イッツ・ア・ビューティフル・デイ “White Bird”
イッツ・ア・ビューティフル・デイは、ユタ・シンフォニー・オーケストラ出身のヴァイオリン奏者、デイヴィッド・ラフラムをリーダーに活動し、後にダン・ヒックスとも共演したバンドだ。デイヴィッド・ラフラムが最初に活動を開始した頃、彼らは不運にも彼らを不当に扱い、バンド名も自分の名前で登録してしまったマシュー・カッツとマネージメント契約を結ぶ(カッツはジェファーソン・エアプレインやモービー・グレイプとも何年にも及ぶ裁判沙汰になっている)。
バンドはしばらくの間、カッツが曇り空でよく知られているシアトルに所有していた家の屋根裏に住んでいた。ラフラムは、この屋根裏で“White Bird”を書いたと言っている。彼はここに住んでいる間の、交通手段もなく食事もままならない、囚われたような感じを歌にしたという。この曲はサンフランシスコで絶大な人気を誇ったが、他の場所ではそこまでの人気はなかったため、チャートでは47位となった(このアルバムは絶版となったため、コレクター・アイテムとして非常に人気がある)。イッツ・ア・ビューティフル・デイは68年にクリームの前座を務めて最初に人気が出た。この後に続いたアルバム『Marrying Maiden』(70年)はデビュー・アルバムを上回る28位となったが、“White Bird”は彼らのシンボル・ソングであり続けた。この曲は何度もカヴァーされ、TV番組や映画でも使われている。
ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー “Piece of My Heart”
ジャニス・ジョプリンはテキサス出身の売れないブルース・シンガーだったが、サンフランシスコのコンサート・プロモーターで同じくテキサス出身のチェット・ヘルムスに呼ばれ、彼がマネージメントしていた、当時すでに名前が売れていたビッグ・ブラザーと出会った。そして、ソロ活動を始めるまでに、彼らと2枚のアルバムを作っている。ジャニスは生前3枚のアルバムを発表しているが(『Pearl』は彼女の死後3か月後に発売された)、その内2枚はビッグ・ブラザーと一緒に出したものだ。彼女のソロ・アルバムのサウンドはより洗練されていたが、ビッグ・ブラザーと一緒に出したアルバムでの彼女の生のソウルフルな歌声は、ビッグ・ブラザーのサウンドとマッチして素晴らしい。
ボズ・スキャッグス “We Were Always Sweethearts”
多くの人々にとって存在しないも同様だったボズ・スキャッグスだが、76年に発表した『Silk Degrees』(76年)が500万枚以上売り上げたメガ・ヒットとなった。その後彼はメジャー・レーベルから4枚のアルバムを発表しているが、ビルボードでは124位が最高位だった。69年のデビュー以来、サンフランシスコのベイ・エリアで彼はスターとしての地位を確立。デビュー当時のスキャッグスはホーン・セクションを含む人種混合のファンク・バンドで、ヴァン・モリソンに例えられる素朴なサウンドで演奏していた。この曲は、メジャー・レーベルから出した二番目のアルバム『Moments』のリード・トラックとして収録された。
マイク・ブルームフィールド “Killing Floor”
マイク・ブルームフィールドはシカゴのユダヤ系資産家の息子だった。彼はブルースを集中して学び、自分より年上のブルース・マンと親しくなって、ブルース・ギタリストとして誰よりも上手くなるまで練習を続けた。これにより、彼は独創性に富んだポール・バターフィールド・ブルース・バンドと共演、ボブ・ディランの曲の中でも特に重要視されるものにも参加している。また彼はアル・クーパーとアルバム『Super Session』(68年)を制作、高い評価を得た。ディランとのレコーディングの後、ブルームフィールドはサンフランシスコに移住し、ディランのバック・バンド・メンバーでベーシストのハーヴィー・ブルックス、そしてウィルソン・ピケットのドラマーだったバディ・マイルズとエレクトリック・フラッグを結成。彼はベイ・エリアでよくソロでも活動、スター・ミュージシャンやこれからのスターたち、多くのバンドとも演奏している。ぜひハウリン・ウルフの“Killing Floor”、ブルームフィールドとエレクトリック・フラッグ・ヴァージョンを楽しんでほしい。