INTERVIEW

KONCOS佐藤寛ソロ・インタヴュー―初めて明かす、音楽への情熱とカウンターである誇り

KONCOS佐藤寛ソロ・インタヴュー―初めて明かす、音楽への情熱とカウンターである誇り

KONCOSが2016年作『Colors & Scale』ぶりとなる流通盤『The Starry Night EP』をリリースした。昨年12月に開催したワンマンライヴの入場者特典として、7インチが配布された“The Starry Night”を筆頭に、toiletとのスプリット・アナログ盤やTHE FULL TEENZら5組と編んだカセットに提供した楽曲など全6曲を収録。バンドにとって突破口となったパンク・ソウルなサウンドを基調にしつつ、チャンス・ザ・ラッパーら現行ヒップホップと共鳴する朗らかなヴァイブ、ラテンやガラージ・クラシックを視野に入れたグルーヴを獲得している。

そうしたダンス・ビートの上で、彼らが歌うのはライヴハウスやパーティーの風景。前作以降のインタヴューで、古川太一(キーボード/ベース/ヴォーカル)は、ライヴハウスの再発見とそこでのバンドたちとの出会いがKONCOSの活動にとってブースターとなったと語ってくれた。だが、ここで一度思い出してほしい。そもそもRiddim Saunter解散後の2人――古川と佐藤寛(ヴォーカル/ギター)がめざしていたのは、ポスト・クラシカル的な端正さを備えたポップス。2作のアルバム『ピアノフォルテ』(2012年)と『街十色』(2014年)、47都道府県を回り、さらにカフェや飲食店など全国100か所以上で演奏するというツアー〈旅するコンコス〉を経て、ロジカルにモードチェンジをはたしていったとはいえ、ここ数年の彼らの方向転換は、〈普通の〉バンドなら到底起こりえないほどドラスティックなものだった。

興味深いのは、外で感じた刺激をダイレクトに活動の糧にしている古川の傍らで、多くを語らないにもかかわらず、いつも彼と同じ方向を見つめていると思しき佐藤の存在だ。同じく北海道の帯広を故郷に持ち、Riddim Saunter時代を含めて、20年近くバンド活動を共にし、ソングライティングを担ってきた2人だが、スポークスマン的な古川と異なり、彼の口からバンドの現在地が語られることは少なかった。そこで、今回は佐藤へと単独インタヴューを実施。KONCOSへの想いや音楽への飽くなき探求心、カウンターであることへの誇りなど、淡々とした口調のなかに、確かな熱を込めて語ってくれた。

KONCOS The Starry Night EP AWDR/LR2(2018)

 

太一には振り回されてもいいと思ってもいて

――太一さんの隣で、寛さんがどんなことを考えられてきたのかは、ずっと訊きたいと思っていたんです。

「はじめてですね。この1人っていうパターンは(笑)」

――まず、太一さんとの出会いから、振り返ってもらえますか?

「出会いは高校1年生のときですね。同じクラスになって、最初は出席番号順で並ぶじゃないですか? 僕がいて、間に1人いて、その横に太一がいたんです。そのときから太一の見た目はもうヒップホップが好きそうな……ただマッシュルーム・カットだったのでよくわからない感じ(笑)。僕はTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTが好きだったんだけど、太一もミッシェルが好きと言っていて、彼はドラムをやっているんだと。

僕は太一よりもっと田舎の中学だったので、ギターを触ってはいたけど、ライヴハウスとかには行ったことがなかったんです。でも、太一は中学からライヴハウスに行っていて、〈じゃあ行こうよ〉と放課後に連れて行ってくれて。そんな流れで、気が付いたらバンドを一緒にやっていて……というのがはじまりでした」

――お2人の実家は帯広のなかでも離れているんですか?

「太一は街の中心のほうで、僕はいちばんはじっこのほう。周りはじゃがいも畑やとうもろこし畑、そして牛がいてという、みんなが〈ザ・北海道〉としてイメージするようなところ。僕の実家ももともと農家だったんですよ」

――太一さんとバンドをスタートしたのは高校1年生のときから?

「ライヴハウスに寄ってこうよと言われて、REBEL(現Rest)に行き、そこでオーナーさんから〈ギターをやってんの? だったらバンドやりなよ〉って、もうライヴの日を決められて(笑)。それでやる流れになったんです」

――最初はカヴァーをやっていたんですか?

「そうですね。最初は、ほぼTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTのコピー・バンドでした。高校2年生になると、いわゆるAIR JAM系と言われるようなスキャフルやBACK DROP BOMB、BRAHMANとかをコピーして、高校3年生のときにオリジナルをやりだして……という流れで」

――寛さんのソリッドなカッティングは、誰からの影響なんだろう?と思っていたんですが、ミッシェルのアベフトシだったんですね。

「高校2年生のときにテレキャスター・カスタムを買ったんですけど、それはアベさんからの影響。いまでも直しながら使い続けています。バンドとして理想形というか、いちばんカッコイイと思えるのはいまだにTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTです」

――オリジナルの楽曲は、その頃から太一さんと一緒に作られていたんですか?

「高校生のときは、当時のベーシストが主に作っていましたね。太一はそのときドラムしか叩けなかったし、楽曲の制作に関してそこまでタッチするわけではなくて。ただ、いまもそうですけど〈こういうのをやりたい〉というイメージは常にあって、それを口で言うしイメージの元になった音源も聴かせてくれる。あいつはそのときからレコードもたくさん持っていたし。Riddim Saunterになって、2人で曲を作るようになってからも同じですね。太一の家に行って〈この曲のイントロの感じを出したくてさ〉とレコードを聴かせられて、僕は〈じゃあこういう感じかな?〉ってギターを弾く。そういうやり方」

――じゃあ、音楽的なインプットは彼を経由して得たものもすごく多かった?

「はい。いまでもすごく多いな。彼はやっぱりアンテナの張り具合がすごいですよ」

――太一さんのアンテナや行動力は本当にすごいですよね。だけど、それに振り回されることなく、ずっと隣に居続けられる寛さんもすごいなと思うんです。

「振り回されている気もするんですけどね(笑)。振り回されてもいいと思ってもいて。ただ、全部が全部は持って行かれないんですよ。それは違うんじゃないかなと思ったら、違うなーというスタンスだし、興味が出ないものには反応しない。だから、ずっと一緒にやれているんですかね」

――興味深いのは、Riddim Saunterが解散して以降も、寛さんと太一さんの作曲チームは、KONCOSとしてナチュラルに続いたことなんです。寛さんとしても、2人での共同作業を止めるという選択肢はなかったんですか?

「Riddimを終わる頃には、もう2人でスタジオに入ってはいました。もちろん、2人で47都道府県を廻ってみたいな活動までは見えていなかったですけど。最初は、太一から〈ピアノを弾けるようになりたいから付き合って〉と誘われた流れで」

――寛さんとしては、別のバンドなりメンバーなりで活動していってもいいかな……という気持ちを実は持っていた、とかは?

「Riddimを終わったときに、〈ソロで出さへん?〉みたいなことNiw!の(主宰の)タカヒロさんには言われましたね。そこで、作ってもいいかなとは考えたけど、わりとフワッと終わりました(笑)」

 

いまがいちばん〈バンドをやってんな〉って感じがする

――KONCOSが初期にやろうとしていたことは『Colors & Scale』時のインタヴューでしっかり語ってもらっているので、該当の記事を読んでもらうのがいいんですが、ここで簡潔に振り返ってもらうと、当時はどんな意識で作曲をされていたんですか?

「その頃は、3分以内のポップスとしてすごく良く成り立っているものをやりたいと思っていました。だからロジャー・ニコルズ、ポール・ウィリアムズ、トッド・ラングレン……そのあたりをすごく聴いて分析して。どういう意図のもとに、そこで転調をさせているのかとか、そういった細かい部分を、Riddim Saunterを終え、KONCOSをはじめたときにある程度クリアにした。自分たちが好きなコード進行はわかっていたけど、なぜ魅力を感じるのかを、構造として理解したんです。ただ、今回のEPの楽曲は、そこからさらに抜けようとしていると思います。自分たちの手癖とかじゃなくて、もうちょっと行きたいよねという気持ちが詰まっている」

――太一さんは“The Starry Night”のインスピレーション元として、チャンス・ザ・ラッパーらシカゴ産ヒップホップへの共感をあげていました。寛さんとしては、何か頭にあったもの、参照した音楽はありますか?

「太一が言っているようなチャンスとかも当然聴いていたんですけど、どちらかというと僕は『No New York』(78年)――ノーウェイヴとかあっちのイメージがあったんです。チャンス・ザ・ラッパー的な黒いグルーヴと、ジェームズ・チャンスとかの感じが合わさったらいいなと考えて、ギターを弾いたりはしていましたね」

――なるほど。言われてみると、すごくわかります。寛さんが〈ノーウェイヴなんだ〉と思った背景は?

「『Colors & Scale』以降、突き抜ける感じ……というかもうぶち壊す感じがほしいってのはあって。それは太一にも絶対にあったと思う。そこで浮かんだのが『No New York』だったんです」

――ライヴハウスに活動基盤を移して以降は、パンクやハードコアのバンドと共演することも多いですが、そうした外的な刺激も、〈ぶち壊したい〉という想いには関係していますか?

「それはめちゃくちゃ大きいですね。モロにそれだと思います。ライヴ感というかライヴハウス感というか。KONCOSの初期はライヴハウス以外の場所でやることが多かったんですけど、それを経て、ふたたびライヴハウスでやるようになると、より生きている感じがしたんです。他のバンドのライヴを観ていて、あー生きているなーって(笑)。〈あーこれか、これだよな〉と思いました」

――太一さんは、ライヴハウスの魅力を再発見して、ライヴハウスにいないとダメだったんだと思ったと話していました。そういうふうに彼が方向転換するときは、寛さんも〈自分もそう思ってた!〉と共感することが多いんですか?

「太一が〈これからはライヴハウスを廻っていく〉みたいに言ったときは、僕はたぶんそこまでピンときていなかったと思います。〈よし行くか〉って感じよりは、〈どうなっていくのかな〉と考えていて、そういうことは結構多い。でも、太一は何か見えていたんだろうし、そういうときの彼の直観は信用しているので、まあ行ってみるかと。で、実際に行ったら〈なるほどな〉となったんです」

――ということは、寛さんとしては2つのツアーの延長――ライヴハウス以外の場で演奏し続ける方向にも、それはそれで可能性を感じていた?

「これはこれで続けられるな、とは思ってもいました。だけど、もっと向こう側をみたいなという気持ちもわかるなって」

――わりと太一さんの言い方だと、とにかくバンドとして行き詰まっていて、その突破口としてライヴハウスだった……みたいなニュアンスが強い気がしたんですけど、寛さんの皮膚感覚としてはそこまで切羽詰った感じはなかった?

「えーと……100か所のツアーの後半ではもう(紺野)清志にサポートでドラムを叩いてもらっていたし、気が付いたらもうそういう流れになっていたんです。そういえば、清志が入る前も、太一はバスドラを踏みながら鍵盤弾いたりしていたし、彼はもう完全にそっちへと向かってましたね。僕は、もうちょっと上手にやればいいのにな……とも思っていましたけど(笑)。大きな音を出せない場所は場所として、そこに合う良いものをやればいいなとは思うけど、あいつは音を出したいとなると、もう突き進んじゃうから。なので、音デカいなーと思いながら横で演奏していて(笑)」

※2016年に正式メンバーとして加入

――(笑)。とはいえ、結果的には寛さんもライヴハウスからの刺激がモチベーションになったわけで。そこで感じられた興奮って懐かしさでした? それとも新鮮さ?

「新鮮さだと思います。高校生から20年くらいバンドをやってきてますけど、いまがいちばん〈バンドをやってんな〉って感じがするし、すごく〈生きているな〉という実感がある。去年の12月に開催したSHELTERでのワンマンが、いままでのバンド人生のなかでいちばん良いライヴができたと思ったんですよ」

――素晴らしいですね。ライヴでの寛さんの立ち振る舞いも変わってきたように思います。漢気が見えるというか。

「意識的に変わっていこうとしたし、そうならざるをえない環境だったんですよね。周りのバンドがみんな本気なんで、自然と自分も本気になっていったし、〈やろう〉という感じになりました。太一からはライヴ終わったとき〈もっと行って〉と、まだ結構言われますけど(笑)」

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