミー、南チリ大学にある音楽学部のカリキュラム再編のために招待されています」

──大友さんには『学校で教えてくれない音楽』という著書もありますが、ミルズ・カレッジのカリキュラムには「即興の教育学」というものがありますね。即興を教えるということについて、今回のワークショップとはどのように関連しますか。

フリス「生徒には『私は音楽の学位を持っていない』と言っています。実際は生徒の方が、私が教えていることをする“資格”をもっていると思います。アカデミックな場であれ何であれ、どんな先生も自分が知っていることを教えています。運が悪く“作曲”を教えているときは知らないことを教えることもありますが。サン・ラジョン・ケージも、自分の曲を演奏するミュージシャンに対して、自分たちの知らないことを演奏することについて話しました。ワークショップで教えるということは、(時間的に制限のある)圧縮された時間ですが、即興自体にはルールがあるわけではありません。たとえば言語を習うときには、まず自分がどういう存在であるかを学ばなければなりません。即興も同じで演奏する中で、まず自分を受け入れることから始めなければなりません。まず自分を受け入れる、そして他人を認識する、その後どんなことが起こるかを見てみる。そんな複雑なことではありません」

──フリスさん自身の活動の中では、即興、作曲、あるいはワークショップのような方法にはどのような関係性がありますか?

フリス「こういう話しをするときに問題になるのが、人が言ったことを理解するために、要素をカテゴライズしてしまうことです。しかし、実際やっている人たちは、それについて考えてはいないでしょう。1950年代から〈即興〉と〈作曲〉という二本柱でいろんな人が議論しています。たとえば〈作曲〉がある意味で時間の経過を遅くした〈即興〉だったり、〈即興〉が自発的な〈作曲〉であるというような議論です。現在ではそうしたカテゴライズには意味がないとされるようになりました。すべては創造的な人生の一部であり、〈教育〉もそのひとつの要素としてあっていいと思います」

──ミルズ・カレッジでは〈即興〉〈作曲〉〈ダンス音楽〉〈劇伴〉などと分類されているようですが。

フリス「悲しいことですがそうですね。今チリの大学でも教えていますが、たとえばシラバスをゼロから作ることができると既成概念に囚われずに物事を組み立てることができます。チリでは、学部生はクリエイティブ・セミナーを年に8回受けなければなりません。毎回違う先生が教えます。芸術学部の中にあるので、音楽家以外にもダンサーやヴィジュアル・アーティストなどいろんな分野の人が教えます。やることはただ一つ“何かをつくる”ことだけです」

(C)新井潔
 

──今回のワークショップはプロとアマチュアが一緒に演奏する場を提供するものだとされています。スキルが同じレベルにある人たちがコラボレーションすることとは違うコラボレーションの形だと思います。フリスさんはかつて「芸術は社会が機能するための基盤となるものである」と言われましたが、こうしたコラボレーションには、社会的な機能としての音楽という側面があると思いますか。

フリス「この質問の前提として、プロとアマチュアの区別が難しいですね。昔ながらの作曲家の定義では、作曲家に学んだ作曲家…という伝統の中にある人が作曲家でした。作曲について、私の場合は、ヘンリー・カウのメンバーとレコーディング・スタジオで演奏しながら学びました。アマチュアは語源的には“何かを好きな人たち”を指す言葉です。私はその意味合いが好きです。プロも自分がやっていることが好きだと思っている方がいい。プロの多くはそう思っているけど、思っていない人もいる。その行為をするのが好きな人がいるのであれば、その人たちと一緒に何かをするのはとても好きです。やっていることが好きで、もっと学びたいのであれば続けられる。その人たちがプロとよばれてもアマチュアとよばれても構わない。今回のワークショップに参加する人たちもおそらく自分のやっていることが好きな人たちだと思います。そして、何かを学びたいと考えている」

大友「そのとおりだと思います。暫定的にプロとアマって言わないといけないところがあって、そう言っていますが、この10年くらい僕のやっている活動では、それを外した方が面白いと思ってる。でも今の社会の仕組みは、いっぱいカテゴリーをつくることでできていて、フェスでいえば、見る人とプロという仕組みができています。そうした仕組みを取り払っていくことのひとつに、アンサンブルズ東京があると考えています。風通しをよくすることで、社会が変わると思っていますが、残念ながら今の社会は違う方向にいっているなぁと思います」

フリス「これはとても複雑な問題ですね。世の中にある音楽のほとんどはアマチュアによってつくられています。演奏することを楽しんでいる人たちが集まってつくっている音楽がほとんどです。ある時点で、『この音楽をもっと沢山の人に聞かせたい、その価値があるものだ』と思うようになる。大友さんや私とは違う別のカテゴリーの中で沢山のプロフェッショナルのミュージシャンがいて、その人達はバーやレストランでジャズや地元の音楽を演奏してお金を稼いでいる。プロ・ミュージシャンの大半はそういう人たちです。大友さんや私は運良く好きなことをやってお金がもらえて、それを世界ですることができている。ある意味、特権的な立場にいる、ということは責任もあるということです。その責任とは、その知識をなるべく幅広く、沢山の人と共有することではないかと思います。大学のアンサンブルで、技術と経験のある音楽家とまったくない音楽家が演奏するような状況になることがあります。そんな時に、経験ある音楽家に『きみたちの仕事は、経験のない音楽家を良く聞こえさせること』だと言います。良い即興音楽家の定義は『他の音楽家を引き立てられること』だと思います。場合によっては、それは何もしないということかもしれません」

撮影:アンサンブルズ事務局
 

──大友さんの活動において、どのように社会が変わることを期待していますか?

大友「3.11の震災後に自分たちで未来がつくれるかもしれないと、ちょっと思いました。実際にそのための活動もしているんだけど、現実の社会は日本を立派にみせることを求めているんだなと最近思ってきて、とても失望している。あきらめて、地味にノイズをだしていこうと思っています」

フリス「ノイズをつくり続けることはどんな活動よりも影響力があるんじゃないかな。それは、蝶のはばたきのようなものだ。自分がやっている活動を誠心誠意やり続けることで、それに影響された誰かがおなじように誠心誠意やっている輪が拡がっていくことが良いことではないかと思っている。実際に学生と一緒に何かをしているとそうなっていくことがあります。毎回演奏するときに、自分が生きているということを表現できれば、見ている人は自分の中で何かを見つけてくれる。これは政治的にも証明されている」

大友「3.11 後にいろいろな活動をしてきたけど、 うまくいかないことも沢山ありました。僕にとって、福島で起こったことにどう対応するかは今でも大きな課題です。でも、いわゆる活動家的なことを目指したわけではありません。そうではなくやっぱり音楽でやっていくことに決めたんです。ノイズをやったり、 即興をやったり、即興音楽家ではない人やこれまで 即興をしたことがない人と一緒にやったり。これは、 僕にとってとても重要なことになりました。そこから見えて来る気づきのようなものを大切にしたい。これが最近の僕の答えです」

 大友は震災以前「音楽家はステージ上でただ音を出すだけの無力な存在」だと言った。かすかで無力な、蝶のはばたきは、しかし、参加者に何らかの影響をたしかにあたえるだろう。そこにこそ音楽の社会的意味があるにちがいない。