©Ilya Melnikov

冨田勲のモーグ・シンセが轟き、鮮やかなグリーンの舞台が未来世界に!

 冨田勲のシンセサイザー音楽が、オハッド・ナハリンのダンスに合わないはずがない。ナハリンが演出して振り付けたバットシェバ舞踊団のための音楽としてピッタリ来るに決まっている。

 なぜだろうか。ナハリンのダンスと言えば〈Gaga(ガガ)〉である。〈ガガ〉とは何ぞや。踊り方には違いないが、激しい踊りとか穏やかな踊りとか、そういうものではない。激しい踊りも静かな踊りも中庸な踊りも、それらのあいだの自由自在な即座の移行も可能にする、ひとつの広いダンスのメソッドが〈ガガ〉だろう。いかにも〈言うは易し、行うは難し〉のようだけれど、実際の〈ガガ〉の講習会の風景に接すると、素人の少年や少女もすぐに〈ガガ〉らしく踊れているように見えてくる。

 はて、〈ガガ〉らしいとは? いつも動いているのである。からだを決して止めない。静まっているように見えるときでさえ、指先とか爪先とかが、間断なく微妙に流れている。しかも神経質にこわばりながらではない。あくまで楽に、自然に、命の赴くままに。その流れが速まったり遅くなったり。身体の軸も固まらせずに。激しい踊り穏やかな踊りもひとつのメソッドで自在にコントロールできるとは、そういうことだ。はじめに動きありき。常に動きありき。動きあるところにいのちあり。動きに濃淡、強弱、大小あり。しかし、それらみな、動いていることにおいては同じなり。身体即動作即生命。裏返して言えば、止まると死。〈ガガ〉のメソッドを習得すると、死にとても敏感になるだろう。ナハリンの演出や振付は、死や死体や死を誘う暴力を表現するのが、またうまい。止まらないことへのこだわりが、止まることの意味を過剰に訴えてしまうせいだ。

 とにかく止まらないのが〈ガガ〉らしさ。ミクロな不断の身体の流れを絶やさないことが、〈ガガ〉の入門であり到達点でもあるだろう。こういうふうな身体表現を目指したいから、実際の身体の動作はこうなるなんて理屈を、頭に組み立てさせる暇を与えない。止まって仕切り直すことがない。身体が頭に制御されているように見えない。〈ガガ〉は解放の代名詞のように使われるが、むべなるかな。

 そんなナハリンのダンスに冨田の音楽が嵌る。シンセサイザーといっても、冨田の世界は一貫してモーグ・シンセサイザーである。デジタル技術が開発されるよりも前の1960年代に生まれた、アナログのシンセサイザーである。鍵盤を押すと、決まった音程や定まった音色が自動的に出てくるようなデジタル電子楽器とは違う。複数のアナログの機材をややこしく連結し、特定の周波数の電子音を作っては、それを増幅したり、変調したり。音をいちいち、濃やかな手作業で生み出してゆく。まるで手工業。電子音楽と言っても、生楽器以上に、身体と密着した作られ方をする。作業自体が高度な芸能だ。そういう工程で出来る音楽だから、極端な言い方をすると、二度と同じ音は出ない。いつも何かが微妙に違う。揺れている。震えている。そこに生命が宿る。そして冨田勲という音楽家ほど、複雑怪奇な楽器としてのモーグ・シンセサイザーを、自らの身体と一体化させた音楽家は他に居るまい。扱いのとてつもなく微妙で面倒で、繊細さを示し続ける、あまりにも人間的で有機的でアナログなこの電子楽器と、ミクロなレベルで切り結び続け、いつもどこかが違い、決して型にはまらない、その意味で解放された響きを生み出し続けていたのが、冨田である。ナハリンに教えられずとも、冨田は音楽でずっと一種の〈ガガ〉をやっていたのだろう。

 しかし、冨田のモーグ・シンセサイザーの音楽とは、あまりにも人間的とは言え、それでもやはり電子音楽であるには違いない。人間の声や管楽器のように、喉や口や管の中で息を震わせて音を作るのではない。ピアノやヴァイオリンのように、腕力で弦を振動させて音を鳴らすのでもない。電気機器の作る電子の響きによる音楽である。その意味で、電子音楽は近現代の産業文明・科学文明の音であり、生身の肉体から離れて行く音である。地に足の着かず、宇宙を漂うような音である。どこか未来的でありSF的である。だからSF物・未来物の映画やドラマやアニメには、長らく電子音がつきもので、冨田は作曲家として、その種の仕事にごまんとかかわった人でもある。

 そして、そういうときの電子音は、楽しい未来を象徴し、約束するとは限らない。SFという分野はいつも破滅のヴィジョンと、未来への夢はどうなるか分からぬ不安心理と、常に結びついている。冨田がモーグ・シンセサイザーを用いて最初に作ったLPのアルバムは、ドビュッシーのいかにも地に足の着かぬ響きに満ちたピアノ音楽を編曲した、夢幻的な“月の光”で、その日本発売は1974年8月だったけれども、同じ年の同じ月に封切られた日本映画に「ノストラダムスの大予言」があった。それは第四次中東戦争とオイル・ショックによる世界の不安を戦慄的に表現したフィルムであり、この映画に作曲したのはやはり冨田で、そこで不安や戦慄を一手に引き受けたのはモーグ・シンセサイザーの響きだった。

 型にはまらぬ不定形かつ力足の離れて行くモーグ・シンセサイザーの響きは、われわれのイマジネーションを自由に誘うけれど、そこには常に不安もまた潜むもの。型にはまらぬ不定形なダンスもまた、解放と戦慄を表裏一体とするもの。オハッド・ナハリンの2009年の作品「HORA」が、音楽に、ドビュッシーやワーグナーやムソルグスキーやリヒャルト・シュトラウスらの、冨田勲によるモーグ・シンセサイザー編曲版を必要としたのには、やはり何か必然性があるのだろう。自由と不安、解放と戦慄、希望と絶望、過去と未来、歓喜と恐怖、生と死の弁証法は、〈ガガ〉のメソッドと冨田の音楽との相互作用によってしか、きっと起動しないのだ。

 


公演中止のお知らせ
オハッド・ナハリン/バットシェバ舞踊団「HORA」は、2022年1月22日(金)~30日(日)の実現に向けて関係各所と協議・調整を続けておりましたが、オミクロン株出現による新型コロナウイルス感染症に関する水際対策強化により、1月以降の渡航制限についても現時点では緩和の見通しがたたないことから、開催をやむなく中止せざるを得なくなりました。皆さまにご迷惑をお掛けすることとなり、誠に申し訳ございません。何卒ご理解いただきますようお願いいたします。

 


INFORMATION
Ohad Naharin Batsheva Dance Company
オハッド・ナハリン/バットシェバ舞踊団「HORA」

2022年1月22日(金)2022年1月22日(土)、23(日)彩の国さいたま芸術劇場 大ホール ※中止
2022年1月26日(水)北九州芸術劇場 大ホール ※中止
2022年1月30日(日)愛知県芸術劇場 大ホール ※中止
助成:一般財団法人地域創造/文化庁文化芸術振興費補助金(劇場・音楽堂等機能強化推進事業)/独立行政法人日本芸術文化振興会
後援:イスラエル大使館