INTERVIEW

〈タワーレコードを創った男〉、ラッセル・ソロモンが語るタワーの歴史:前編

USのタワーの栄枯盛衰を描くドキュメンタリー映画の撮影のため来日したソロモン氏が回想する、タワーの成り立ちから拡大

〈タワーレコードを創った男〉、ラッセル・ソロモンが語るタワーの歴史:前編

タワーレコードを創った男〉にして、20世紀後半からの世界の音楽カルチャーに多大なる影響を与えたリヴィング・レジェンド、ラッセル・ソロモン。そんな彼が、〈USタワーレコードの栄枯盛衰物語〉をドキュメントする映画「All Things Must Pass: The Rise And Fall Of Tower Records」の撮影のため、この夏映画クルーと共にカリフォルニアから来日した。Mikikiでは、齢89歳にして活力漲る伝説の男に、タワーレコードの歴史について話を訊いた。

 

――そもそもラスさんは、何故レコード・ショップをやろうと思ったのですか?

(当時は)若くてね、その程度しか思いつかなかったんだ。まだ16歳の頃、父親がドラッグストアを経営していて、そこにはいろんな商品を置いていた……化粧品、お菓子、酒類、おもちゃ、ありとあらゆるものをね。そしてお店の中にはジュース・バーがあって、そこに小さなジュークボックスを置いていたんだ、12連奏のワーリッツァーをね。

ある日父親がこう言ったんだ、(入れ替え時に)ジュークボックスで要らなくなるレコード、つまり中古レコードを売ってはどうか、と。そこでレコード1枚を3セントで買い取り、1ダイム(10セント)で売ったら、これがよく売れてね。そのまま数週間中古レコードを売り続けた後、次に父親が、新品を売ってみないか、と言ったんだ。そんな感じで始まったんだ、そんな風に、簡単に。

新品を入手し、それを売る……すると確かに売れる。そこでさらに店内に、しかもすごく小さな店内に、この(取材を行っていた部屋の)テーブルの大きさほどのスペースにレコード売場を作ろうということになった。そうして私は、レコードを仕入れ、カウンターの向こう側に立って販売を始めたんだ。

 

 

――最初に取り扱ったレコードは、主にどういったジャンルやアーティストのものだったんですか?

主に当時の流行の音楽だね。ビッグバンドもの……グレン・ミラートミー・ドーシーフレディ・マーティンも人気だったね。あと(トミーの兄弟の)ジミー・ドーシーなんかもよく売れた。そう、当時人気だった音楽だ。言っておくが、これはまだ1941年頃の話で、レコードも78回転の10インチもの。売値は安いもので35セント、高いものは50セントにしていた。各面に1曲ずつのレコードだ。

――そこの時点で〈タワーレコード〉と名乗っていたのですか?

いやいや。ドラッグストアがあったのが〈タワーシアター〉という映画館で、父親の店の名前は〈タワードラッグストア〉。なので、後に規模を拡大して売場を広げた頃には、それまでの流れを汲んで、ごく自然に〈タワーレコードマート〉と名付けた。その後、1960年、今のタワーの黄色と赤のロゴなんかが決まってすべてが始まったころ、名前を〈タワーレコード〉に決めたんだ。

 

――では、その1960年以降のタワーレコードは、60年代後半~70年代とどんどん全米中に進出していくと思うのですが、そこでは変わらずそのときのポピュラー・ミュージックのみを扱っていたのでしょうか? それともだんだん独自の品揃えにしたり、扱うジャンルに変化は表れてきたのでしょうか?

私は当初から、1960年の最初からすべてのジャンルを扱うべきだと強く考えてきた。ジャズ、クラシック、カントリーからポップス、ノベルティーもの、コメディー、ヴォーカルものや劇場ものなど。それが、みんなが欲しいものだと信じてきた、つまり幅広い品揃えを、だ。当時はまだ規模は小さかったが、やはりそれが客の欲しがるものだった。

そのうち大きなお店を持つようになって、とはいってもそういう大型店舗も1968年にサンフランシスコに出店するまではなかったわけだが、規模が大きくなるとようやくすべての音楽を網羅することができるようになった。そうするとクラシック・セクションができて、オペラ、ジャズやカントリーのセクションも展開することができるようになっていった。それこそがタワー最初からの、というか〈私の〉と言ってもいい、哲学だね。そしてそれができるようになったのは、十分なスペースを確保できたとき。あと、在庫を揃えるための資金の確保、これも大事だったね。

昔から思っていたのだけど、いつも夢見ていたのは〈世界中のすべてのレコードを置いているレコード店〉。しかしそれを実現することはなかった……日本に出店するまではね。日本では、ほとんどそれに近い状態ができている。もちろんすべてを揃えるなんて無理だけど、ここ(日本)はほかのどこよりもそれに近いことをしている、しかも実に上手くね、特に渋谷店では」

【参考動画】LAのサンセット・ストリップにあったタワー店舗の映像(1971年撮影)

 

――似たような質問になりますが、70年代から本格的にタワーがUS全体に進出して、成長していったなかで、他のレコードショップと絶対的に違ったところ、あるいは音楽ファンに支持された理由はなんだと思いますか?

〈品揃え〉だね。価格も良かった……多くの商品に〈スペシャルプライス〉をつけていた。それに新しい良質なものを網羅していたこともあるけど、最終的にはやっぱり品揃え。品揃えをよくしておくことで、いろんな(ジャンルの音楽)ファンに応えられる……ジャズ・ファン、R&Bなどなどね。それこそが人を惹きつけていた。

あと、ほかに支持された興味深い要素として、年中無休でしかも朝の9時から夜中まで営業していたことが挙げられる。休みの日でも、夜でも、若者たちには行きやすい場所だったし、行くこと自体が楽しいものだった。それは今日の日本でも実現されているね。ほかの国ではもう見られないけど。

 

 

――80年代に入って、タワーは日本に出店することになります。日本への出店の経緯や、進出するときに考えていたことは何でしょう?

経緯ね……本当に全部聞きたい?(笑) ある日、2人の日本人がサクラメントの私のオフィスにやって来て、日本でタワーレコードを出したい、と言い出した。そこで、資金があるのかと問えば、もちろんある、と言う。なので、では検討しよう、ということになった。検討して数か月が経ったところで航空券が送られてきて、日本を案内してもらうことになった。そして、私に全国各地にある小型のレコードチェーンを見せてくれた。

その後、さらに1年ぐらい話を進め、まずは〈卸売業〉から始めようということになった。つまり日本側はインポーターになって、当時のレコード小売店たちに売る、というものだ。それらのチェーンの名前は忘れたけど、大阪に1店舗、東京に2、3店、あとは京都を含めて各地に点在していた。それらのお店に〈タワーレコード・インポートラック〉と銘打った小さなラックを置いてもらい、私たちが輸入した商品を仕入れてもらう。赤坂のとあるビルの7階に倉庫を構え、実際に営業を開始した。

ところが1年ぐらいすると、サーヴィスがあまりよくなかったのかもしれないが、気づけば(それらの取引先が)よそから輸入盤を仕入れていることがわかった。われわれは卸売業があまり得意ではなかったようだ。そして最終的に決めたんだ、自分たちがもっとも得意とする分野でいこう、と。いまいち上手くいかない卸売なんてもういっさい忘れて、小売店を作って、まずはやってみようと。

そこで、渋谷に場所を見つけて、そこに出店した。広さは4,000平方フィート、約150-160坪(※編註:実際には112坪)ほどの大きさだが、開店と同時に爆発的な売れゆきだった。1981年当時はまだすべてがLPで、まさに驚異的な現象(のように売れた)。カリフォルニアからは毎日のように日本に向けてLPや商材を送り出して、実に素晴らしかった。そして、これはいいね、ほかにも出してみよう、ということになった。

そこからは、サクラメントの本社で起きることは日本でも起きていたね。日本での事業展開に関しても、USやその他の国でのやり方を実践してくれた。つまり1店舗出店し、上手くいったなら次の場所を探してそこに出店する。特に計画があったというわけではなく、出店したい街に、相応しくてよさそうなロケーションを見つける。そこで初めて実践する、というやり方。例えば、仙台に出店したいということであれば、そこに適切な場所を探す、それは新潟でも京都でもどこでも同じ方法だった。

※インタヴュー後編はこちらから

 

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