音楽を離さないで
たまにバッハ、モーツァルト、チャイコフスキーも名はでてくる。でも重要なのはジャン=ルイ・ラ・ロシュ、カザン、マレリーなど未知の作曲家だ。架空の、小説のなかだけの名ではあろう。

スローで、ミッドナイトで、アメリカン。「ネバーレットミーゴー……オー、ベイビー、ベイビー……わたしを離さないで……」このリフレーンが何度も繰り返されます。わたしは十一歳で、それまで音楽などあまり聞いたことがありませんでしたが、この曲にはなぜか惹かれました。いつでもすぐ聞けるように、必ずこの曲の頭までテープを巻き戻しておきました。(「わたしを離さないで」p.110)

 小説「わたしを離さないで」にジュディ・ブリッジウォーターが1956年に録音したアルバム『夜に聞く歌』のカセットテープがでてくる。収録された1曲を〈キャシー・H〉こと語り手〈わたし〉は愛聴、いや、かつて愛聴していたがいまはあまり聴く時間もなく、カセットそのものを大切にしている。もとは育った施設ヘールシャムの販売会で手に入れたもので、いまは代替わりはしている。すべてをとおしてでなく、ひとつの曲、小説のタイトルにもとられた“わたしを離さないで”を好んでいる。

この歌のどこがよかったのでしょうか。ほんとうを言うと、歌全体をよく聞いていたわけではありません。聞きたかったのは、「ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで」というリフレーンだけです。(……)歌の解釈としては、歌詞のほかの部分とちぐはぐで、どうも違うようだ、とは当時のわたしにもわかっていました。でも、気にしませんでした。これは母親と赤ちゃんの歌です。わたしは暇さえあれば、飽きずに何度でもこの歌を聞いていました。(「わたしを離さないで」p.111)

 もとのテープは失くしてしまった。さんざん探してもみつからなかった。そんな話があって後、あらためての言及があるのは、だいぶ時間が経ち、場所も移った第二部で、だ。施設からでてとりあえず自由に生活ができ、古いテープを見つける。かつての生活についてトミーと語りあう。熱心に聴きいったときのこと、それをみた先生のひとりの思い掛けない様子、施設にある諸々の秘密、を。

 マーク・ロマネク監督の映画には、カセットテープのシーンはあまりない。仲間たちのあいだでヘッドフォンを回し聴きする〈ウォークマンセッション〉が流行ったとのエピソードもない。いくつかべつのかたちに置き換えられてはいても。

 21世紀に書かれた小説だが、1990年代末にキャシー・Hが語っている設定で、カセットテープはまだ健在だ。ましてや語っている時点で過去のことなのでさらにあたりまえ。でも、施設にいた子にとってはそれなりに貴重だから、回し聴きしたりする。自分が聴くのは部分、ちょっと、だけ。でも、何度も回ってくるうちに、1曲を全部聴いた気になれる。

 カセットテープは遺伝子情報のことなのかもしれない。くるくると回るところも螺旋を想わせる。しかもここにでてくるカセットテープは、誰かが個人としてレコードから録音したものでなく、もともと複製技術によって大量生産したものだ。たまたま手にしていたものが失くなっても、またべつのおなじものがみつかる(かもしれない)。それは、クローンとしてのキャシーたちと重なってくるだろう。「わたしを離さないで」の平行世界は、この、わたし、わたしたちが生きている世界と平行/並行しているとともに、音楽のあり方、複製・精製技術の世界そのものと重なっている――。

 カズオ・イシグロの小説で音楽が、というなら、短篇集「夜想曲集」とともに、「充たされざる者」がある。後者、この奇妙な、イシグロ作品ではもっとも長く、こみいって、もしかしたら〈え? 何?〉と狐につままれたようにおもえてしまいそうな小説の語り手はピアニスト、ライダーだ。ある街に着いた〈わたし=ライダー〉は、数日のあいだ、ろくに自分の用事を果たすことさえできぬまま翻弄されつづける。予定は遅延され、迂回し、逸脱する。コンサートをするために招かれたはずなのに、練習する時間もない。知りあいなどないはずなのに、会ってみると知っているかのような、しかもかなり関係が深い相手だったりし、どこかに行って迷うと、つぎに足を運ぶべきところと裏道でつながっていたり、つまらない比喩だが、夢という語が脳裡をよぎる。

 たまにバッハ、モーツァルト、チャイコフスキーも名はでてくる。でも重要なのはジャン=ルイ・ラ・ロシュ、カザン、マレリーなど未知の作曲家だ。架空の、小説のなかだけの名ではあろう。“わたしを離さないで/Never Let Me Go”ならいくつも曲があり、〈ジュディ・ブリッジウォーター〉は架空のアーティストだったからわかりやすかった。でも、ここではもっとねじれている。映画「二〇〇一年宇宙の旅」がでてくるのはいいが、クリント・イーストウッドとユル・ブリンナーが出演している世界なのだ!

 深夜の上映会後、疲れてへろへろになってホテルに戻ったライダーは、いつ寝ていただいてもかまわないのですこしでも自分の演奏を聴いてほしい、と支配人ホフマンの息子、アマチュア・ピアニストのシュテファンに懇願され、根負けする(この男はまわりに押し切られてしまうこと多し……)。

やっとシュテファンが《ガラスの情熱》の第一楽章を弾きはじめた。最初の数小節のあと、わたしはしだいに音楽に引きこまれていくのが分かった。演奏を聴くや、青年がこの曲を熟知していると言いがたいのは明らかだったが、それでも、ためらいとぎこちなさの下にまぎれもなく独創的な発想と繊細な感情の表現が感じられ、わたしはひとかたならず驚いた。この段階の荒けずりな演奏を聴いても、彼のカザンの解釈には、他の大多数の解釈にない独特のきらめきがあるようなのだ。(「充たされざる者」p.269)

 ここにはカザンの作品についての理解があり、若きシュテファンの演奏についての眼差しが、ピアノで演奏=解釈されるべきカザンの楽譜とそれにむかうピアニストとの距離の正確な計測と批評が、それらが擦りあわせてこその発言がある。この見識ある人物はこんな発言もする。

「三和音の色づけには、それ自体の持つ感情的な特質などありません。実際、その感情の色合いは、前後の流れによってばかりか、音量によっても、大きく変わりうるのです。それがわたしの個人的な見解です」(「充たされざる者」p.349)

 ストーリーを先へ先へと進めてゆくというより、むしろ、これでもかというくらいにストーリーを停滞させる「充たされざる者」は、カズオ・イシグロが初期作品から用いてきた奇妙にすれちがったり反復したりする対話も応用しつつ、あいだにきらりとひかる革新的なもの言いをするし、一種の真摯な芸術論(の断面)をみせたりする。しかしそれもまた溢れでてくる凡庸なことばの波に呑みこまれ、いわば――これじたいがその反復にほかならない――無償の饒舌たる近現代を戯画化する。

 音楽とか芸術とかについて真摯な姿勢を抱きつつ、しかし同時に、誰もがいつでもどのように発言をしてもかまわないし、そこでは正しいとか間違っているとかが問題にされない様態のなか、ほとんどこの街のお荷物でしかない老音楽家ブロツキーのこんなことばを、小説の読み手はどんなふうに読んだらいいか。

「癒えそうにない傷は、すぐに分かる。わしが指揮者をしていたときでさえ、音楽はただそれだけのものだと分かっておった。つまり、ただの慰めにすぎんと。音楽はいっときの助けにはなった。傷をぎゅっとつかんでいる感じが好きだった。うっとりしたよ。いい傷ならば、それができる。うっとりなれる。毎日少しずつ違って見えるのさ。おやこいつは変わったのかと、考える。ひょっとしたら、最後には癒えるのかもしれんと。鏡のなかでそいつを見ると、違って見える。だが触ってみると、前と同じ、古いおなじみの傷だ。何年も何年もそんなことを繰り返したあと、やっぱりこの傷は癒えないと分かって、最後には飽きてくる。ほんとうにうんざりしてくる。(……)ほんとうにうんざりしてくるんだ。あんたはまだうんざりしとらんかね、ライダーさん? ほんとうにうんざりしてくるんだよ」(「充たされざる者」p.552)

 いま、〈あなた〉はうんざりしていないか? これも、小説の単なる読みすごされる一節にすぎないのだろうか? 音楽の、いつのまにか通りすぎてゆく一節とおなじように。大量にあらわれては消えてゆく複製される音源にまみれて。わたしはといえば、小説を閉じた後、ステイシー・ケントが歌う、カズオ・イシグロの詞による“バレット・トレイン(新幹線)”を、“チェンジング・ライツ”を、聴きかえす――They call this the Bullet Train/But it feels like we’re not moving/Tell me, are we really moving?(BULLET TRAIN)

 


カズオ・イシグロ(Kazuo Ishiguro)
長崎県出身の日系イギリス人小説家。「遠い山なみの光」(1982年)で長編デビュー。1989年に「日の名残り」でイギリス最高の文学賞ブッカー賞を受賞。長編6作目となる「わたしを離さないで」は2005年に出版され、「日の名残り」に続き映画化。日本ではドラマ化もされた。今年2017年ノーベル文学賞を受賞。ロンドン在住。

 


寄稿者プロフィール
小沼純一(Jun' ichi Konuma)

音楽・文芸批評、早稲田大学教授。春までには刊行できるだろう本の原稿を編集者に渡した。ちょっといいかんじ。