SERIES

【EXOTIC GRAMMER】VOL.34 追悼 大滝詠一

Before a long vacation 〜Tribute to Eiichi Ohtaki

【EXOTIC GRAMMER】VOL.34 追悼 大滝詠一

 図書館が消えた。ポップスだけでなく音楽全般、芸能、日本映画、お笑い、野球、相撲、オーディオ&ヴィジュアル機器などの、まさしく知識の宝庫であり、世界に類を見ない図書館が、昨年の末に忽然と消えた。単に一人のミュージシャンがこの世を去ったというのではなく、本当に価値ある稀少な図書館のような存在が消えてしまったという思いを抱く。この図書館の名称は、「大瀧詠一」。「大瀧詠一」と共に大滝詠一、多羅尾伴内笛吹銅次厚家羅漢………これらすべてが消えてしまった。ただし、莫大なアーカイヴを残して。

大滝詠一 EACH TIME 30th Anniversary Edition ソニー(2014)

※試聴はこちら

 音楽活動だけに限っても、大滝詠一は日本語のロックを切り開いたミュージシャン(シンガー・ソングライター)の一人であるばかりか、レーベルの主宰者であり、プロデューサーであり、エンジニアであり、アレンジャーであり、ソングライターでもあった。日本では数少ない伝説的かつ現役のラジオDJでもあったし、音楽評論や芸能史研究の分野でも大きな足跡を残した。再発/復刻盤の監修者や解説者としての仕事も、大滝詠一にとって重要な音楽活動だった。そしてこれらすべての音楽活動は、さまざまな人間に多大な影響を与えた。プロのミュージシャンはもちろんだが、それ以外の音楽関係者に大滝詠一ほど大きな影響を与えた人物は他にいないだろう。現に音楽や芸能、放送、CM、出版などの仕事に携わる人間の中には、赤塚不二夫タモリの関係と同じように、大滝詠一の「作品」と呼んでもさしつかえない人間が少なからずいる。もちろん、一般の音楽愛好家の中にも。彼らは大滝詠一の「作品」=「ナイアガラー」である。 

 僕自身は、「ナイアガラー」ではない。最初のソロ・アルバム『大瀧詠一』(72年)はリアルタイムで聴いたわけではなく、75年6月9日にラジオ関東で始まった『ゴー!ゴー!ナイアガラ』の存在を知ったのも、放送開始からかなり経ってからのこと。しかも『ゴー!ゴー!ナイアガラ』がラジオ関東で放送されていた時代は、この番組がネットされていなかった札幌市の実家に住んでいたこともあって、ほんの数回しか聴いたことがない。僕の同世代の「ナイアガラー」のほとんどすべては、70年代後半に首都圏で暮らしていた人たちだ。ただし、『ゴー!ゴー!ナイアガラ』には縁が薄かったものの、大滝詠一がオープニング・テーマ曲《こずえの深夜営業のテーマ》(《土曜の夜の恋人たち》の別ヴァージョン)を提供したTBSラジオの番組『馬場こずえの深夜営業』は高校時代に毎週ほぼ欠かさず聞いていた(最終回は、78年4月2日)。大滝詠一がこの番組にゲスト出演したことを覚えているし、逆に馬場こずえがゲスト出演した時の『ゴー!ゴー!ナイアガラ』も、偶然耳にした。また、ナイアガラ・レコードからの第1弾アルバムとしてリリースされたシュガーベイブの『SONGS』(1975年4月25日発売)は、ラジオでたまたま聴いたシングル「DOWNTOWN」がすぐに気に入ったので、翌日の学校帰りにレコード店で購入した。がしかし、この程度では、「ナイアガラー」どころか、その端くれですらない。もっとも、僕は音楽評論家の端くれではあるので、大滝詠一には、やはり少なからず影響を受けている。彼の「音楽」と「音楽評論」の両方に。

 近代日本史の中における音楽の流れに関する考察を音楽評論家の相倉久人を相手に繰り広げた「大滝詠一のポップス講座~分母分子論~」(『FM fan』83年11月25日~12月4日号、共同通信社)。これは、大滝詠一の活字による音楽評論の代表作だが、これ以外にも、78年から79年にかけての『ニュー・ミュージック・マガジン』(現『ミュージック・マガジン』)に掲載されていた“ロック研究セミナー”(フィル・スペクタービーチ・ボーイズモータウン・サウンドなどが取り上げられた)、山下達郎との対談による「徹底分析サーフィン/ホット・ロッドって何だ?」(『レコード・コレクターズ』86年7月号、ミュージック・マガジン社)、フィル・スペクターの『レア・マスターズ/幻のスペクター・サウンドVol.1』や『クリスマス・ギフト・フォー・ユー・フロム・フィル・スペクター 』のライナーノーツ……これらの論考から僕は色んなことを学び、おおいに刺激された。とりわけフィル・スペクターに関するほとんどすべてのことは、大滝詠一から教わったと言っていい。

 独自の視点に基づき、なおかつ膨大な知識と資料に裏付けされた大滝詠一の音楽評論は、彼の音楽を理解するための最良の副読本である。なぜなら大瀧詠一のレコードは、彼自身の音楽理論の実践であり、研究成果なのだから。研究成果といえば、NHK-FMで放送された『大滝詠一の日本ポップス伝パート1~5』(95年8月7日~11日)と『大滝詠一のアメリカン・ポップス伝パート1~4』(12年~13年)も、忘れられない。90年代半ば以降のレコーディング・アーティストとしての大滝詠一の活動は、主にはっぴいえんどの音源も含む旧作アルバムのリマスタリングのために費やされ、新たに録音された“新作”はシングル「幸せの結末/Happy Endで始めよう」(97年)と「恋するふたり/同(STRINGS VERSION)」(03年)しかない。だが、ラジオ番組の制作というレコーディング活動に対する情熱は衰えなかった。こうした観点からすると、『大滝詠一の日本ポップス伝』と『大滝詠一のアメリカン・ポップス伝』は、レコーディング・アーティストしての大滝詠一が90年代半ば以降に発表した数少ない“新作”であり、なおかつ“偉業”である。もちろん、図書館「大瀧詠一」の重要なアーカイヴ。だからなるべく早く一般に開示し、誰もがアクセスできるようになることを切に希望する。

 コロムビア在籍時の後期のナイアガラ作品は、多羅尾伴内楽團の3枚のアルバムをはじめ、「ノヴェルティ・タイプ」の曲がほとんどだった。それだけに、3年間のレーベル活動休止期間を経て81年にリリースされた『A LONG VACATION』の衝撃は大きかった。『A LONG VACATION』がリリースされた当時、僕は大学生で、自分や周りの友人たちはLPからカセットテープに落としてウォークマンでこのアルバムを聴いていた。大滝詠一のアルバムの例に漏れず、『A LONG VACATION』もマニアックな引用や意匠が随所に取り入れられたアルバムだ。しかし、長い間ウェットな感覚を表出させてこなかった大滝詠一が『大瀧詠一』に収録されている《乱れ髪》に匹敵するほど叙情的な《雨のウェンズディ》を衒いなく(実際はあっただろうが)歌っていたのだから、驚かざるを得なかった。本当に震えた。後にプロのミュージシャンになった友人がふと漏らした言葉を、僕は今でも覚えている。「大滝さん、死んじゃうのかもしれないな」。当時、僕たちは『A LONG VACATION』を聴いて、何かが完結したという思いを抱いた。畢生の傑作と感じた。だからこそ、もしかするとこれが遺作になるかもしれないとを思ったわけだが、こんなアルバムは、『A Long Vacation』をおいて他にない。

 この原稿を書いている時、東京は20年ぶりの大雪に見舞われた。東北生まれで、北欧のギター・インストが好きで、《フィヨルドの少女》や《さらばシベリア鉄道》を作った大滝詠一。これらのことに加えて、小林旭の《熱き心に》や森進一の《冬のリヴィエラ》のような大陸的なスケールの大きなメロディと白い吐息と化した熱い想いが聴こえてくる曲を残した大滝詠一。彼は、グレン・グルードと同じように本質的に「北の人」だったと思う。そんな大滝詠一が、北へ還っていった。莫大な、そして本当に貴重なアーカイヴを残して。

※本稿の表記は、大滝詠一で統一させていただきました

 


大滝詠一(おおたき・えいいち) [1948-2013]

1948年7月28日、岩手県生まれ。シンガー・ソングライター、作曲家。69年、細野晴臣松本隆鈴木茂とはっぴいえんどを結成。73年に解散し、翌74年にナイアガラ・レーベルを設立。自身の作品以外にも、シュガー・ベイブやシリア・ポールらのアルバムを発表。81年に、20世紀日本音楽史上ゆるぎないNo.1の地位を築いた名作『A LONG VACATION』を発表し、大ベストセラー・アルバムとなる。2001年には『A LONG VACATION』を自らリマスタリングし再リリース、話題を呼んだ。日本のポピュラー音楽に与えた影響はあまりに大きく、2013年12月30日享年65歳で亡くなった現在でも音楽関係者だけでなく音楽を愛する多くの人に大きな衝撃を与えている。

 

寄稿者プロフィール
渡辺亨(わたなべ・とおる)

音楽評論家。 『ミュージック・マガジン』 『CDジャーナル』 『ケトル』などに執筆。レギューラーでNHK-FM「世界の快適音楽セレクション」の選曲・構成を担当、および自分のコーナーに出演。Twitter@watanabe19toru

40周年プレイリスト
pagetop