©Markus Jans

アイスランド的なバッハで魅了する、待望のゴルトベルク変奏曲。

 ピアニスト、ヴィキングル・オラフソンの演奏を聴くとき、彼の音楽から感じるアイスランド的感性というものをつい考えてしまう。そして現地の風景を思い浮かばずにいられない。

 樹木が欧州中でもっとも少なく、天気が良ければ遠くまで見渡すことのできる草原。その下に確固として存在する溶岩原。氷河とフィヨルドの織りなす壮大な自然。冬は日照時間が短く、極度に寒くなる。家にいても暗く冷え込むので、人々はかえって音楽会場に集まる。そして熱演に息を呑む。

 やがて、首都レイキャヴィクのハルパホールに想いをめぐらせる。彼の録音や動画撮影に常に欠かせない場所だ。幾何学的に組み合わせた1万枚の窓ガラスは万華鏡のようで、彼の透明なタッチと相性が良い。アイスランドのクラシック音楽の歴史は浅い。けれども、思いもよらぬ斬新な表現が生まれる。そんな期待がある。

VÍKINGUR ÓLAFSSON 『J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲』 Deutsche Grammophon/ユニバーサル(2023)

 彼が、今回ドイツ・グラモフォンからリリースするのは、2018年に続いてのヨハン・セバスティアン・バッハ作品集。それも多くのピアニストにとって活動の集大成とされるゴルトベルク変奏曲だ。初となる録音は彼の25年来の夢の実現でもある。

 かつて〈アイスランドのグールド〉とニューヨーク・タイムズ紙で評されたこともあった。バッハへの敬愛と、タッチや録音環境へのこだわりという共通項。そう言いたい気持ちは少しわかる。しかし、以前インタビューでその話題を振ると、グールドは誰も真似するべき存在ではないのだと、戸惑いの表情を浮かべた。少し話題を変え、「あなたの音楽は〈Delightful〉(喜びに満ちたの意)ですね」と形容したとき、そうなのだ、そうあるべきなのだ、という具合に深く頷いていたことが今も印象に残る。

 今回の録音は、テンポの速い軽快な演奏だ。2018年のアルバムのように、曲を組み替えることはせず、律儀に順番通りに弾く。一般に、アリアおよび全ての変奏において反復をどうするか、という問題があるが、一方ではグールドの反復なしの録音を気にかけながらも、全て弾くことを自らに課している。反復において個性的な装飾音をつけ、あからさまに気を惹こうとすることもない。彼にとって、ゴルトベルクは自分の長所や欠点をあからさまに映しだす〈絶対的な鏡〉なのだ。ある種の風通しの良さは、夢中でバッハとの対話に取り組もうとした結果なのだろう。もちろん、ミニマリズムを通った構成感と、透き通るようなピアノのタッチを心がけながら。

 さまざまな挑戦、試行錯誤があったと聞く。第11変奏では、もともとかなり遅く弾いていたが、早く弾いたものを最後に採用したとのことだ。第13変奏は彼のフェイバリットで、静止した白昼夢のサラバンド(スペインの舞曲)のように捉え、その静寂さ、簡素さを称え、メロディが拍に合わせて飛び交うさまがうまく表現されている。

 最も得意とする緻密な対位法的アプローチは今回も健在だ。第15変奏において独立した各声部はバランスよく緻密に構成され、明るいタッチによる悲哀に洗練がある。

 彼は、今までゴルトベルク変奏曲を、巨大な構造に複雑な装飾がなされた、壮大な大聖堂のように捉えていたが、最近、よりふさわしい比喩を見つけたという。今作の魅力が少し伝わるかもしれない。以下に翻訳してのせよう。

 「(ゴルトベルク変奏曲は)有機的で、生き生きとし精力に満ちた樫の木のようで、その壮大さは大聖堂と比較しても劣らない。その形態は敏感に反応し、再生する。葉を絶えず広げ、形而上学的にして時空を曲げるような光合成をおこなう。そして崇拝者のために、音楽的酸素を提供するのだ」

 これから新作を引っさげ世界ツアーを行う。日本では、柔軟な感性でバッハに臨んだという意味で、先輩格にあたるサックス奏者の清水靖晃らとの同会場のゴルトベルク変奏曲の競演が目を離せない。どのような化学反応を起こすだろうか。今から楽しみだ。

 


ヴィキングル・オラフソン(Víkingur Ólafsson)
1984年アイスランド生まれ。 2008年にジュリアード音楽院でロバート・マクドナルドのクラスを卒業。世界のトップ・オーケストラ、コンサートホール、フェスティバルで高い成功を収めており、コンテンポラリーな作品の演奏でも高い評価を得ている。伝統的なコンサート・ピアニストであると同時に、ビョークやオーラヴル・アルナルズ等コンテンポラリー・コンポーザーたちともコラボレーションを行い新たな世界を切り拓いている。

 


LIVE INFORMATION
ヴィキングル・オラフソン来日公演
ゴルトベルク

2023年12月2日(土)東京・サントリーホール
2023年12月6日(水)札幌・札幌コンサートホール Kitara 小ホール
2023年12月8日(金)浜松・アクトシティ浜松 中ホール
2023年12月10日(日)名古屋・三井住友海上しらかわホール

究極のゴルトベルク
ヴィキングル・オラフソン+清水靖晃&サキソフォネッツ

2023年12月3日(日)東京・すみだトリフォニーホール
2023年12月9日(土)大阪・住友生命いずみホール

https://avex.jp/classics/vikingur2023/