2004年の初作『ひかり』から約12年、ミニ・アルバムも含めた4作とさまざまな名義でのCD-R作品や全国各地でのライヴ活動のみならず、京都で行われる〈ボロフェスタ〉を主催したり、日本のインディー・ミュージック専門のレコード・ショップ=Sunrain Recordsの運営など、さまざまな立場からシーンを支えてきたシンガー・ソングライター、ゆーきゃん。97年の大学入学を機に京都で音楽活動をスタートし、以降は東京、そしてまた京都と拠点を変え、現在は故郷である富山で音楽以外の職に就いている彼が、4枚目のフル・アルバム『時計台』を完成させた。今回も術ノ穴からのリリースで、DOTAMA泉まくらなどヒップホップのイメージが強い同レーベルのなかでは異色の存在にも思うが、ジャンルを越えたところで、両者の音楽観や活動スタンスが合致しているのだろう。なお、今作はライヴ会場や一部店舗限定で販売されるアイテムとなっている。

ゆーきゃん 時計台 術ノ穴(2016)

『時計台』のリリースに合わせて、この稿ではゆーきゃんの歩みを改めて振り返っていきたい。これまでに多様なミュージシャンと共に音を鳴らし、意識的であれ無意識的であれ、活動のなかで数多くの出会いをもたらしてきた彼のバイオグラフィーは、ひとつの日本のインディー・シーン小史にもなるだろう。この前編では、音楽活動をスタートし、〈ボロフェスタ〉を立ち上げ、2枚のアルバムを世に送り出した2000年代の活動を辿る。

 

京都インディー・バブルのあとに立ち上がった
〈ボロフェスタ〉と世界一声の小さなSSW

京都において、ゆーきゃんがシンガー・ソングライターとして認知されはじめたのは、21世紀を迎えた頃のこと。98年のくるりのメジャー・デビューを皮切りに、2001年にはキセルママスタジオYOGURT-pooらがメジャーに進出し、京都のインディー・シーンがブランド化していった時期だった。結果的に後続のバンドの多くがさまざまな事情で活動を止めていったことを踏まえると、ゆーきゃんやLimited Express(has Gone)FLUIDら〈ボロフェスタ〉第1世代と言うべきバンドたちの根本にあるアンチ・メジャー=インディペンデントな志向性は、京都インディー・バブルの成れの果てを間近に見ていたからなのかもしれない。

〈ボロフェスタ〉――ゆーきゃんとは切っても切れない、この京都の音楽フェスティヴァルについても説明しておくべきだろう。2002年に京都大学西武講堂でスタートし、2009年からは京都・KBSホールで開催されている同イヴェントは、Limited Express(has Gone)のJJ、ゆーきゃん、ロボピッチャー加藤隆生(現在は運営から離脱)、MC土龍(現Live House nanoの店長)を中心に、当時はまったくの無名だった京都のインディー・ミュージシャンたちによって立ち上げられ、いまや全国各地で花を咲かせているDIYフェスティヴァルの先駆けになった。なお、初年度のトリはclammbonギターウルフ。そのほかPEALOUTFOECONVEX LEVEL騒音寺ら関西勢も多く出演していた。


多くの出会いをもたらした外交的スタンス、
with his best friendsの結成

2000年代序盤のゆーきゃんは、エリオット・スミスニック・ドレイクなどからの影響が色濃い弾き語りが中心。冬の枯れ枝のようないでたちで、ギターを抱え囁き声で歌を紡いでいた。その静けさゆえにライヴハウスの空調を停止させたという逸話もあり、やがて〈世界一声の小さなシンガー・ソングライター〉と評されるようになる。その一方、いかにも詩人然とした繊細な佇まいとは裏腹に、クラブ・カルチャーなどバンド・シーン以外への理解も深く、当時から京都・丸太町METROなどに足繁く通っては夜通し踊りあかしていたという。そうした音楽リスナーとしての彼の根幹にある越境の姿勢は、やがてみずからを異ジャンルの橋渡し役として機能させていくことになる。

そもそもELEKIBASS坂本陽一が主宰するWaikikiより2004年にリリースされたファースト・アルバム『ひかり』の時点で、ゆーきゃんは、何者をも寄せ付けない孤独な魂を持ったシンガー・ソングライター、ではなかった。同作ではスキマスイッチしんたふちがみとふなと船戸博之あらかじめ決められた恋人たちへ池永正二など多数のミュージシャンが彼の楽曲にさまざまなトリートメントを施し、ゆーきゃんのゴーストリーかつ突き刺すような歌をさらに輝かせている。プログラミングのビートなどエレクトロニクスの使用も目立ち、タンや初期フォー・テットを思わせるフォークトロニカ色も強い。当時も、ライヴでの弾き語りイメージを超越したサウンドだと思ったが、今回あらためて聴いてみて、いわゆるフォーク・シンガー的な要素がここまで薄い初作だったことに驚いた。

2004年作『ひかり』収録曲“天使のオード”の2010年のライヴ映像
 

そして、かねてからの外交的スタンスが、『ひかり』以降に彼の主編成となった、ゆーきゃん with his best friendsの結成を導いた。現在サカモト教授として知られる坂本健太郎(キーボード)、CHAINSのリズム隊であるラリー藤本(ベース)と伊藤拓史(ドラムス)、そして石本学(ギター)に柴田康平(サックス)という京都の実力派ミュージシャンをバックにした同名義での活動は、2007年の2作目『sang』で大きな果実を実らせる。くるりの主宰するNOISE McCARTNEYとWaikikiの合同リリースとなった同作は、リリカルな鍵盤やジャジーなサックスをふくよかでグルーヴィーなリズム・アンサンブルが支える洒脱なアーバン・ポップ作に仕上がっており、その中心でゆーきゃんの歌声はどこまでも伸びやかに舞っている。これは、昨今のシティーな潮流や、OGRE YOU ASSHOLE近作に窺えるメロウ・グルーヴ以降の耳にこそ馴染むサウンドであり、いまこそ再発見されるべきアルバムだ。“詩月(whbf version)”や“月曜日(album mix)”などでの艶やかなR&Bサウンドは、ceroの『Obscure Ride』と並べて聴きたくなるほど。

ゆーきゃん with his best friendsによる“エンディングテーマ”のライヴ映像
 

なお、この時期のゆーきゃんのバンド・セットはwith his best friendsだけではない。ゆーきゃんmeetsあらかじめ決められた恋人たちへでは、スーパーノアキツネの嫁入りときめき☆ジャンボジャンボの面々もライヴ・メンバーとして加わり、多人数編成で轟音ダブ・サウンドを響かせていた。そして、このコラボは後にシグナレスと名を変え、2011年にfelicityより初作『NO SIGNAL』を発表する。また、同名義でのバンド・メンバーが、2013年前後にゆーきゃんがフロントマンを務めていたバンド・欠伸 ACBISの母体となった。

シグナレスの2011年作『NO SIGNAL』収録曲“ローカルサーファー”
 

 欠伸 ACBISの2012年の楽曲“SO LA I RO”

 

歩くインディー・メディア=ゆーきゃん
Sunrain RecordsとJunk Labでの活動

また、音楽家としての活動以外では、日本のインディー・ミュージックを中心としたレコード/CDショップ・Sunrain Recordsの店主を務めたこともゆーきゃん独自の立ち位置を作り出した。2008年に上京して東京・高円寺の店舗で勤務を始め、2009年の実店舗閉店以降も、戻っていた京都でオンライン・ショップとして運営を続けていた同店の存在が、多様なバンド形態で活動しつつ弾き語りのシンガー・ソングライターとしても精力的に全国各地で演奏を行っていた彼にとって、最良の情報発信の場となっていたのは間違いない。地方での優れたアーティストたちとの出会いが直接的にSunrain Recordsでの作品販売に繋がり、ゆーきゃんはますますメディアとしての側面を強めていく。さらに2008年からはLimited Express(has gone?)のJJと共同で、JUNK LABというレーベルを立ち上げ、これまでにオーストラリアのポスト・ロック・バンドであるマイ・ディスコの『PARADISE+』(2008年)と『Severe』(2016年)、少年ナイフDMBQなどに所属したドラマーであるチャイナ(2005年没)のオリジナル・バンド、Jesus Feverの『lemniscate』などリリースを重ねている。

※世界一声の小さなSSW、ゆーきゃんの15年(後編):術ノ穴との幸福な邂逅、温かなホーム〈あかるい部屋〉と歩む2010年以降