俗にサンフランシスコ・サウンドと呼ばれるのはヒッピー・サウンドだ。バンドマンがお揃いのスーツを着ることから、ベルボトムやペイズリーのシャツや、まあ、なんでも気に入ったものを着るように変わった頃のものだ。サンフランシスコ・サウンドには、当時主流の娯楽だったLSDやマリファナの影響も大きい。これの意味するものは、革新的で詩的な歌詞、独特な楽曲構成に楽器の使い方、ジャンルを自由に横断してミックスしたサウンドと言えるだろう。以下には、世界を驚かせた60年代中頃から70年代のサンフランシスコ・サウンドの例を上げてみたい。
ジェファーソン・エアプレイン “White Rabbit”
ジェファーソン・エアプレインはサンフランシスコ・サウンドが世界に向けて羽ばたくのを牽引したバンドと言える。彼らはサイケデリック・サウンドの先駆者で、セカンド・アルバム『Surrealistic Pillow』からの“White Rabbit”“Somebody to Love”などの曲で、最初にラジオ・ヒットを飛ばした。このバンドはフォーク・ロック・バンドとして活動を開始したが、『Surrealistic Pillow』からは、よりロックなサウンドに近づいていく。
このアルバムは、ドラマーのスペンサー・ドライデンとヴォーカルのグレイス・スリックが参加した最初のアルバムで、スリックは以前のバンド、グレイト・ソサエティのヒット2曲を携えていた。“White Rabbit”はルイス・キャロルの名作「不思議の国のアリス」を題材に、ドラッグへの関連性を混ぜ込んでいるもので、後に〈サイケデリック・ボレロ※〉と解説されるようになる。
※ラヴェル“ボレロ”風のリズムが使われている
グレイトフル・デッド “Truckin’”
グレイトフル・デッドは、ヒット・レコードも少なく、多量のドラッグ摂取で問題を起こし、ファンにはライヴを好きに録音させ、決まったリード・ヴォーカルを持たず、キーボードは定着しないなど問題山積にも関わらず、ある意味サンフランシスコ・サウンドでもっとも有名なバンドであり続けた。
バンド・メンバーはモダン・クラシック、ロック、ブルーグラス、フォーク、カントリー、ジャズやブルースなど様々なバックグラウンドから集まっている。グレイトフル・デッドは、彼らの傑作『American Beauty』以前に4枚の形態のバラバラなアルバムを出しているが、『American Beauty』で彼らの様々なバックグラウンドがうまくまとまり、素晴らしいオリジナル・サウンドを作り上げた。“Truckin’”は、バンドがニューオーリンズで逮捕された時の実話を元にしていて、ビルボードでは64位になっている。これは、この後87年に“Touch of Grey”が出るまで、彼らがチャートでつけた最高位だった。
サンタナ “Evil Ways”
サンフランシスコという街には、その歴史の始め頃から一定数のメキシコ移民が、街の中でも貧困層の一部として定着している。カルロス・サンタナはメキシコのティファナから、家族でサンフランシスコに移住してきた。サンタナ・ブルース・バンドを結成する以前はストリートで大道芸として演奏をしていたという。
彼の技術はコンサート・プロモーターだったビル・グラハムを感心させ、そのラテン・ジャズ・サウンドは、当時の流行だったフォークの影響が強いヒッピー・サウンドとは合うと言えないものだったにも関わらず、グラハムはサンタナを起用するようになる。グラハムを通してサンタナのバンドは〈ウッドストック〉にブッキングされ、彼らのパフォーマンスは非常に高い評価を得た。当時サンタナはダイナーの皿洗いを続けていて、ドラマーのマイケル・シュリーブはわずか20歳だった。彼らのデビュー・アルバム『Santana』は〈ウッドストック〉のすぐ後にリリースされ、ジャズ・パーカッショニストのウィリー・ボボにより有名になったトラック“Evil Ways”のおかげもあって、ビルボード4位に輝き、ダブル・プラチナ・アルバムとなった。