小田朋美の名前を以前から知っていた人にとっても、昨年から始めたceroのサポート・メンバーとして知った人にとっても、2017年の小田朋美からは目が離せなくなるだろう。

東京藝術大学・作曲科出身の若きピアニスト/シンガー・ソングライターとして彼女の存在に、まず最初に大きな脚光が当たったのが2013年にリリースされたファースト・ソロ・アルバム『シャーマン狩り』だった。クラシカルな素養を感じさせながら、ポップにもジャズにも飛び地できる才能を、菊地成孔が彼女と共同プロデュースという形でエスコートした。以降、DC/PRGへの加入や、同世代のジャズ・シーンで台頭してきたミュージシャンたちとハイブリッドなシティー・ポップを奏でるCRCK/LCKS(クラックラックス)の結成、そしてさらにサウンドを進化させるための要のひとりとして指名を受けたceroへのサポート参加など、彼女をめぐる状況は、今とても音楽的にざわめいている。

そしてこの最高のタイミングで、彼女のセカンド・ソロ・アルバム『グッバイブルー』が発表された。ceroでも同僚となった角銅真実(コーラスなど)、関口将史(チェロ)をゲストで迎えた以外は基本的に彼女のピアノ弾き語りで構成されている同作は、映画のようなドラマティックな世界観と自身の内面に向き合うシンガー・ソングライター性とが、美しく交錯した傑作だ。その新作の魅力を紐解くべく、彼女の音楽的な生い立ちや考え方、また、あまり語られる機会のない詩へのこだわりなどをロング・インタビューで訊いた。

取材協力:KAKULULU

小田朋美 グッバイブルー APOLLO SOUNDS(2017)

 

譜面で残す快感より弾く快感のほうが大きい

――今、小田さんやCRCK/LCKSのCDをショップに探しに行くと〈日本人ジャズ〉のコーナーに置いてある場合が多いですが、ご自身の音楽的なルーツとしては、むしろクラシックやポップスだったそうですね。

「そうですね。母はピアノ教室をやっていて、ジャズも好きで聴いていたんですけど、私は子供の頃はクラシックやJ-Popを普通に聴いていました。初めて買ったCDは松任谷由実の“最後の嘘”(96年)でしたし、MISIAや浜崎あゆみ、宇多田ヒカルとかを聴いてましたね。クラシックはオーケストラを聴いたりするより、自分でピアノを演奏することで親しんでいる感じでした」

――将来、自分が音楽の道で生きていこうと思うきっかけはあったんですか?

「3、4歳くらいの頃、死ぬのがすごく怖くて(笑)、死にたくなくてすごく泣いていたんですよ。そんなとき母がリヴィング・ルームでベートーヴェンやショパンを弾いているのがいつも聴こえたんですね。それを聴いた私は〈死んだ人なのに音楽は今も残っていて、こんなに影響を与えているなんて、作曲家って最高じゃん!〉って思ったんです。もちろん音楽自体にも感動していたんですけど、最初は〈死にたくない〉という理由で作曲家になろうと思ったんです(笑)」

――3、4歳でそう思ったのってすごくないですか?

「〈作曲ごっこ〉みたいな感じではありましたけど、ベートーヴェンみたいな曲を書きたいと思って、4~5歳くらいで自分で曲を書くようになりました。ただ、そのうち音楽を作るメディアとして楽譜が自分にあまり合ってないと思うようになったんです。耳で聴いたらその曲をすぐに弾けたので、楽譜に合わせるよりも好きに弾ける演奏のほうが性には合ってるなと思っていました」

――実はそこ、気になっていたところなんですよ。譜面の人なのか、それとも自由にやりたい人なのか。

「譜面に対する尊敬は今もすごくあるし、その形でしか残せない音楽もあるとは思っています。でも譜面で残す快感と弾く快感とは違っていて、弾く快感のほうが私にとっては大きかったですね」

 

――耳コピといっても、そこに自分なりのコード感やメロディー解釈というアレンジを加わえていくのが音楽家としての資質だったりすると思うんですが。

「そうですね。その曲を完コピするよりは、自分なりに弾いていい感じにするのが楽しいというのは最初からありました。こっちのほうがいいじゃんって思うようになると、良くも悪くも自分が頑固になるところがあるんです。クラシックのエチュードで音を間違って覚えちゃっていたときに、それを母に指摘されても〈いや、間違ってません。本当はこっちのほうがいいんです!〉みたいなことを言って、楽譜を書き換えてしまったり(笑)」

――言葉にするのは難しいかもしれないですけど、小田さんが感じていた〈好きな感じ〉っていうのは、音楽的にはどういう要素なんでしょう?

「何だろう? 横の流れが大きいかもしれないですね」

――〈横の流れ〉?

「クラシックでもバッハの平均律とか、〈みんなが平等〉みたいなのが好きなんですよ。この人とこの人とこの人が横に対等で、絡み合って、また戻ってきて……みたいな感じで、音のラインにストーリーがあるのが結構好きです。縦の響きが大切なのはもちろんですが、横の流れとして美しくありたいというのはあるかもしれない。ピアニズムとかも華やかなロマン派以降の音楽というより、バッハが良かったですね。ある意味すごく保守的なところがあるのは自分でも自覚しています」

――バッハって保守的なんですか?

「保守的という言い方は語弊があるかもしれませんね。バッハ自身はすごく先鋭的な人だったと思いますし、その音楽的姿勢に憧れてもいるので。ただ 〈好きな作曲家は?〉って訊かれて〈バッハです〉と言ってしまうとあまりにもという感じがして、あまり言いたくないなとも思っていたんですが、やっぱり一番好きなんですよね(笑)」

――学校は、国立音楽大学付属高等学校かを経て、東京藝大音楽部の作曲科に入られたそうですね。

「そうなんですけど、私は結構矛盾してて、大学にいるときは〈(めざすのは)作曲じゃないかもな〉と思ってたんです」

――え?

「高校では合唱部に入って、合唱を熱くやっていたんです。もちろん、創る歓びに目覚めていて作曲が好きだったし、学校で勉強するなら作曲が良いと思って作曲科を選んだんですが、大学に入って感じたのは、楽譜に対する執着という面では周りの人たちとモチヴェーションが違うということ。それと同時に、やっぱり歌いたいという気持ちが強くなっていって、在学中はずっとモヤモヤしていたんですよ。前から歌が好きで、歌いたかったんですけど、自分は〈歌姫〉的な前に出ていけるような人気者タイプじゃないと決め込んでいて。でも歌いたいという気持ちは大切にしようと思っていたので、だんだんと歌うようになっていった」

――歌っていたのは、結構本格的な発声のクラシカルなものですか?

「いや、カラオケです(笑)。30分50円というすごく安いカラオケ屋さんがあって、MISIA、ドリカム、スカパラ、山崎まさよしとかを歌っていましたね」

――男性の曲もレパートリーに?

「そうなんです。男性の曲も好きで歌ってました。(高校時代は)合唱部に男性が数人しかいなかったので、私がテノールとソプラノを掛け持ちしていたんですよ。だからすごく下(の音域)が鍛えられました(笑)」

 

――でもピアノ、作曲、歌とそれぞれ方向性が別々に思えて、自分の中で矛盾を抱えたりはしなかったですか?

「私は矛盾しかない人間だと思ってるので(笑)。ただ、作曲して、キーボードを弾いて、歌を歌ったりという活動が並走できるようになれたらいいなとは思っていました。今はやりたいことをやって生きているなと思えて、すごくうれしいです。ありきたりなことですけど、すべては人との出会いで繋がっていった結果なんですよね」

――自分が表に出るきっかけを作ってくれた出会いは何だったと思います?

「歌に関して言えば大学時代に、高校の先輩が作ったEDMのような打ち込みのトラックに私の歌を乗せてみたことがあるんです。人前に出ることに自信がなかったから、人の作ったトラックに乗せて歌ったり、打ち込みの授業で簡単な技術を得ていたので自分でも引きこもってトラックと歌の録音をしたりしていて。そんなことをやってるうちに〈ライヴを定期的にやったほうがいいんじゃない?〉と、ライヴに苦手意識があった私を引っ張り出してくれた人がいたんです。それでSARAVAH東京というライヴハウスで何か月かに一度のペースでライヴをやるようになった。そこでは、1人とか、2人とか、弦楽四重奏と一緒にやったりとか。そこにファーストの『シャーマン狩り』と今作『グッバイブルー』両作のディレクターである阿部(淳)さんが来ていて、〈CDを作りませんか?〉と声を掛けてくれたんです」

――その時点で、もうオリジナル曲をやっていたんですか?

「ちょっとずつですけど、やっていましたね」

――『シャーマン狩り』での小田さんのデビューは〈超新星現る〉くらいの衝撃があったと思いますよ。

「いやー、私は〈ヤバイ! 買い被られてる!〉と思ってました(笑)。ただ、その時点ではまだ自分の普遍性と特異性について客観的に考えたことがなかったんです。共同プロデューサーの菊地さんは、私がすごくクラシカルな方向に行ってしまうから、それをもっとポップな方向にしたいという想いはあったんでしょうね。自分としてはすごくポップだと思ってやっていたんですけど、根っこにあるクラシカルな発想が抜けていなくて、良くも悪くもシンフォニックでドラマティックになっちゃっていたので」

『シャーマン狩り』トレイラー
 

――今、菊地さんの話が出ましたけど、小田さんのアルバムに菊地さんが関わったことがきっかけでDC/PRGのサポートで参加し、その後正式に加入します。それはポップ、ジャズ、ファンクと、いろいろな要素が小田さんの中に入っていく体験でもあったんじゃないでしょうか?

「クラシックをやっていた人というのが基本的には前提としてあるんですけど、〈そのジャンルじゃない人〉として声を掛けられることがすごく多いんですよ。津軽三味線の二代目・高橋竹山さんとやっているのも民謡の人じゃないからだし、DC/PRGもジャズじゃない人として呼ばれてるんだと思います。隙間産業みたいな(笑)」

dCprG(現・DC/PRG)の2015年のパフォーマンス映像
 

――でも、それは〈なんでも対応できるテクニシャン〉という便利屋的なオファーとも違いますよね。

「そうですね。そうはなりたくないという気持ちもあるし。そのジャンルに合わせてうまくやろうというのはないです。もちろん基本的な敬意はあるんですけど、〈ぜんぜん関係ないことをやってやろう〉みたいな気持ちもちょっとあるんですよね。たぶん、ピアニストとしてでなく〈小田朋美〉として呼んでくれ、みたいな我の強さがどうしてもあって。と同時に、私を呼んでくれる現場からはいつも〈新しい風を吹かせてほしい〉という期待を感じるし、そういうプレイをしたいという気持ちがあります」

――それこそ、子供の頃にお母さんとクラシックを譜面通りに弾くかどうかでやり合ったエピソードに直結する部分でもありますね。

「そうですね(笑)」