
俗にサンフランシスコ・サウンドと呼ばれるのはヒッピー・サウンドだ。バンドマンがお揃いのスーツを着ることから、ベルボトムやペイズリーのシャツや、まあ、なんでも気に入ったものを着るように変わった頃のものだ。サンフランシスコ・サウンドには、当時主流の娯楽だったLSDやマリファナの影響も大きい。これの意味するものは、革新的で詩的な歌詞、独特な楽曲構成に楽器の使い方、ジャンルを自由に横断してミックスしたサウンドと言えるだろう。以下には、世界を驚かせた60年代中頃から70年代のサンフランシスコ・サウンドの例を上げてみたい。
ジェファーソン・エアプレーン“White Rabbit”(67年作『Surrealistic Pillow』収録)
ジェファーソン・エアプレーンはサンフランシスコ・サウンドが世界に向けて羽ばたくのを牽引したバンドと言える。彼らはサイケデリック・サウンドの先駆者で、セカンド・アルバム『Surrealistic Pillow』からの“White Rabbit”“Somebody To Love”などの曲で、最初にラジオ・ヒットを飛ばした。このバンドはフォーク・ロック・バンドとして活動を開始したが、『Surrealistic Pillow』からは、よりロックなサウンドに近づいていく。
このアルバムは、ドラマーのスペンサー・ドライデンとヴォーカルのグレイス・スリックが参加した最初のアルバムで、スリックは以前のバンド、グレイト・ソサエティーのヒット2曲を携えていた。“White Rabbit”はルイス・キャロルの名作「不思議の国のアリス」を題材に、ドラッグへの関連性を混ぜ込んでいるもので、後に〈サイケデリック・ボレロ※〉と解説されるようになる。
※ラヴェル“ボレロ”風のリズムが使われている
グレイトフル・デッド“Truckin’”(70年作『American Beauty』収録)
グレイトフル・デッドは、ヒット・レコードも少なく、多量のドラッグ摂取で問題を起こし、ファンにはライヴを好きに録音させ、決まったリード・ヴォーカルを持たず、キーボードは定着しないなど問題山積にも関わらず、ある意味サンフランシスコ・サウンドでもっとも有名なバンドであり続けた。
バンド・メンバーはモダン・クラシック、ロック、ブルーグラス、フォーク、カントリー、ジャズやブルースなど様々なバックグラウンドから集まっている。グレイトフル・デッドは、彼らの傑作『American Beauty』以前に4枚の形態のバラバラなアルバムを出しているが、『American Beauty』で彼らの様々なバックグラウンドがうまくまとまり、素晴らしいオリジナル・サウンドを作り上げた。“Truckin’”は、バンドがニューオーリンズで逮捕された時の実話を元にしていて、ビルボードでは64位になっている。これは、この後87年に“Touch of Grey”が出るまで、彼らがチャートでつけた最高位だった。
サンタナ“Evil Ways”(69年作『Santana』収録)
サンフランシスコという街には、その歴史の始め頃から一定数のメキシコ移民が、街の中でも貧困層の一部として定着している。カルロス・サンタナはメキシコのティファナから、家族でサンフランシスコに移住してきた。サンタナ・ブルース・バンドを結成する以前はストリートで大道芸として演奏をしていたという。
彼の技術はコンサート・プロモーターだったビル・グラハムを感心させ、そのラテン・ジャズ・サウンドは、当時の流行だったフォークの影響が強いヒッピー・サウンドとは合うと言えないものだったにも関わらず、グラハムはサンタナを起用するようになる。グラハムを通してサンタナのバンドは〈ウッドストック〉にブッキングされ、彼らのパフォーマンスは非常に高い評価を得た。当時サンタナはダイナーの皿洗いを続けていて、ドラマーのマイケル・シュリーブはわずか20歳だった。彼らのデビュー・アルバム『Santana』は〈ウッドストック〉のすぐ後にリリースされ、ジャズ・パーカッショニストのウィリー・ボボにより有名になったトラック“Evil Ways”のおかげもあって、ビルボード4位に輝き、ダブル・プラチナ・アルバムとなった。
イッツ・ア・ビューティフル・デイ“White Bird”(69年作『It's a Beautiful Day』収録)
イッツ・ア・ビューティフル・デイは、ユタ・シンフォニー・オーケストラ出身のヴァイオリン奏者、デイヴィッド・ラフラムをリーダーに活動し、後にダン・ヒックスとも共演したバンドだ。デイヴィッド・ラフラムが最初に活動を開始した頃、彼らは不運にも彼らを不当に扱い、バンド名も自分の名前で登録してしまったマシュー・カッツとマネージメント契約を結ぶ(カッツはジェファーソン・エアプレーンやモービー・グレイプとも何年にも及ぶ裁判沙汰になっている)。
バンドはしばらくの間、カッツが曇り空でよく知られているシアトルに所有していた家の屋根裏に住んでいた。ラフラムは、この屋根裏で“White Bird”を書いたと言っている。彼はここに住んでいる間の、交通手段もなく食事もままならない、囚われたような感じを歌にしたという。この曲はサンフランシスコで絶大な人気を誇ったが、他の場所ではそこまでの人気はなかったため、チャートでは47位となった(このアルバムは絶版となったため、コレクター・アイテムとして非常に人気がある)。イッツ・ア・ビューティフル・デイは68年にクリームの前座を務めて最初に人気が出た。この後に続いたアルバム『Marrying Maiden』(70年)はデビュー・アルバムを上回る28位となったが、“White Bird”は彼らのシンボル・ソングであり続けた。この曲は何度もカヴァーされ、TV番組や映画でも使われている。
ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー“Piece of My Heart”(68年作『Cheap Thrills』収録)
ジャニス・ジョプリンはテキサス出身の売れないブルース・シンガーだったが、サンフランシスコのコンサート・プロモーターで同じくテキサス出身のチェット・ヘルムスに呼ばれ、彼がマネージメントしていた、当時すでに名前が売れていたビッグブラザーと出会った。そして、ソロ活動を始めるまでに、彼らと2枚のアルバムを作っている。ジャニスは生前3枚のアルバムを発表しているが(『Pearl』は彼女の死後3か月後に発売された)、その内2枚はビッグ・ブラザーと一緒に出したものだ。彼女のソロ・アルバムのサウンドはより洗練されていたが、ビッグ・ブラザーと一緒に出したアルバムでの彼女の生のソウルフルな歌声は、ビッグ・ブラザーのサウンドとマッチして素晴らしい。
ボズ・スキャッグス“We Were Always Sweethearts”(71年作『Moments』収録)
多くの人々にとって存在しないも同様だったボズ・スキャッグスだが、76年に発表した『Silk Degrees』(76年)が500万枚以上売り上げたメガヒットとなった。その後彼はメジャー・レーベルから4枚のアルバムを発表しているが、ビルボードでは124位が最高位だった。69年のデビュー以来、サンフランシスコのベイエリアで彼はスターとしての地位を確立。デビュー当時のスキャッグスはホーン・セクションを含む人種混合のファンク・バンドで、ヴァン・モリソンに例えられる素朴なサウンドで演奏していた。この曲は、メジャー・レーベルから出した2番目のアルバム『Moments』のリード・トラックとして収録された。
マイク・ブルームフィールド“Killing Floor”(エレクトリック・フラッグの68年作『A Long Time Comin'』収録)
マイク・ブルームフィールドはシカゴのユダヤ系資産家の息子だった。彼はブルースを集中して学び、自分より年上のブルースマンと親しくなって、ブルース・ギタリストとして誰よりも上手くなるまで練習を続けた。これにより、彼は独創性に富んだポール・バターフィールド・ブルース・バンドと共演、ボブ・ディランの曲の中でも特に重要視されるものにも参加している。また彼はアル・クーパーとアルバム『Super Session』(68年)を制作、高い評価を得た。ディランとのレコーディングの後、ブルームフィールドはサンフランシスコに移住し、ディランのバックバンド・メンバーでベーシストのハーヴィー・ブルックス、そしてウィルソン・ピケットのドラマーだったバディ・マイルズとエレクトリック・フラッグを結成。彼はベイエリアでよくソロでも活動、スター・ミュージシャンやこれからのスターたち、多くのバンドとも演奏している。ぜひハウリン・ウルフの“Killing Floor”、ブルームフィールドとエレクトリック・フラッグ・ヴァージョンを楽しんでほしい。
エルヴィン・ビショップ“Rock My Soul”(72年の同タイトル作収録)
エルヴィン・ビショップは、シカゴ大学に奨学金付きで合格した、オクラホマ出身の物理学専攻の学生だった。しかし、彼がそこで最初に出会ったのはブルース・ハーモニカ奏者のポール・バターフィールドで、ビショップはすぐに大学を中退し、モダン・ブルースの道を進むことになる。ポール・バターフィールド・ブルース・バンドは始まりの頃から素晴らしかったが不安定で、68年には、ビショップはソロ活動を始め、サンフランシスコのベイエリアに移動し、彼は現在もそこに住んでいる。
ソロ作品は主にブルースだが、カントリー、ソウル、そしてロックの影響も見ることができる。ビショップが1番よく知られているのはミッキー・トーマス(後にジェファーソン・スターシップに参加)がヴォーカルとして参加し、76年にチャート3位のスマッシュ・ヒットとなった“Fooled Around And Fell In Love”だろう。しかし、サンフランシスコ音楽ファンの多くは、マッスル・ショールスのバイブを感じる彼の72年のアルバム『Rock My Soul』を1番の作品として挙げる。このタイトル・ソングには金管と、バックコーラスに彼の恋人で、後にストーングラウンドのメンバーとなる偉大なジョー・ベイカーが参加している。
ダン・ヒックス“I Scare Myself”(69年作『Original Recordings』収録)
ダン・ヒックスは変人中の変人で、カントリー、スイング、ブルースとジャズの独特なミックスを彼自身の風変わりなユーモアで演奏するスタイルのミュージシャンだ。元々は大きな影響があるものの商業的には成功できなかったシャーラタンズというバンドのドラマーだったが、ソロでのデビュー・アルバム『Original Recordings』からシンガー兼ギタリストとして活動を始める。彼は自分のバンド、ダン・ヒックス・アンド・ザ・ホット・リックスを人気の絶頂で解散させるなど、名声への関心が薄かった。それでも、彼の音楽は人気が高く“The Piano Has Been Drinking”“How Can I Miss You When You Won’t Go Away”などは多くのミュージシャンがカヴァーしている。
クイックシルバー・メッセンジャー・サーヴィス“Fresh Air”(70年作『Just For Love』収録)
クイックシルバーはクラシックとジャズの影響を受け、ジョン・シポリナのギター・スタイルと、もうひとりのギタリスト、ゲーリー・ダンカンとの掛け合いが独特で冒険的なバンドだ。このバンドは元々、本名チェスター・パワーズ・Jr(ジェシー・オーティス・ファローという名前も使っている) で、ヒッピーのテーマソング“Let’s Get Together”を作った伝説的なミュージシャンのディノ・ヴァレンティが作ったバンドだった。だが、ディノはバンドが実際に活動を始める前にマリファナ所持で逮捕されたため、後にジェファーソン・エアプレーンとスターシップに移動するデヴィッド・フレイバーグが参加。当時、イギリス人キーボーディストのニッキー・ホプキンズもクイックシルバーに在籍していた。
収監後、ヴァレンティはバンドに復帰。長い活動の中で多くのメンバーが入れ替わったり、復帰を果たしている。彼らは、そのカオス的な在り方にも関わらず、最初の4枚のアルバムすべてがビルボード・チャートで30位以内にランクインしている。この曲“Fresh Air”はクイックシルバー4枚目のアルバム『Just For Love』から1番ヒットしたシングルだ。