INTERVIEW

sugar plant『headlights』 伝説的ドリーム・ポップ・バンド、18年の沈黙を経てリリースした新作を語る

sugar plant『headlights』 伝説的ドリーム・ポップ・バンド、18年の沈黙を経てリリースした新作を語る

2000年代後半以降、全世界的にドリーム・ポップが脚光を浴びる遙か以前、日本に静謐な夢幻世界を奏でるバンドがいた。その名はsugar plant。93年にヴォーカル、ベースのショウヤマチナツとギターのオガワシンイチを中心に結成された彼らは、USインディーをルーツに、この度、リマスター再発された96年のアルバム『trance mellow』をはじめとする作品リリースと3度のアメリカ・ツアーを含むライヴ活動を重ねながら、トランス・シーンやアンダーグラウンド・パーティー〈Life Force〉などと共鳴し、甘美でメロウなサイケデリアを育んでいった。

2000年にDRY&HEAVYやLittle Tempoのダブ・エンジニア、内田直之を迎えた傑作アルバム『dryfruit』のリリースや映画「ピンポン」のサウンドトラックへの参加を果たし、さらなる活躍へのが期待が高まっていたが、バンドは沈黙期間に突入。断続的なライヴ活動は行なっていたが、2018年、ついにこれまでのキャリアを総括する日本のドリーム・ポップの金字塔といえる新作アルバム『headlights』を完成させた。

よりエモーショナルに深化した歌を携え、再び音楽シーンに浮上した日本におけるドリーム・ポップのパイオニアに現在の心境を訊く。

sugar plant headlights mango knife music(2018)

sugar plant trance mellow tremolo records(2018)

日本のトランス・シーンで起きていたことを表現するには、あくまでバンド・サウンドで形にしよう

――93年結成のsugar plantは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド直系のUSインディー、ヨ・ラ・テンゴやギャラクシー500、ロウに通ずるサウンドを奏でるバンドとして活動を始めて、95年にトランス・シーンと出会うことで独自の進化を遂げます。どう独自だったかというと、当時のイギリスにはダンス・ミュージックに共鳴したシューゲイズ・バンドがいたのに対して、sugar plantがシンパシーを寄せていたUSシーンはダンス・ミュージックと距離があったので、手本となるバンドがないなか、手探りで音楽性を拡張していったところにあります。

ショウヤマチナツ「95年の夏に初めて行ったトランスのレイヴに衝撃を受けて、パーティーに通う日々が始まったんです。ただ、そのあと96年に出したアルバム『after after hours』にはレイヴでの経験というより、95年の春に約20箇所を回った、初めてのアメリカ・ツアーの影響が表れていると思いますね」

オガワシンイチ「アメリカをツアーで回ってみて、ダンス・ミュージックやレイヴ・カルチャーはニューヨークやサンフランシスコだったり、局所的にはあったかもしれないけど、あの国は〈全米〉という括りが成り立たないじゃないですか。だから、〈ドラムンベースって知ってる?〉って訊いても、〈ラジオで流れてくるのを聴いてるよ〉っていう、その程度の話で、確かに文化としてのレイヴは当時のアメリカには根付いていなかったし、アメリカのバンドがレイヴ・カルチャーに向かう流れもなかった。

じゃあ、アメリカのバンドは何をやっていたかというと、メンバーの家にあるガレージで水パイプを持ち出してきて、バンドを使ったサイケデリックな実験をやっていたんですよ。それはツアーで回ってみて、初めてわかったことだったし、そういう音楽の在り方を目の当たりにして、自分たちの身の丈にあった音楽をやるべきだなと思ったんですよね」

――ええ。

オガワ「つまり、日本独自のトランス・シーンという小規模な場所で起こっていたことを表現するにあたっては、例えば、TR-808のプログラミングを唐突に用いたりせず、あくまでバンド・サウンドで形にしよう、と」

――トランスから受けた影響を、打ち込みを交えたバンド・サウンドで具現化したら、対外的に変化はわかりやすかったと思うんですけど、あくまでバンド・サウンドを貫いたところがsugar plantのさらなる独自性ですよね。

オガワ「何かのムーヴメントが起こっても、その一部になりたいという気持ちは僕らのなかになかったし、それ以上に自分が体験したことをバンド・サウンドでそのまま出せば、それが自分たちのオリジナリティーになると思っていたから、当時の時流とは違っていていいし、むしろ、その違いを極めていきたかったんですよ」

 

良い作品を作るしかないなって

――当時は渋谷系と呼ばれていたシーンが注目を集めていましたけど、sugar plantがその流れで紹介されることもなかったですし。

チナツ「ははは。確かに渋谷系と呼ばれるバンドで仲いいバンドは全然いなかった。というか、私たちは神奈川のバンドですからね。今でこそ横浜のシーンはありますけど、当時はなかったから、必然的に東京でライヴをやっていたんですけど、東京のシーンは音楽的にもメンタリティー的にも距離があったんです」

オガワ「そうね。だから、ANTIKNOCKで対バンしたCitrusとか、一緒にレイヴで遊んでいたオキシュン(沖野俊太郎:元・ヴィーナス・ペーター)くらい? 90年代は横の繋がりでつるむバンドは全然いなかったですね」

※新宿のライヴ・ハウス
 

――さらにいえば、国内で孤立していたからこそ、sugar plantの意識は海外に向けられていて、ファックスで海外とやり取りしながら、インディーズのバンドが海外に出ることが稀だった時代にロウやヨ・ラ・テンゴ、シルヴァー・アップルズと対バンしながら、アメリカをツアーをしていたんですもんね。

オガワ「そう。常に海外に目が向いていたことは確かで、当時は少年ナイフやBOREDOMSがソニック・ユースのフックアップで人気があるらしいとか、アメリカのライヴハウスに行くと必ずギターウルフとMELT-BANANAがそこでライヴをやったときのステッカーが張ってあって、〈お前ら、MELT-BANANAって知ってるか?〉っていう会話から話がはじまるっていう。

まぁ、そういう時代だったんですけど、実際に行ってみたら、日本では説明しなきゃいけないことがすぐにわかってもらえたし、そういう体験を踏まえて、日本でどうするか?ということに関してはすぐにどうなるという話でもなかったので、良い作品を作るしかないなって」

――90年代半ばはトランス・シーンから出てきたROVOやSOFTといったジャム・バンドが注目されつつあった時代でもありますが、sugar plantのサイケデリアはジャムから紡ぎ出されるものではありませんでしたよね。

オガワ「サイケデリック・バンドの定義って、すごく難しくて、当時はピンク・フロイドのファーストみたいなガレージ・ロック感のある音楽をサイケデリック・バンドと呼んでいて、自分たちのことをサイケデリック・バンドだとは思ってなかったというか、気持ちいい音楽をやってるというくらいの認識だったというか。とはいえ、当時、アメリカでは〈お前ら、サイケデリック・バンドなんだろ?〉って言われたりはしてましたし、今そう呼ばれることに異論はないんですけどね(笑)」

――アメリカのサイケデリック・ロックと一言で言っても、シアトルのガレージ・サイケがあったり、南部のテキサス・サイケがあったりしつつ、西海岸はグレイトフル・デッドの系譜、東海岸はヴェルヴェット・アンダーグラウンドの系譜があったりしますもんね。

オガワ「そう。だから、僕らは東海岸にシンパシーがあって、アルバムをリリースしていたのも東海岸のレーベルだったし、東海岸の人たちのメンタリティーにも合致してたというか。みんなヴェジタリアンで、3人くらいが一緒に住んでて、一人は絵を描いてる、みたいな(笑)。

そういう人たちが多かったというか、僕たちと交流のあったインディー・シーンはインテリで、アートにも理解があって、ヴェジタリアンで、っていう人たちの集まりだったから、人種も関係なく歓迎してくれたんですよ。それに対して、西海岸はいまだによくわからない(笑)」

チナツ「当時のツアー日記を読み返してみても西海岸での対バンのことは全然書いてなかったりするし、当時聴いてたのも印象に残った対バン相手も東海岸とその周辺のバンドが多かったのは確かですね」

――つまり、東海岸のインディー・ロックの影響を交えて、トランスのサイケデリアをバンド・サウンドに変換した結果、いまでいうところのサッドコアだったり、ドリーム・ポップと呼ばれる音楽に自然と発展していった、と。

オガワ「特にトランスは全部なしにして、お前はどうなんだ?って問うような音楽だったというか、遊びに来ている人たちも革命が起こったというくらいの真剣度だったから、そういうなかで遊んでいたら、これとこれを取り入れた4つ打ちの音楽をやろうという安易な発想にはならないし、自分で生み出すしかないなって思っていたんですよ。

ただ、トランスのパーティーでは抽象的な電子音しかかからなかったので、踊っている時はそれでよかったんですけど、家で聴けるものではなかったし、自分たちは(もっと具体的な)音楽が好きだったから、遊んでいるうちにトランスが物足りなくなったんですよ。そんな時に友達に誘われて、〈Life Force〉というパーティーに遊びに行ったんです」

――〈Life Force〉というのは、93年から現在も続くアンダーグラウンド・パーティーですが、長くレジデントを務めたイギリスのニック・ザ・レコードは、ジャジーなディープ・ハウスだったり、ディスコやファンク、フュージョン、アフロといった生音の音楽をサイケデリックに超ロング・セットでプレイする素晴らしいDJですよね。

チナツ「そう。〈Life Force〉で一番びっくりしたのは、生音を使った曲で、めっちゃ気持ち良く踊れたこと。電子音のみのトランスは、パーティー体験にヤラれていただけで、音楽としては好きじゃなかったというか……」

オガワ「〈Life Force〉ではトランスと同じような真剣度のパーティー体験が味わえたし、かかってる音楽も家で聴けるものだったから、その両方があって、あれは素晴らしかった」

チナツ「初めて行ったときから、その後、10年くらいは欠かさず行ってたくらい(笑)」

オガワ「自分たちのなかでトランスが終わっていき、家でみんなで遊びながら、マーヴィン・ゲイだったり、ブラック・ミュージック方面に向かう流れがあり。そして、sugar plantとしては、96年に『trance mellow』、98年に『happy』という2枚のアルバムで、音を広げて広げて、さらにそこに情念を入れようという試みを続けていたんですけど、音を広げるのは限界まで行ったかなということで、今度は外に向かって広げるんじゃなく、内に向かっていったというか、その音像を決めて作ったのが、2000年のアルバム『dryfruit』になるのかな」

チナツ「あのアルバムは、70年代のブラジル音楽にも影響されていた気がしますね。例えば、ジョアン・ドナートとかアジムスのドライな音の質感であるとか……」

オガワ「あと、当時聴いてたディープ・ハウスとかね。意識してやろうとしてたわけではないんだけど、『dryfruit』は、影響としてはソウルだったり、ブラック・ミュージックが大きくて、それで同じサイケデリック感を追求したアルバムということになるんだと思います」

 

アフターアワーズが本番になってた

――個人的にこのアルバムは、パーティーで一晩遊び倒した後、家でアフターアワーズ的に聴くのが好きな作品でもありました。

オガワ「ははは。それはうれしいですね。自分たちがトランスで遊んでたときも途中からアフターアワーズが本番になってたというか」

チナツ「(ダンスフロアよりは)アンビエント・フロアの方が好きでよく行ったり、車のサラウンド環境だったり、部屋で音楽を聴きながら遊んだり」

オガワ「パーティーで遊んでいると音楽の聴き方がどんどん更新されていくし、文脈や歴史的な意義をふまえて選ばれた一般的な名盤100選も意味がなくなって、体感で判断できるようになるんですよ。だから、遊びながら、自分たちなりに音楽の捉え直しがあったし、そうやって音楽を聴くアフターアワーズが自分たちにとっては重要になっていったという」

――そして、『dryfruit』は初めて打ち込みのドラムを用いたアルバムでもありますよね。

オガワ「最初は生ドラムでの演奏を録音していたんですけど、自分たちの欲しいグルーヴがただ演奏しただけでは出せないなということになって、途中から生ドラムをサンプリングして、それを配置していったんです。僕らのレコーディングではあらかじめデモテープを作らないので、ヘッドアレンジしたアイデアを書き留めたノートをもとにリハーサルして、レコーディングで録った音をもとに、そこから少しずつ変えていくんです。だから、完成形を目指してレコーディングしているわけではないというか、即興的な部分の比重が高いので、自分たちでもやってみるまではどうなるかわからなかったという」

――『dryfruit』は、インディーズながら、写真が野村浩司さん、デザインはムーグ山本さん、スタジオはBAZOOKA、マスタリングがオノセイゲンさんだったり、制作スタッフも制作予算も贅沢な作品が、DRY&HEAVYでお馴染みレゲエ畑のエンジニアである内田直之さんがミックスを手がけているところにも音楽的な深化を感じました。

オガワ「内田さんは(BOREDOMSのHILAH、Eda、YOSHIMIらが参加するテクノ・ユニット)AOAを手がけていた流れでお願いしたんですよ。しかも、アナログ・レコーディングということだったので、それはいいねって」

チナツ「スタジオでの作業で時間が余ったので2曲のダブ・ヴァージョンを作ってもらったんですけど、そのライヴ・ミキシングがすごすぎて、感激しましたもん」

 

歳を取ると、自分が通ってきた音楽が全部統合されてきちゃうんだなって

――そういう意味で『dryfruit』はそれ以前の作品よりクロスオーバー化が進んだ作品でもありました。さらに2002年には映画「ピンポン」のサウンドトラックに“rise”が収録されて。同サントラからは、スーパーカーがトランスからの影響を反映した“YUMEGIWA LAST BOY”も大ヒットし、sugar plantのやってきたことにようやく時代が追いついた感はありました。さらに、2004年に始まったRAW LIFEはあらゆるジャンルのオルタンティヴなリスナーがパーティー・カルチャーを発見した機会でもあったわけで、そのタイミングでsugar plantの音楽が鳴っていなかったのは残念でしたね。

オガワ「『dryfruit』リリース後というのは、プライヴェートでうちら2人の間が大変だったから、バンドを止めようとは思わなかったんですけど、活動は難しくて……」

チナツ「関係性が変われば、曲作りのやり方も変わるじゃないですか。だから、どうすればいいのかを模索していたんですけど、そうこうするうちに時間が経ってしまったという」

オガワ「次のアルバム用の曲を揃えて、デモを作るところまでやったんだよね」

チナツ「レーベルからアルバムの話を2回くらいもらったのに、結局出来ず(笑)」

98年作『happy』収録曲“rise”
 

――そして、2008年に代官山UNITでのイヴェントで久しぶりにsugar plantのリユニオン・ライヴがありました。あのイヴェントはシューゲイザー・リヴァイヴァルであったり、バレアリックの盛り上がりのなかでsugar plantを捉え直そうという試みでしたよね。

オガワ「でも、あのライヴ以降も復活できなかったという」

チナツ「ずっとやりたいとは思っていたんですけどね」

オガワ「sugar plantのアルバム制作は上手くいかなくて、DJやったり、一人でトラックを作ったりもしつつ、僕は社会人として忙しかったし」

チナツ「私も会社で働きながら、cinnabomとしてソロ活動をやったりね」

――cinnabomとしては2枚のアルバムをリリースしていて、2005年の『in the garden』はサイケデリックなボサノヴァを意図した作品でしたよね

チナツ「伊藤ゴローさんにボサノヴァ・ギターを習いつつ、体験しなきゃ分からないから、ブラジルには1か月ずつ2回行ったんですけど、サンパウロ、ブラジリア、リオと回って、サルバドールではひょんなきっかけでカーニバルに出て、タイコを叩いて。それによって、ようやく掴んだブラジルのリズムをもとに自分なりのサイケデリック解釈を加えたんですよ」

――そして、cinnabomの2016年のアルバム『under the sun』は、ボサノヴァをベースに、sugar plantのルーツでもあるUSインディーに回帰した作品でもありました。

チナツ「歳を取ると、自分が通ってきた音楽が全部統合されてきちゃうんだなって(笑)。あと世の中の音楽の聴き方も変わったと思うんですよ。昔の音楽も今の音楽もフラットに接することができるようになりましたし」

オガワ「いまは聴ききれないほど音楽があって、自分が好きな音楽が好きとしか言えないですもんね」

cinnabomの2016年作『under the sun』収録曲“don't break my heart”

 

バンドと恋愛はホント似てると思うんですよ

――そして、再びsugar plantとして活動出来るようになったきっかけというのは?

チナツ「時間が解決してくれたということもあったし」

オガワ「あと、僕らはバンド・スタイルが好きだし、sugar plantは2人以外にもメンバーがいないと活動出来ないので、この18年の間に新しいメンバーで何度かトライはしたんですけど、入っては辞めの繰り返しでなかなか安定しなかったんです。でも、この1、2年で集まったメンバーとはバンドとしていい感じになったので、これだったら、アルバムが出来るかもしれないと思ったんですよ」

チナツ「そういう言い方も出来るし、別の言い方をすれば、オガワくんが他のメンバーと上手くやっていける状態になったということでもあるんじゃないの?」

オガワ「はははは」

チナツ「私は私でセカンド・ソロを出したことで、sugar plantに対して、どういう姿勢で向かったらいいのかがはっきりしたということもあって。だから、結局は2人のタイミングが合ったということに尽きるんですよ」

――そして、今回のアルバム『headlights』は、内に向かった『dryfruit』から再び音が外に向かっている印象を受けました。

オガワ「それこそ18年経っているわけだから、『dryfruit』のカウンターをやろうと思ったわけではなかったんですけどね。その間、バンドの活動はライヴのみだったんですけど、そこではそれなりの進化があって、より自由に即興的な要素を加えて、その場で起こっていることを音にするというアプローチを実践してきたので、今回、作品を作るとなったら、自ずとライヴの経験が反映されたんですよね」

チナツ「前作のように打ち込みでやろうということにはならなかったですもんね」

オガワ「18年ぶりにバンドとして何をやればいいのか?っていう問いは重いでしょ? それを考えたら出来なくなるから、過去を否定することもなく、いま自分たちが持っているものを出すしかなかったというか」

チナツ「完成して思ったのは、いままで出したアルバムの要素が一枚に詰まっているし、これだけ時間が経ってしまうと、何らかの軸がなければ音が出せないので、いまの軸となるものを作るべく、自分がこれまでやってきたことを確認する作業でもあったのかなって」

――今回取り上げているベン・ワット“North Marine Drive”のカヴァーも特定のシーンに回収されなかったsugar plantの孤高なスタンスを象徴するような選曲だなと。

チナツ「オガワくんが選んだんですけど、いざ歌うとなって、あらためて聴き込んで歌詞を読んだら、すごい泣けちゃって。人気のない絶壁の上うえにかつてお城があったっていう内容なんですけど、あの曲のなかでもすごい長い時間が流れていて、それが今の自分たちの心境にもぴったりでしたね」

――そして、オリジナル曲は以前よりエモーショナルな部分が際立っていますよね。

チナツ「うん、そうですね」

オガワ「若者からも〈エモいですね〉って言われるんですよ。でも、僕らのライヴで起こっていることはまさにそういうことだったりするから、そういう部分をあえて外して、アルバムを作ろうとは思わなかったですね」

チナツ「エモさはsugar plantの真骨頂なんじゃないかな」

――でも、キャリアを俯瞰してみると、初期のアルバム『hiding place』や『cage of the sun e.p.』はもっとクールで、そこから作品を重ねていくなかで、よりエモーショナルなベクトルに向かっているかと。

オガワ「そうね。『after after hours』もエモいところを突こうと思ってないのに、結果としてそういうアルバムになっているし、『dryfruit』にしてもすごく渋いアルバムだなって思うし、そういう意味で今回のエモさはライヴから来てる気がします」

チナツ「ただ、レコーディングはライヴと違って、気合いを入れすぎるとかえって失敗するので、作業は淡々と進めていったんですけどね」

オガワ「でも、作業が進むにつれて、わ、どんどん出来てる!って、自分たちがびっくりしてましたね(笑)」

――お話をうかがいながら、18年の空白は何だったのか、はっきりとはわからないままではありますが、まぁ、時間が必要だったということなんでしょうね。

チナツ「バンドと恋愛はホント似てると思うんですよ(笑)。一人が盛り上がってても、心が一つにならないと成立しないっていう」

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