サイモンド・レイモンドの新バンド、ロスト・ホライゾンズ。左側がサイモン
 

元コクトー・ツインズのサイモン・レイモンドとロビン・ガスリーによって設立されたレーベル、ベラ・ユニオン(Bella Union)が、今年2017年で20周年を迎えたという。

ベラ・ユニオンといえば、今やドリーム・ポップの代表格とも言える存在となった男女2人組バンドのビーチ・ハウスや、フォーク・ミュージックを基軸にサイケデリックな感覚や音響実験を融合したミッドレイク、ヴァイオリンとギター、そしてドラムという変則的なアンサンブルにより深遠な音世界を提示するオーストラリア出身のダーティ・スリーなど、一筋縄ではいかない〈ミュージシャンズ・ミュージシャン〉的なバンド〜アーティストを数多く紹介してきた最重要レーベルのうちの一つである。新しい才能の発掘も積極的に行っており、今年リリースされたデンマークの男女混成バンド、ロウリー(Lowly)のデビュー・アルバム『Heba』も大きな話題となった。また、サイモン自身もロスト・ホライズンズとして久しぶりに音楽活動を開始し、先日ベラ・ユニオンからデビュー作『Ojala』をリリースするなど、レーベルとしてますます充実した展開を繰り広げている。

ベラ・ユニオン20周年企画・後編、『Ojala』についてのインタヴューはこちら
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そこで、今回Mikikiではサイモン・レイモンドへのインタヴューを実現。レーベル立ち上げの経緯や、看板アーティストであるジョン・グラントとの感動的なエピソード、さらにはコクトー・ツインズへの想いなど、貴重な話をたっぷりと聞くことができた。インタビュー後半には、サイモンが選ぶ〈ベラ・ユニオンを象徴する10枚のアルバム〉についての解説もいただいたので、そちらもぜひお読みいただきたい。

 

4ADのようにはなりたくなかった

――ベラ・ユニオンは、今からちょうど20年前にあなたとロビン・ガスリーによって設立されたレーベルです。当時、どのような想いがあったのでしょうか?

「どんなレーベルをやりたいか、どんなバンドを手掛けたいかなんてまったく考えていなかったよ。コクトー・ツインズのとき、あまり自分たちが満足できるレーベルがなかったから、それなら自由に活動できるレーベルを自分たちで始めるしかないと思って立ち上げたんだ。そうすれば、出たくないミーティングにも出席しなくてすむし、出したければソロ・レコードもリリースできる。自分たちが好きなように動けるレーベルが欲しかったんだ。それがどんどん広がっていって今に至るという感じだね」

――ここまで長く続けてこられた秘訣はありますか?

「さあ、何だろうね。レーベルを続けているうちに、他に自分が何をやったらいいのかわからなくなった(笑)。レーベル以外にできることが、何もなかったんだよ。コクトー・ツインズを解散したあと、すぐ他のバンドをやりたいとも思えなかったし、それ以外の新しいことに挑戦するのが新鮮だったんだろうね。何の経験もなかったことへの不安はもちろんあったけど、やりがいもあった」

――レーベルを立ち上げるにあたり、何かコンセプトはありましたか?

「それもなかった。自分たちが、これまで所属していたレーベル(4AD)のようにはなりたくなかっただけだね。ベラ・ユニオンが最初に契約をしたのは、オーストラリアのダーティ・スリーだった。アルバム『Ocean Songs』をリリースしたのが98年。次にサインしたのがザーズ(The Czars)。当時ジョン・グラントが所属していたバンドで、僕がプロデュースしたアルバム『Before... But Longer』を2000年にリリースした。最初のうちは、〈よくわからないけど、とりあえずスタートした〉といった感じだったね」

ダーティ・スリー
 

――やりながら学んでいったと。

「いいバンドもそうでないバンドも含め、いろいろなミュージシャンと契約してみて、そこからいろいろと学んでいった。どんなミュージシャンやバンドと契約すべきかわかってきたのは、2、3年後だね。音楽だけではなく、ミュージシャンの人柄も大切だということがわかったよ。ずっと一緒に関わっていくうえで、どんなにサウンドが良くても、人として好きでなければもちろん楽しめない(笑)。そういう意味では、レーベルをやっていくうえで自分自身がミュージシャンであるのは良かったと思う。バンドとの関わり方、距離の置き方は心得ていたからね」

――ミュージシャンの気持ちに立つこともできますしね。ところで、ロビン・ガスリーはレーベル内でどのような役割だったのでしょうか?

「ロビンはそこまで関わっていなかった。というのも、彼は僕以上に〈レーベル〉というものを嫌っていたからね(笑)。コクトー・ツインズ時代、レーベルとの思い出は良いものではなかったし、ベラ・ユニオンの作品もいくつかプロデュースしてみたものの、あまり楽しむことができなかったみたいだった。で、ちょうどその頃にフランス人女性と結婚もしたし、2001年にはレーベルを出てフランスに引っ越したんだ。僕自身は、今はバンドとの契約と制作を担当している。プレスなど他の分からない分野は、数人の友人たちに助けてもらっているんだ」

 

嬉しかったことや辛かったことのすべてが、ジョン・グラントには詰まっている

――あなたにとって、コクトー・ツインズは今どんな存在なのでしょうか?

「当時よりも今のほうが、ある意味自分にとって大きな存在なのかもしれない。あのバンドは、メンバー全員にとって、所属していることが本当に大変なバンドだったんだ。ドラッグの問題もあったし、メンバーの関係も良いものとは言えなかったからね。特に僕は、ロビンとエリザベス・フレイザーの間を取り持つ役割だったから辛かったよ。ただ、僕らがそれを苦痛と感じながらも粘ったのは、3人が一緒になって作った音楽は、必ず素晴らしいものだったからだ。それに対する疑いの余地は、まったくなかった。3人にしか作れない、特別なものが常に生まれていたからね。今となっては、当時生まれていたものの貴重さがよくわかる。バンド内のイザコザは毛ほども恋しくないけれど(笑)、あれは今でも恋しいね」

――例えばビーチ・ハウスのように、コクトー・ツインズの影響をダイレクトに感じさせるバンドもベラ・ユニオンには所属しています。そのことについてはどう感じていますか? 

「あまり考えたことがないな。ビーチ・ハウスは最初、もっとローファイでアンダーグラウンドで、コクトー・ツインズっぽくはなかったと思う。ただ、彼らが少し売れてきてからのパフォーマンスを観たときに、コクトー・ツインズ時代の思い出が蘇ってきたことは、確かにあった。そして、今の彼らの音楽には、明らかにコクトーっぽさはあるよね。ただ、最初に言ったように、影響云々についてはあまり考えないんだ。たとえ何かと比べたとしても、そっくり同じってわけじゃないから意味がないと思うんだよ」

ビーチ・ハウス
 

――20年間レーベルを続けてきて、特に印象に残っているのはどんなことですか?

「嬉しかったこと、辛かったことの両方に匹敵するのがジョン・グラントのエピソードだと思う。すごく良い話だよ。ベラ・ユニオンを立ち上げてから、文字通り1週間後に彼のバンド、ザーズからデモが送られてきてね。バンドはあまり好きではなかったんだけれど、その後もずっとデモを送り続けてきたし、ジョンのヴォーカルは好きだったので、契約することにした。それはさっきも話したよね?」

――はい。

「で、アルバムを数枚リリースした後、ジョンがバンドを脱退してアメリカへ戻ってしまった。アルバムがまったく売れず、ショーにも客が集まらなかったうえに、ジョン自身がバンドにいることを楽しんでいなかったんだよ。そこから彼は、ミュージシャンだけではやっていけず、ウェイターやバーテンをやりながらの生活を続けていた。それは彼にとって辛いもので、自殺すら考えたことがあるくらい〈闇の時代〉を過ごしていたんだ。

そのことを伝え聞いたミッドレイクが、当時NYに住んでいた彼に声をかけた。テキサスにある自分たちのスタジオに来て、一緒に音楽を作ろうと誘ったんだ。ジョンはそれに救われ、そのときにレコーディングされた音源が2年後、彼の最初のソロ・アルバム『Queen Of Denmark』(2010年)となった。非常にいいアルバムで、レヴューも上々。インタヴューのときに、このアルバムが出来るまでのストーリーをメディアに話すことが、ジョン自身のセラピーにもなったんだ」

ジョン・グラント
 

――そんな素敵なエピソードがあったのですね。あなたはジョンのどんなところに惹かれます?

「彼は頭が良くユーモアのセンスもあって、人間として最高だ。メディアにとっても、彼のおもしろいインタヴューは大ウケだった。13年経って、彼はようやく報われたんだ。今では世界中を周り、たくさんの人々の前でパフォーマンスするまでになった。ベラ・ユニオンにとって嬉しかったこと、辛かったことのすべててが、ジョンに関するエピソードに詰まっているんだよ」

 

サイモンが選んだ〈ベラ・ユニオンを象徴する10枚のアルバム〉

――ではここで、前もって選んでいただいた〈ベラ・ユニオンを象徴する10枚のアルバム〉について、作品ごとに思い入れを語ってもらえますか? まずは今年リリースされた、ロウリーの『Heba』から。

「まだレコードをリリースしていない、どことも契約を交わしていない状態の彼らのパフォーマンスを初めて観たときは衝撃を受けた。終演後、すぐに彼らの楽屋へ行って契約の話をしたんだ。ビーチ・ハウスと同じくゼロから始めて、レーベル内でどんどん成長したバンドの一つ。今では大きなツアーもこなし、ファンもたくさんいる。彼らのような個性のあるサウンドは、Pitchforkの力なんてなくても、ずっと生き残り続けると思うね」

ロウリー『Heba』収録曲“Word”
 

――続いて、ミッドレイクが2006年にリリースしたセカンド・アルバム『Trials Of Van Occupanther』。

「これはレーベルにとって、もっとも重要なリリースとなった一枚だ。彼らのことは、2002年にSXSWで見かけて一発で気に入った。ファースト・アルバム(2004年作『Bamnan And Slivercork』)は、正直そこまで良いとは思わなかったのだけど、彼らの成長に期待していた。それから数年後、彼らはこのアルバムをリリースした。テキサスにある自分たちの家で、セルフ・プロデュースによって作られたんだけど、とにかく全曲最高だよ。

この一枚で、彼らはレーベル内で最も成功しているバンドの一つになった。ミッドレイクは、こういうサウンドがメインストリームになる扉を開けたバンドだと僕は思う。それまでは、アメリカーナでフォーキーな、いわゆる西海岸的サウンドってあまり注目されることはなかったけれど、本作がキッカケとなってフォーク・ミュージックが昼間のラジオでもプレイされるようになったと思うんだ」

ミッドレイク『Trials Of Van Occupanther』収録曲“Roscoe”
 

――エズラ・ファーマンの『Perpetual Motion People』(2015年)については?

「エズラ・ファーマンは素晴らしいパフォーマーだし、人としても楽しいんだ。アメリカでは知られていたけど、ベラ・ユニオンがリリースするまでイギリスでは無名の存在だった。今ではヨーロッパでもビッグスターになったし、ファッションも含め、観ても聴いても楽しめるアーティストの一人になったよね」

エズラ・ファーマン『Perpetual Motion People』収録曲“Restless Year”