INTERVIEW

吉田省念の〈桃源郷〉的音楽人生―父との思い出やくるりでの経験、そして充実のソロ活動を語る

吉田省念『桃源郷』

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  • 2017.11.28
吉田省念の〈桃源郷〉的音楽人生―父との思い出やくるりでの経験、そして充実のソロ活動を語る

シンガー・ソングライターの吉田省念が、昨年リリースの『黄金の館』から約1年半のスパンで、新作『桃源郷』を完成させた。くるり脱退後の初ソロ・リリースだった前作までの、いかにもマイペースと見えたスタンスとは裏腹に、吉田は〈40歳までは毎年アルバムを1枚リリースしていきたい〉と語った。それでいて、思ったことをどんどん出すというようなテンションではなく、きちんと練りこまれたうえで、表現としてのポップな広さをますます増したアルバムの内容にも唸らされる。

日本を代表する現代美術家であった父、ヨシダミノルの交友関係から元・村八分のチャー坊にギターを渡されたこと、バンドよりも宅録に打ち込んでいた20代のこと、くるりのことをほとんど知らない状態で加入し活動を共にした時期のこと、そして今、父のアトリエを改造した自宅スタジオで生み出される音楽のこと。京都という土地に足を着けながら生きる彼の音楽人生においての、いくつかのキーワードを入り口に、生い立ちから新作へと至るいろいろな話をロング・インタヴューで紐解いてみた。

吉田省念 桃源郷 Pヴァイン(2017)

 

父、村八分、ゆらゆら帝国、裸のラリーズ……省念少年を形作った数々のアーティスト

――前作『黄金の館』から約1年半での新作リリースというスパンは、それまでの吉田さんのマイペースに見えた活動からすると、急に早まったという感じもありますが。

「そうですね。(2013年に)くるりを退いて、1人で音楽活動をもう一度やっていくうえで、すぐには『黄金の館』に行けなかったんですね。35歳のときに〈もし今から年に1枚ずつ作るんであれば40歳までに5枚作れるな〉と思って、それを目標にしていたところはありました」

――現代のアーティストとしては、年1枚というのはわりとペース設定が早いですよね。

「でも、それはやり方次第だと思うんです。まあ、今は強がりでそう言ってるだけで、急にスランプに陥るかもしれませんが(笑)、できることはやってみようかなという気持ちです」

――もっと言うと、その年ごとの自分を記録してゆくことに興味がある、とも言えますか?

「そうですね。残りわずかな30代を記録して、それをもって40代に臨みたいなというのはあります。父(現代美術作家のヨシダミノル)が2010年に亡くなったんですけど、自分が今、スタジオにしてる実家が、父親が64年に建てたアトリエ兼自宅だったんですね。亡くなってからの7年間は、父の膨大な作品の整理をしながらもバンド活動や録音など諸々やってまして、ずらっと時系列で見れるようにしたりして。アーカイヴを作れたらなって」

――そうやってお父さんの作品を時系列で整理していることも、1年に1枚アルバムを作って、そのときの自分を残すというモチヴェーションになってるのかもしれませんね。表現する人は、その都度自分を記録しておきたいというタイプと、そういうものはあくまで下絵で完成品だけ見てもらいたいというタイプに分かれると思うんですが、吉田さんは前者なのかも。

「そうかもしれないです。そういう意味では、父親もそうだったかも。まあ自宅兼アトリエなので、僕らには日常的だったというのもあるんですが」

吉田省念の父・ヨシダミノル氏による朗読パフォーマンス(2009年「山水人2009」より)
 

――お父さんは70年代から京都で村八分のメンバーと交流があって、その縁もあって、やがてチャー坊さんのギターを吉田さんが10代の時期に借りるというエピソードがありますよね。

「父は70年から8年間NYに滞在してたんですが、その頃アメリカを放浪してたチャー坊がソーホーに遊びに来てたみたいです。僕がみなさんと会っていた頃は90年代で、村八分の人だという意識はしていました。2枚組(73年作『ライブ』)や『くたびれて』(71年のスタジオ録音を収録した91年作)を音源としては聴いていましたし。でも、グループとして家族と交流があったわけではなくて、チャー坊はプライヴェートで家に来ていたんですけどね。わりと落ち着いた素の姿というか、その人となりを見てました」

――具体的には、どんな感じで接してたんでしょうか?

「僕もまだ中学生だったし、そんなに深いところで接してたわけではないんです。チャー坊も若いころは激しかったという話を聞くんですけど、僕が見てた頃は晩年の姿で、トゲが取れていたというのはあります。だからパブリック・イメージとは少し違うかもしれない。ジョージ・ハリスンが亡くなる2年くらい前に、リバプールのピート・ベストのところに行って〈あのときはバンド(ビートルズ)をクビにしてごめんな〉って謝りに行ったっていう話があるじゃないですか。自分の一生をたどる時期というのがあって、もしかしたらチャー坊もそういう感じで父のところに来てたのかもしれないです。〈子供(省念)がギターやるなら、いいのを使ったほうが上手になるからこれ使えよ〉って貸してくれて、それから半年くらいで亡くなったので」

――それで、チャー坊の追悼ライヴで、あのギターを受け継いだ者として舞台に立つことになったわけですね。

「たまたまなんですけどね。今となれば運命的というか」

――村八分は、吉田さんが自分の音楽を日本語で作っていくうえでのバックボーンのひとつでもありますか?

「そうですね。当時は村八分とか、90年代の京都のシーンで活動してたちぇるしぃとかも聴いてました。はっぴいえんどや細野(晴臣)さんも今となっては大好きですけど、聴き始めたのは90年代後半からで。そこで、あらためて日本語の使い方、日本語の歌詞を意識するようになったんです」

2005年にリリースされた『村八分 BOX -LIMITED EDITION』のトレイラー映像
〈90年代の村八分〉とも呼ばれたちぇるしぃのライヴ映像
 

――ゆらゆら帝国の衝撃も大きかったそうですね。

「『3×3×3』(98年)の衝撃は、ものすごく大きかったですね。日本語の使い方やリズムがロックになじんでいるというのはなかなかできないし、カッコいいなと思いました」

――でも、そういうバンド・サウンドに感化されながら、吉田さん自身は宅録に向かっていったという。

「バンドもしていたんですけど、スタジオ作業というか、音源を作っていくということにも興味があったんです。当時、打ち込みをやってる友達にも出会うようになって、彼らが自分の部屋をアトリエにして音源を作れるというのを見て、すごくうらやましく感じたんです。なので〈じゃあ、(打ち込みではなく)生演奏で宅録やってみたらどうかな?〉と思って、ずっとやってました。打ち込みをゼロから学ぶより、生の音で宅録するほうが早かったんだと思います」

――当時、吉田さんがそういう音楽を作っていて、その作品が注目されたり、リリースの声がかかったり、ということはなかったんですか?

「今でいうZINEと18曲入りの音源を組み合わせたものを作って友達にあげたりはしてましたね。ただ音楽を作って楽しめればいいな、くらいの感じで」

――MySpaceに音源をアップしたりは?

「ぜんぜんしてなかったです。2000年代にやってたバンド〈すみれ患者〉は即興性の高いバンドでした。バンド募集のチラシで集まるような仲間ではなく、話のできる仲間で集まって。(裸の)ラリーズみたいな。SNSやネットで発信するというより、人伝で〈こんなやつおる〉みたいな広がり方が理想でした」

――ちょっと脱線しますが、ラリーズといえば、つい最近、Buzzfeed.comによど号で北朝鮮に渡った元メンバー、若林盛亮氏のロング・インタヴューがアップされて話題になりましたね。

「読みました! 生々しかったですね」

――それこそお父さんが60年代末の京都でラリーズを目撃したり、すれ違ったりしていたのかも。

「どうなんでしょうね、それはわからないです」

 

ソロ活動開始、そしてくるり加入へ

――そんな2000年代のはじまりを経て、2008年に最初のソロ音源集『SONGS』、その翌年に吉田省念と三日月スープ名義での『Relax』と、立て続けに作品がリリースされます。とりわけ後者は、どろっとしたサイケ的な感覚とは真逆の、アコースティックでシャキッとしたアルバムでした。2005年頃から弾き語りは始めていたそうですが、三日月スープ結成にいたる変化のきっかけはどんなものだったんですか?

「もともと中学生の頃、古いブルースとかに出会ったんですけど、そういう指向は一回封印されて。そこがまたポンと出てきた時期だったんです。そのタイミングで、アコースティックな楽器を使う音楽に興味が湧いて、エリザベス・コットンの歌とか、ラグタイム・ブルースとかを、サイケ耳で聴いたわけです」

※ピート・シ―ガ―が発見し、53年に当時63歳という高齢でデビューしたフォーク/ブルース・シンガー

エリザベス・コットンのパフォーマンス映像
 

――サイケ耳(笑)。

「音としてサイケデリックな感覚っていろんなジャンルに散りばめられてる気がして。そのサイケ耳で古い音を聴くのが楽しかったんです。当時、バイトで夜勤をやってて、いつもNHKラジオの〈ラジオ深夜便〉を聴いてたんですよ。あの番組の午前3時台が〈にっぽんの歌 こころの歌〉というコーナーで、戦前の昭和歌謡がかかるんですよ。そこで中野忠晴とか淡谷のり子とかを聴いてて〈いいな〉と思ったりしてて(笑)。その両方がミックスされた感じはあるかもしれないです」

中野忠晴の1939年の楽曲“チャイナ・タンゴ”
 

――へえ、それはおもしろいですね。確かに真夜中の昭和歌謡にも、心地よいだけじゃなくサイケ的な効果もありそう。

「聴いてるシチュエーションが良くて。その時間帯に起きてる孤独な感覚ともマッチして」

――三日月スープのメンバーは、どうやって決まっていったんですか?

「最初は僕ひとりだったんですよ。当時買ったマーチンのギターを使って曲を作り始めて。そこから〈やっぱりコントラバスとやりたい〉という憧れがあって、友達のパーティーでたまたま僕の前に座った植田(良太)くんに声をかけて、誕生日も一緒でフィーリングが合うかもしれないという単純な理由で誘いました(笑)。クラリネット、鍵盤とメンバーも増えて、ファンファンが入って5人でやってた時期もあったんですけど、最終的には植田くんとファンファンとの3人でやってました。やっぱり自分で宅録をしてて、リズム面でドラムがキモになるということはわかってたんですが、なかなかドラマーに出会えなかったこともあって、ドラムレスでの編成に意識がいったというのは自然ではありました」

スティール・ギター奏者、岩城一彦を迎えて行われた吉田省念と三日月スープのライヴの模様
 

――そして、大きな話題を呼んだのが、2011年、吉田さん、ファンファンさんのくるり加入です。

「僕は京都時代のくるりをあまり存じ上げてなかったんですよ。友達に〈それはすごいことやで〉と驚かれましたし、〈確かに(くるりは)曲数からもそれだけのキャリアがあるんだな〉と思いました」

――それまでに岸田(繁)さんと個人的な面識は無し?

「三日月スープで〈ボロフェスタ〉に出たときに、〈岸田さんが来てるからCDをプレゼントしたらどう?〉って、studio SIMPOの小泉(大輔)さんに声をかけてもらったんです。でも、CDを渡しながらも、僕は内心なんのことかわかってないところがあって(笑)」

――でも、加入の決断は自分で下した?

「はい。そのままの勢いで」

――でも、そこはひとつの大勝負ですよね。

「追い風というか、上昇気流に乗るときはやってみないとわからないと思ったし、そこで躊躇しても新しい世界に行けないような気がして。三日月スープのメンバーには〈こういうことになったんで、しばらくは二足のわらじを履かせてくれ〉と頼み込みました。まあ現実には、くるり一足で精一杯だったんですけど」

――くるり在籍時代(2011年6月~13年4月)は、アルバム『坩堝の電圧』(2012年)を含む約2年ですけど、そこでの経験は、その後の本格的なソロ活動開始にとっても大きな影響を与えたものになったんですよね。

「それはもちろんですね。レコーディングにおいても、あれだけ贅沢にスタジオ・ワークをできるバンドって本当に少ないじゃないですか。ものすごく勉強になりました」

くるりの2012年作『坩堝の電圧』収録曲“everybody feels the same”
 

――岸田さんもオーケストラの作曲を手掛けられたり技法が多彩だし、吉田さんは宅録マインドが根底にある。意外と通じ合う部分も多かったのかなと思うんですが。

「そうですね。僕がスランプに陥ると〈ひとりビートルズ〉という体で宅録をやるんですけど、作った音源を岸田さんに聴いてもらったりしました。〈いいやん〉って言ってくれて、そういう感覚を共有できる人ってそんなに多くないですからね。ただ、90年代に岸田さんたちは同時代の新しい音楽を追い求めて聴いていたと思うんですけど、僕はまったく逆で、古い音楽を新しいものとして聴いてたんです」

――くるりを経由して吉田さんの音楽が傍目に見てなにか変わったとしたら、イメージとしてひらけた景色の獲得というのも大きいのかなと。もっと広い場所に届くポップスとしての可能性をつかんだような。

「それまでは曲を作ることを重く捉えていたのかもしれません。くるりのメンバーとして自分が参加していた時期は、まずおもしろいと思ったアイデアをヒントに最初のデモを作ったり、ある種理想的なバンドとしての制作をしていたと思うんです。自分ひとりで考えて、制作するまでは〈そういう作り方してええんかな?〉みたいな躊躇もあったんですけど、そうやって素直に楽しみながら音楽を作れる仲間に出会えたので、すごく楽になって救われた部分がありました。〈楽しんでええんやな〉みたいな」

――それまでは、もっと最初から緻密な作り方を目指していた?

「ひねくれてるところがあったんだと思います。くるりに出会って、〈なんとまあ素直な人たちや〉と思ったし、音楽に対してピュアに吸い付いていくような感じというのがある人たちで。もちろん音楽を作るうえでは考えなきゃいけないんですけど、まずは仲間で作る楽しみが大事だということを再認識しました」

 

日常と隣り合わせの別世界〈桃源郷〉の心地よさ

――そういう意味では、くるり以降のソロ第1作目だった『黄金の館』は、(京都のライヴハウス)拾得での月例ライヴを積み重ねていたことがベースにあったわけだし、音楽を作る楽しさを吉田さんも獲得してゆく過程の報告みたいな面がありましたね。やりながら自分には何ができるか探してたような。

「めちゃありますね。前作はスタジオワークのベースをゼロから作るところから始めて、ミックスも時間をかけて、エンジニアの方と可能性を確認しあう作業をしていたので、完成まで時間が必要だったんです。今回はその成果もあって、いい具合な苦しさだった(笑)。どっちにしろ苦しいんですけど(笑)」

『黄金の館』収録曲“晴れ男”
 

――でも、『桃源郷』のほうが自由にやれてる感じはあります。〈何をやっても自分は自分〉というか。

「ああ、だいぶ取り戻した感はありますね。自分のいるところに着地しだしたなと」

――ブラック・ミュージック的な“Stupid Dancer”が入ってきても、ありだと思える自信みたいな。

「あんまり深くは考えてないかもしれないですけど(笑)」

――今のバンド・メンバー、自分のスタジオ、信頼のおけるエンジニアという関係性の継続により密になったという部分も大きいですよね。

「本当にそうだと思います。時間をかけて向き合ってるつもりです」

――吉田省念BANDの演奏もいいですけど、ゲスト・ドラマーとして今回も参加している(伊藤)大地くんのドラムが前作に続いて、素晴らしいですよね。

「大地くんじゃないパターンもいろいろ試したんですが、忙しいなかでバーッとやって来て、僕の鼻唄のラフに対してビシッとラインを引いてくれて、それを聴いた僕もまた音を新しく重ねて。世界観の幅がドーンと広がったヴァージョンが実現できる、瞬間的な速さが気持ちよくって」

――それはパーマネントなバンドともまた違う快感なんでしょうね。

「そうなんですよ。だから、『桃源郷』は、まだバンドとソロが混じった感じなんですけど」

――アルバム・タイトルの『桃源郷』というのはどこから? 前作『黄金の館』もそうでしたけど、パラダイス感が共通してありますよね。

「アルバムを作る前は、なんか〈無人島〉とかエキゾチックなタイトルがいいなと思ったんですよ。そういう言葉をいろいろメモしてて。その中で〈桃源郷〉が出てきたんです。ただ、そのときの僕のなかでは〈桃源郷〉という言葉自体へのイメージが、女の人が薄いひらひらのシルクをまとってふわっと舞ってるような現実味のあんまりないもので。でもいろいろ調べてみたら、そういうユートピア志向ではなく、普段の営みがあって近所の仲間と酒を呑んで楽しいとか、仕事の後に本を読んですごく集中して物語のなかに入り込むとか、日常のすぐそばの物事が捉え方次第で変化することを楽しめる世界のことだったんです」

――突然現れる異世界とかではなく、自分の日常と地続きにある世界。

「そうです。自分の日常ありき。だから、すぐ近所にあるんだけど実体はない哲学を表してる。これはいいなと思ったんです。すごく誤解を招きそうな言葉だし、〈まだそんなこと言うの早いんちゃう?〉みたいな賛否両論いろいろ言われましたけど(笑)。でも、僕のなかで一致したから、今回はタイトルにしました。外に侵略して獲得するんじゃなく自分が生み出す桃源郷。これはいいんじゃないかと。旅に出てから家に帰ってくると、自分の住んでいる場所に新しい発見があったり、良さを再認識したりするそういう感覚にも近いんですよね」

――賛否両論あったってことは、逆に他のみんなが言葉の意味にとらわれすぎてるということなんでしょうね。

「そうかもしれません。でも〈まだ早い〉って言われたのがいちばん僕には残ってて。〈『桃源郷』って隠居生活みたいなものじゃないの?〉って意見もあって、でも年齢を重ねてからじゃなく、『桃源郷』って今出すから言葉本来の意味が生きる良さがあるんじゃないかなと思うんですよ」

――日常の中にお父さんの作品があったり、村八分のメンバーが遊びに来てたり、古いブルースにサイケな感覚を感じていたり、まさに今日話していただいたことがかなり『桃源郷』な感覚に通じてたと思います。そういう心地よさが、今は自宅のスタジオで音楽を作っているとふわっと浮かび上がる。その可能性の提示としても正しいんじゃないですか? それでも〈まだ早い〉という意見があるのなら、来年作るアルバムにそれ以上の楽園なタイトルを付けたらいいのかもしれないし。

「何にしようかな(笑)? 自宅スタジオで作ってから、スペーシングというテーマで2作来てるので」

――〈スペーシング〉ってワードが今出ましたけど、音楽のなかに広さがあるというのが吉田省念作品の魅力だと思うので、そこはどんどん広げていただいて。毎年1枚出るというのも期待するだけで楽しいですし。

「忘れられないようにがんばります(笑)」

 


Live Information
〈“黄金の館” No,46〉
2017年12月14日(木)京都 拾得
出演:吉田省念 BAND
Yatchi(piano)/谷健人(bass)/渡辺智之(drums)
Special Guest:Senoo Ricky
開場/開演 17:30/19:00
当日 ¥2,000
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