世界をダメな音楽から救うために戦い続ける
D.J.Fulltono「いまのトラックスマンのスタイルになったのは、J・ディラにインスパイアされたからというのをインタヴューで読みました」
トラックスマン「90年代初期、彼がスラム・ヴィレッジで活動していた頃からハマってたよ。あとはピート・ロック、DJプレミアにも惹かれた。J・ディラはまさにダーティーな感じでね。自分がトラックを作る時も、みんながやりたがるクリーンな音というよりは、ああいうダーティーな感じに影響を受けたよ。だから〈ちょっと土をぶっかけちゃえ〉っていう意識を持っている。土埃を被ったような、ザラついたサウンドにするようにね。サンプリングに関しては特に」
D.J.Fulltono「最初の頃のトラックスマンはゲットー・ハウスのスタイルだったけど、急にジャズのサンプリングを使うようになったりしましたよね」
トラックスマン「(そういう要素は)いつも自分のなかにあったよ。いろんなスタイルの音楽を常に聴いているし……耳は常にオープンであるべきだからね。思いつくままアウトプットしてる感じかな」
D.J.Fulltono「“Packman Juke”を作った時は、やっぱりアイデアがひらめいた!ってことですか?」
トラックスマン「パックマンね。あれは……ああそうだ! あれは“Blow Your Whistle”と同じ(パターン)。実は、パックマンの曲はもともと1分40秒のトラックで、短いんだ。2002年か2003年にあれを作っている時に何か用事が発生して、ちょうどあのお馴染みのフレーズの部分で誰かが電源ボタンを押しちゃったみたいで、そこで終わってしまったんだ。でも俺もトラックを長くするための作業を続けようとはしなくて」
D.J.Fulltono「僕が“Packman Juke”を最初に知ったのは、2006年か2007年にあの曲で子供が踊っている動画がYouTubeにいっぱいアップされているのを見つけた時で。地元のシカゴで相当流行ったんですか?」
トラックスマン「あの曲をプレイした時の盛り上がりようと言ったら、それはもうすごかった。異様だったよ。みんながあの曲に合わせて踊っていて、心底怖くなったよ。本当にビビった」
D.J.Fulltono「もう1曲、シカゴでヒットした“Get Down Lil Mama”は、当時僕が聴いたどのミックスにも入っていました」
トラックスマン「あのトラックはなかなかおもしろいんだ。もともとは別のタイトルだったんだけど、クラブ・ダイナスティーっていうところでDJしていた時、クラブに来ていた女の子を〈リル・ママ(Lil Mama)〉って呼んでたことがあって、そこに他の曲からのインスピレーションも得て“Get Down Lil Mama”に変えることになったんだ。その曲とDJラシャド&ギャント・マンの“Juke Dat Juke Dat”、DJスピンの“Bounce And Break Yo Back”と“What That Booty Do”――これらがまさにジューク・ミュージックの代表的なトラックだよ」
D.J.Fulltono「それらの曲はみんな使っていましたよね」
トラックスマン「その通り。いまでも使われているよ。でもシカゴはどうも頑固になってしまった。ラジオがどこもクリーンをめざすようになってしまったからね。だから状況は変わってきているよ」
D.J.Fulltono「そういえば、この間アップされたDJスラゴの新曲が“Get Down Lil Mama”をパクってましたね」
トラックスマン「ああ、あれね。放っとこうかな。スラゴは日和見主義だよな。いいんじゃないかな、すごいビジネスマンだ。いろいろ悪口を言ったりする人もいるけど……彼は悪い奴ではないと思う。ただ、ひたすらビジネスマンなんだよ。ちょっとやり方が良くない時はあるけどね。でも、使いたいなら使えばいいさ。ただし、タイトルまでパクることがあれば、それは大問題だよ。個人的に俺はそういう奴とはビジネスしないけど。例えばスラゴの作品に収録されたゴジラの曲※の場合と一緒だよね」
※ゴジラのテーマをサンプリングしたDJスラゴ“114799”(2001年作『Born Ghetto - From My Hood To Your Hood』収録)のこと。詳しくはこちらの回で解説されている
D.J.Fulltono「それは有名な話になっちゃってますよね……。では、これからの若いアーティストの話をさせてください。テックDJz(TEKK DJZ)※に僕を入れてくれたけど、あのクルーを結成したのはすごく急なことだったんですか?」
※〈Saving the world from bad music〉をテーマにトラックスマンが立ち上げたプロジェクト。2014年頃からクルーとして活動開始。USのみならず他国のDJも所属しており、D.J.Fulltonoもメンバーの一人
トラックスマン「そんなことないさ。みんなに説明して回ってるんだけど、名前はラシャドに由来している。2009年にDJヤング・テレム、DJキラーEなどの若手も加えて〈ゲトーDJ・オールスターズ〉をやろうと思ったけど、X・レイ(X-ray、ゲトーDJzのリーダー)に止められてしまった。いいアイデアだけどタイミングはいまじゃないのでは?ってことで。そのうちゲットー・テクニシャン※と合流したんだけど、ある時自宅でふらふらしていたら〈テックDJz〉という言葉が浮かんだんだ。ラシャドが付けた名前じゃないんだけど、彼からアイデアを得た。ちょうどロニー・リストン・スミスの“Quiet Moments”って曲を聴いている時にラシャドと思いついたんだ」
※現テックライフの前身となるクルー。DJラシャドを中心に、シカゴのローカル・ミュージックであったジューク/フットワークを世界に知らしめようという意気込みのもとに結成された
D.J.Fulltono「僕にとってはすごく急だった。僕が朝起きたらテックDJzに加入していることに気付いた……という状況で」
トラックスマン「いろんなことは俺が決めているけど、何かを決める時は必ずラシャドがその場にいたよ。彼が亡くなるまでは、誰を加入させるかを決める時も一緒に考えていたし。最初に入ったのはクロスファイアとDJフレッド、それに続いたのがK・ロックで、この3人がテックDJzのコア・メンバーさ。その後にいろんなDJが〈入れてくれ〉って言ってきたけど、ラシャドは〈こいつはやめとけ〉とか意見してくれた。でも俺が(テックDJzの)コンピに取り掛かろうとした矢先にラシャドが亡くなってしまったんだ。その時は集中もできなくなって、食事もできなくなったし、何も手につかなかったよ。ちょうど俺はNYにいたんだ。何が辛かったって、(ラシャドの)家族も話せる状況ではなくなってしまったから、遠い親戚などにそのことを伝える役を担ったのが俺で――まあその後、さらにテックDJzを拡大をすることになったんだけど、キュニーク(Cunique)を看板娘として入れたり、ジェイク(DJイネス)やフルトノ、ジャナラッシュとかが加入した……ボビー・スキルズは常にいたな。テックDJzがやっていることには誇りを持っているよ。みんながお互いに支え合って、困ったことが起きた時はサポートし合う、そんなネットワークがある。テックDJzは俺のものではなく俺らみんなのものだ。俺はキャプテンでもなんでもなくて、用務員みたいなものさ」
D.J.Fulltono「じゃあ僕はテックDJzの一員として何ができるでしょう?」
トラックスマン「いまやっていることを続けてくれればいいよ。君はBooty Tuneを持っているし、すでにかなりすごいことをやっているじゃないか。これからは他のクルーに入っているDJも積極的に入れていこうとも考えているんだ。一方で他のクルーと一緒になろうというアイデアもあるけど、いまは自分のやりたいこともあるからね」
D.J.Fulltono「では最後に、トラックスマンとして今後やっていきたいことを訊かせてください」
トラックスマン「悪い音楽から世界を救うことかな。救世軍に加わって、世界をダメな音楽から救うために戦い続ける。あとは、自分のハートに従ってリズムを追求し続けること。その追求が終わることはないんだ。ラシャドについて俺が好きだったのはそこなんだよ。一緒にひたすら探求し続けていたから。思い出すのが、彼が“CCP”(2012年)という曲を作るにあたってサンプルを探し求めていたんだ。たまたま俺が持っていたこともあって、〈なんで俺、サンプルあげちゃってるんだろ?〉って心の中で思いながらもあげたんだけど、そういうところでもラシャドのように探し求める姿勢が重要なんだ。また、そうやってサンプルを提供できるようにするのも俺のするべきことかな」
~対談を終えて from D.J.Fulltono~
この取材の後、次の現場である、〈トラックスマン流トラックメイク講座〉が開催される東京・恵比寿のKATAへ向かいました。トラックスマンは現場に着くなり、用意されていた彼の愛用機材(MPC)にすぐさま電源を入れ、その日の朝から言っていた、頭の中ですでに完成している曲をオープン前にものの30分程度で完成。トラックメイクのスキルの違いを見せつけられました。
ところで、僕との対談という設定でスタートした今回のこのトーク企画は、トラックスマンが約2時間、仲間や先輩を賞賛し続けるという(予想通りの)展開になってしまいました。ただそれは自分に話す隙を与えられなかったからではなく、トラックスマンが話しはじめて少し経ったところで彼が言い放った一言に、話そうと思っていた話題も吹っ飛んでしまうくらい面喰らってしまったからです。それは、
「タムはキック音をバウンスさせて、キックはスネアをバウンスさせる。レイヤーにレイヤーを重ねると全部の音が弾んでいる感じになる」
これは自分が曲を作るにあたってなんとなく頭にあった感覚そのものでした。それを理論的に〈お前がやりたいのはこういうことだろ〉と突きつけられたのです。早く大阪の自宅へ帰って自分自身の音楽と向き合いたい、そんな気分になるくらいのインパクトがありました。
僕が探り探りで作ったビートの、ほんの少し上手くいった部分にラシャドが気付き、それを理解できるトラックスマンに伝えた――この人たちの探究心と理解度はハンパない。自分の曲を褒められたとか、そんなことはどうでも良くて、ただただ凄いと思いました。
D.J.Fulltonoからのお知らせ
2月20日(土)TRIPPIN FACTORY @大阪・Triangle
http://triangleosaka.net/event/trippin-factory-2/
3月11日(金)ROBERT ARMANI IN OSAKA @大阪・SOCORE FACTORY
http://jp.residentadvisor.net/news.aspx?id=33477