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日暮しもRCも売れてなかったから(笑)、キヨシたちとはお互いの家を行き来することが多かった。音楽以外にやることもないし(武田)

――清志郎さんとの出会いの場所はどちらになるんですか。

武田「国分寺にあった僕の家ですね。(国分寺)三中の後輩で、初めて会ったのは僕が高校生の1年か2年のとき。リンコ(RCサクセションの林小和生)はうちの近所に住んでいて、子供の頃から知ってたんです。彼がある日突然〈セイちゃん、音楽聴かせてくれる?〉って遊びに来たんですよ。そのとき後ろにくっ付いてきたのがキヨシで。坊ちゃん刈りで、ニカニカニカニカしていて」

――あぁイメージできるなぁ(笑)。

「なんたってこれだからね(特典CDのブックレットに掲載されている、67年に御岳山で撮ったスナップショットを見せて)」

武田「すごく子供っぽくてね。それで僕はこの頃、ラヴィン・スプーンフルのような東海岸系とか、ソウル・ミュージックもちょっと聴いてました」

ラヴィン・スプーンフルの66年作『Hums Of The Lovin' Spoonful』収録曲“Coconut Grove”。ロジャー・ニコルズ&ザ・スモール・サークル・オブ・フレンズの68年作にカヴァーが収録

 

――ラヴィン・スプーンフルなんて当時周りで聴いていた人は少なかったんじゃないですか?

「僕、聴いてましたよ。さっき名前が出たラスカルズも聴いてる。清ちゃんと共通の好みというと、ロジャー・ニコルズの曲とかだね」

――お2人でカーペンターズとかも聴いていらっしゃったんですか?

武田「カーペンターズは聴いてなかったけど、ウチに来て酒呑みながらよく聴いていたのは、ポール・ウィリアムズのヴァージョンだね。A&Mの『Life Goes On』やその前に出した『Someday Man』なんか。ローラ・ニーロジム・ウェッブなんかも僕は好きだった」

「あと、ロジャー・ニコルズ&スモール・サークル・オブ・フレンズのアルバムも」

ポール・ウィリアムズの70年作『Someday Man』収録曲“Someday Man”。プロデュースはロジャー・ニコルズ

 

――え、あの時代にもう聴かれていたんですか!? それにしても、ロックのフィールドで活躍していて、ソフト・ロックというかMOR的な音楽を聴いていて、周りから何か言われたりしませんでした?

「ロックのなかにあれだけ成熟したものってないじゃないですか。僕はそこに行きたかったわけですよ。彼(ロジャー・ニコルズ)の作品って音楽全体を網羅しているというか、多くの要素を含んでいるということで好きだったんです。ただまぁ、カーペンターズはちょっとポップすぎてどうかなぁ……と思うところがあったけどね(笑)」

武田「ロジャー・ニコルズとかこのへんが大好きでした。でも日暮しは、そういう世界と別、って感覚でしたけど」

――ちなみに当時の国立や国分寺あたりは、どんな雰囲気の街でしたか? ライヴハウスやロック喫茶はあったんですか?

武田「のどかな感じだね。下駄履いて古本屋やラーメン屋へ行ったりしてましたね。あとレコード屋さんも。RCの連中もそうでしたね。ただまぁ、のどかでいられたのは、日暮しもRCも売れてなかったから(笑)。金はないけど暇な時間だけはたっぷりあったんで。のちに『ありふれた出来事』を出した頃、シングルの“いにしえ”が(TVドラマ『恋歌』に曲が使われたこともあって)ヒットしてから少しは忙しくなりましたけどね。お金がないもんだから、キヨシたちとはお互いの家を行き来することが多かったかな。音楽以外に特にやることもないし」

74年作『街風季節』収録曲“あなたは何処にいるんですか”のTVパフォーマンス音源

 

RCサクセションの76年作『シングル・マン』収録曲“甲州街道はもう秋なのさ”。星勝が同アルバムにアレンジャーとして参加

 

――そういえば清志郎さんの本に、彼とリンコさんが武田さんの留守中、部屋のなかへ勝手に侵入してひどく怒られたという出来事が書いてありましたが。

武田「あぁ、あれね! 僕がどっか行って帰ってきたら、部屋の窓が開いてたんですよ(笑)。〈おっかしいなぁ? どうしたんだろう〉と思って部屋を覗いたらね、僕に気がついた2人が慌てて窓から逃げ出したんですよ」

一同ハハハハハ(爆笑)」

武田「〈バカヤロウ、お前ら何やってんだよ!〉と怒りましたよ。僕は先輩ですからね。〈悪い悪い!〉って謝ってましたけどね。たぶん頭を一発二発ひっぱたいたんじゃなかったかな(笑)。でもまぁ、2人はきっと部屋に何があるのか見てみたかったんでしょうね」

――あ、それまで彼らが武田さんの部屋に入ったことはなかったんですね。

武田「家に集まってましたが、練習したり音楽を聴く部屋は別にあったんでね。で、僕が寝起きする自分の部屋に入れることもないか、と思っていたんだけど、あいつらはどうしても見たかったんでしょうねぇ」

――何か隠してあるかもしれないからいっちょ調べてみよう、ってなことだったんでしょうか。

武田「何か得体のしれないものがあるかもしれないと思ったんですかねぇ(笑)。部屋の横に塀があって、そこを登って入ったみたい。でもそれって冷静に考えたら、泥棒と一緒だよね(笑)」

――ハハハハ(笑)。当時、交流のあったミュージシャンは他にどんな方がいらっしゃいましたか?

武田「日暮しを始めた頃は、ブレッド&バターと仲が良かったかな。あと葡萄畑とも一緒によく呑んだな。有名な人と派手派手しい付き合いをするようなことはなかったですね。ブレバタとかも自然なキャラクターなんで付き合いやすかったんです」

ブレッド&バターの79年作『レイト・レイト・サマー』収録曲“あの頃のまま”

 

――それはミュージシャンでありながらも普通の暮らしを続けたかった、ということなんですかね。

武田「そうですね。僕は常々、すごくいいミュージシャンとすごくいい魚屋さんは同列だと思っているんです。その道を極めている人はどんな場所にもたくさんいますから。クリエイターだから特別に優れている、というような考えは一度も持ったことがないですね」

――武田さんのその考え方というか生きる姿勢は、日暮しの音楽を聴いているとすごく理解できます。

武田「そういう考えの持ち主ですから、音楽も奇を衒ったものにはならないと思います。ただ音楽的にこういうことを試してみたい、という感じでさまざまなチャレンジを行うことはありましたよ。でもかなりポップになろうが、芯のところはブレていないと思う」

――日暮しを続けていた頃、RCサクセションも常に近くにいたんですか?

武田「ええ、事務所も同じだった時期もあって。でも80年代に入るまでの、彼らが渋谷の屋根裏でライヴしていた頃ぐらいまでかな」

――ブレイクする前ということですか。

武田「そう。それ以降は僕もアメリカに行く機会が多くなっちゃったんで。あと日暮しを解散したあと、それまでの日本の音楽とは違うものを発見したんですよ」

――それはどんなものを?

武田「古くからあるスタンダード・ジャズの良さだとか。向こうには昔からスタンダードを歌う素晴らしい歌手がたくさんいるじゃないですか。ライヴを観ると、すごいなぁと思うことの連続でね。それでエラ・フィッツジェラルドビリー・ホリデイなどの昔のレコードを買い漁るようになって」

――リスナーとして聴くものが大きく変化したということですね。

武田「そもそもポピュラー音楽ってシンガー・ソングライターが作る音楽の元になっているものですよね。そういうものを掘り下げる方向に行っちゃったんです」

武田清一 ヴォーカルはいつも最高だ! 駒草出版(2015)

雑誌「ジャズ批評」に2007年~2014年まで連載されたコラムをまとめた単行本

 

――いまの武田さんの耳で日暮しを聴き直してみて、どういう印象を抱かれますか?

武田「復刻するにあたっていろいろ聴いてみたんですが、やはり日本人だなぁと。外国人のモノマネして英語で歌っているような音楽と比べて、言葉が入ってきますし、いいと思いますね」

――今回のリイシューによって、日暮しが多くの若いリスナーの耳に届くことになると思いますが、どういう聴かれ方をすると想像します?

武田「いまの時代に蘇っても違和感がないと僕は思ってます。さまざまな音楽に触れている人に聴いてもらっても、普通に入ってくるんじゃないかと。音楽って昔のものとか新しいものとか全然関係ないですからね。良いか悪いか、好きか嫌いかの違いだけだと思う。日暮しの音楽は、流行とか未来とか意識していたわけじゃないし、横文字を使って洋楽っぽく作ったりしてませんから。ここには〈流行り〉というものが入っていない。だから、いま聴いても自然に思える」

「僕もこれまでずいぶん長いこと音楽制作を続けてきましたが、若い頃から理想とする音楽の形として常に一番上にあったのが、普遍的なもの。そりゃできないこともありましたけど、それを常にめざしてやってきました。で、清ちゃんが作るものはブレがないですからね。だから〈顔つき〉は違っても根本にあるものは不変。彼は若い頃から考え方が成熟していて、若者なのに心は老人、みたいな。悪く言っているわけじゃないからね(笑)。そういう感覚を備えていたことが影響して、日暮しの音楽は時間経過が関係ないものになっている」

武田「そこを勝さんが理解してくれたうえでアレンジしてくれたことも大いに関係あるでしょうね。とにかくアメリカに行き、古い音楽の発掘作業を続けていたみたいな30年で、日暮しの音楽をまったく聴いてなかった。で、ある日ふと聴きたくなって取り出してみたら、結構いいなぁと思えたんです。ま、長い年月が過ぎたことで、自分が作ったということを忘れてるんですよね。もはや自分のものじゃないんです。そういったタイミングに、あの納得のいかないベスト盤が出たりして、これはやるしかないと思い立って」

79年作『記憶の果実』収録曲“うでまくら”

 

――いま達成感はかなりありますか。

武田「そうですね。それにサウンドからジャケットまで何から何までやりたいことをやらせてもらったんで、感謝しております(笑)。これ以上は望めないような出来だと思いますね」

「もともと良い音をしていたんです。今回は元の良さを活かしつつ、どうせやるんだったらもっと磨き上げようと。だからアナログ・テイストがしっかり感じられるのはあたりまえの話でね。デジタルにするとどうしても音がハッキリした感じになるんですが、その加減をどのへんに設定すべきか。その感覚はなかなか口で説明するのは難しいね」

武田「今回、僕はエンジニアさんに結構注文出したから大変だったと思いますよ。〈このベースはもうちょっと上げてほしい〉とかいろいろね。音マニアでもあるから、僕は。またジャケットにもこだわりがあるから、ここの色味はこうじゃないと、とか。皆さんの協力なくしてここまで良い作品には仕上がらなかった。だいたい僕と関わるとみんな大変になるんです(笑)。あとで後悔するのが嫌なので、追求しはじめると周りが見えなくなっちゃう。そんな性格による迷惑は家族にもだいぶ及んでる(笑)」

「一応、反省はするの?」

武田「するんだけど、そのときになっちゃうとダメなんだよ(笑)」

「いいんだよ、それで」

――でも関わった皆さんの愛情の結晶と言えるCDであることはよ~くわかりますね。ぜひフィジカルで所有したいアルバムです。

武田「『ありふれた出来事』のエンジニアは吉野金次さんが務めていて、『記憶の果実』はビクターの梅津達男さんがやってくれたんだけど、サウンドの感触が全然違っていていいですよね。『ありふれた出来事』は情緒的で繊細な感じがする。『記憶の果実』はポップで広がりがあって透明感に溢れている。ただ、昔から日暮しの音楽づくりでは、透明感を絶えず意識してましたけどね。僕が生まれた岩手は空が高くて、光の射し方がぜんぜん違うんです。そういう記憶がつねに頭のなかにあって、都会で暮らしていてもどこかで意識している」

――駅からお店までの道すがら、一橋大学通りのキレイに色付いたイチョウ並木を眺めつつアルバムを聴いていたんですが、すごく気持ちが良くて。日暮しの音楽って国立の街にすごく合っていますよね。なんていうか、歌の世界が色鮮やかに広がっていくような感覚が得られたんです。だからこのアルバムを携帯プレイヤーで聴きながら〈Sings〉に向かうというのは、かなりバッチリな楽しみ方なんじゃないかと。ぜひ試していただきたいですね。最後の質問なんですが、『ありふれた出来事』の帯には〈いにしえ〉という文字がデカデカと書かれていたように思ったんですが、今回デザインが異なりますね。

武田「あぁ、あれはね、“いにしえ”がヒットしたあとに出たセカンド・プレス。だから、あれを持っている人はマニアじゃないんですよ(笑)。これがオリジナル。ときどきお店にこのファースト・プレスを持ってくるお客さんがいますけど、〈おお、これ持ってるかぁ〉と嬉しくなって、思わずサインする手にも力が入るという(笑)」

――きっとこれから、このファースト・プレスを持ったお客さんが大勢押し寄せるんじゃないでしょうか(笑)。今日はありがとうございました。