「どこかに失われた記憶が流れ込む場所があったとしたら……」
三宅純『Lost Memory Theatre act-2』ライナーノーツより

失われた記憶を記すところへ

 人の記憶というものは極めて曖昧でありながら、その一方で妙にしぶとい。我々の日常の行動は、すべて過去の記憶に左右されているといってもよいだろう。わたしたちは、ただ〈忘れたいこと〉と〈忘れたくないこと〉の間を彷徨うしかないのかも知れない。

 音楽は、その起源において〈記憶〉と分かちがたく結びついている。記憶に障害がある人でも子供の頃に覚えた音楽だけは、すらすらと歌えたりするし、CMのジングルやサウンド・ロゴが刷り込まれると、家電量販店や薬局チェーンの前を通るたびに、営業時間でもないのにジングルのメロディに乗ってその店名が頭の中で再生される。やれやれ、われわれの記憶というのも随分薄っぺらになったものだ。かつて歌は、神に捧げるために呼び出され、種族の偉大な歴史を次代に伝えるために詠われる叙事詩は、或る種の伝説の記憶媒体であったはずだが……。いや、すでに種族や神の登場によって、ほんとうの記憶や音楽は、我々から失われていったのかもしれない。かたちを成すことも、足音さえ残すことなく、どこかに失われていった、わたしたちの記憶。

 〈どこかに失われた記憶が流れ込む劇場があったとしたらどうだろう?〉

 〈そこには記憶に焦がれた人たちが集まり、その記憶の疑似体験をしていく。〉

 こんなイメージの虜(とりこ)となった〈音楽家〉がいたとしたら。そしてもし、そのイメージが〈演劇家〉に共有されたとしたら。もしも、その〈音楽家〉が三宅純で、その〈演劇家〉が白井晃であったとしたら…。そんな〈もし〉の連鎖が偶然ではなく必然としか思えないようなことが、まもなく実現する。両者による舞台作品「Lost Memory Theatre」がそれである。