(存在しない)記憶と恋、そして旅について思うこと

 音楽とは必然的に恋を鳴らすものである、と僕は思う。見ている景色が音によって塗り変わるようなあの感覚を一度でも味わった者は、例え結果的に辛く終わろうとも、再びあの感覚に巡り会うべく放浪していく。それはまさしく恋だ。ではここで問うてみたい。音楽によって染められたその景色が遂には全く見覚えがないものになった瞬間に、あなたが感じるのはそれでも恋だろうか、あるいは未踏の恐怖なのだろうか。

rabbitoo 『national anthem of unknown country』 SONG X JAZZ(2014)

 コンラッド・ルークスの映画のサウンドトラックとして制作されるも未使用に終わったオーネット・コールマンのカルト作『チャパカ』について、植草甚一は「ジャズの十月革命」の中で以下のように綴っている――「こうした純粋で美しい、そして強烈な音楽をそのまま映画に使ったら、その映画があたえる印象はどうなるであろうか」。音楽が喚起させるイメージが現実に打ち勝ってしまうという現象は、rabbitooにもそのまま当てはめられる。それはロマンを遥かに超えて、むしろトラウマに近い。

 この音楽が僕に投げかけるものは〈記憶の断片〉である。しかもそれは、投げ捨てたものでも失ってしまったものでもない、一度も手にしたことがない記憶だ。まるでプロジェクターから投影された見知らぬ写真のような、記憶。投影されているもの自体に想い出は何もないはずなのに、その写真に僕はどうしたって感情移入してしまう。そしてその写真は多くを語らず、音楽が終わると同時に消え、僕は景色を失う。景色を失うことは、実は恋を失うことよりも辛いかもしれない。景色がないと、そもそも恋は存在できないのだから。

 この音楽を指し示すであろうジャズ/ポストロック/ミニマルといった言葉は、実際に鳴り響く音楽の前では実に無力だ。重要なのは、あなたにどう聴こえるのか、何を感じるのかという点である。僕が喚起したイメージをここに細々と綴るのならば、この音楽の鋭さは、混沌とした現在と、そこに内在する全く違う世界を、そしてそこに所属する僕の内面をひたむきに映す鏡であった。迷宮であった。音楽が鳴る瞬間にだけ現れる儚い砂の王国であった。

 ボブ・ディランはかつて〈何かが起こっているのは分かる、でもそれが何なのかは分からない〉と歌った。それはまさにrabbitooに翻弄される僕のことだった。僕には何も分からない。自分のことも、世界のことも。でも何も分からない限り、僕は旅を続けられる。

 そしてそれは上手くいけば(下手をすれば)、恋よりも美しい喪失の記憶になり得るのだろう。

 


LIVE INFORMATION
2014年6月8日(日)東京・新宿 ピットイン
出演:市野元彦(ギター)/藤原大輔(サックス)/千葉広樹 (ベース)/田中徳崇(ドラムス)/佐藤浩一(キーボード)
https://rabbitoo.com/