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WHAT LOVE HAS JOINED TOGETHER
加入前や脱退後も含めて多様なキャリアを持つ個性的なメンバーたちの経歴を紹介!
   文/出嶌孝次

【OTIS WILLIAMS】テキサス出身で41年生まれ。いくつかのグループ活動を経てディスタンツからテンプス結成に立ち会ったオリジナル・メンバー。個性豊かな顔ぶれを舞台の裏表でまとめ、現在も唯一の生え抜きメンバーとしてグループを牽引し続けている。

【MELVIN FRANKLIN】ディスタンツからのオリジナル・メンバー。95年に逝去するまでオーティスを支えて生涯を全うしたグループの象徴的なベース歌手で、スイス・ムーヴメントやフォー・ラヴァーズ・オンリーら後進の育成にも努めた。

【ELBRIDGE BRYANT】ディスタンツからオーティスと行動してきたオリジナル・メンバーでテナー担当。飲酒問題などから63年末に解雇。脱退後はドラマティックスなどで歌うも、75年に逝去。

【EDDIE KENDRICKS】55年結成のキャヴァリエス~プライムスから参加したオリジナル・メンバーであり、ファルセットを駆使した歌声でテンプスを象徴するフロントマンとなった。サイケ路線に嫌気がさして71年に脱退し、モータウンの本流タムラでソロ・デビュー。ディスコ時代を予見した73年の“Keep On Truckin'”が全米1位を記録してブレイクし、続く“Boogie Down”や“Shoeshine Boy”などヒットを重ねていく。78年のモータウン離脱後は低迷していくも、ホール&オーツのフックアップもあって復権。92年に逝去。

 

【PAUL WILLIAMS】プライムスからのオリジナル・メンバーとなるバリトン担当で、シュープリームスらの振付けも手掛けた。鎌状赤血球症や飲酒に伴う心身の健康問題から71年に脱退。ソロ・デビュー目前の73年8月に自殺とされる状況で急逝している。

【DAVID RUFFIN】もともとアンナからレコードも出していたソロ歌手で、エルブリッジの後釜として64年に加入した色男。眼鏡の特徴的なヴィジュアルと紳士的な歌唱で人気を集め、エディと共に黄金時代の立役者となった。ただ、〈デヴィッド・ラフィン&テンプテーションズ〉への改名を進言するなどエゴが暴走し、素行の問題もあって68年に脱退。翌年にソロ・デビューするもドラッグなどの影響で徐々に身を滅ぼしていった。旧交を温めたエディとデュオ作『Ruffin & Kendrick』(88年)も残すが、91年に逝去。

 

【DENNIS EDWARDS】デヴィッドの後釜として68年に加入したアラバマ出身のシンガーで、もともとコントゥアーズの一員としてモータウン入りした後にソロ転向も決まっていた。グループのサイケ路線を野性的な歌唱で牽引するが、他メンバーがモータウンを去った77年に一人残される形で解雇。以降も80~84年、87~89年とワガママに出入りし、3度も加入脱退した唯一のメンバーとなった。84年には“Don't Look Any Further”がソロ・ヒット。その後は本家を横目に〈テンプテーションズ・レヴュー〉を率いてマイペースにライヴ活動を展開していたが、2018年に逝去。

 

【RICKY OWENS】“My Girl Sloopy”で知られるドゥワップ・グループのヴァイブレーションズを率いて50年代から活躍してきた大物で、エディの後釜として71年に加入するもすぐ脱退。その後はヴァイブレーションズを再興して活動を続けた。

 

【RICHARD STREET】もともとディスタンツでオーティスらと活動を共にしていたデトロイト出身の実力派シンガーで、男女グループのモニターズを組んでモータウンからデビューもしている。体調の悪いポールの影武者的なポジションを経て71年にテンプスに正式加入し、92年まで活躍した。2013年に逝去。

 

【DAMON HARRIS】もともとテンプスに憧れてヤング・テンプツを結成し、その発展型となるヤング・ヴァンダルズでデビュー経験もあった、グループ初の50年代生まれメンバー。すぐ脱退したリッキーの後釜に71年に座り、75年のテンプス離脱後はインパクトを結成して活躍。78年にソロ作も発表した。2013年に逝去。

 

【GLENN LEONARD】トゥルー・リフレクションのメンバーとして活動後、デイモンの後任として75年にテンプスに加入し、83年まで在籍したワシントンDC出身のシンガー。脱退後は神職に進む一方、テンプテーションズ・レヴューを名乗っての活動も展開。2011年には初のソロ作もリリースしている。

 

【LOUIS PRICE】シカゴ出身の53年生まれ。デニスと入れ替わりで77年に加入し、アトランティック時代の主役を張る。グループがモータウン復帰した80年に離脱し、ドリフターズ加入を経て91年にモータウンからソロ・デビューした。

【RON TYSON】モンロー出身のシンガー/ソングライターで、エシックス~ラヴ・コミッティで活動してきた錚々たる前歴の持ち主。70年代からフィリー~サルソウルを拠点にさまざまなレコーディングに携わり、その過程ではテンプスの『Here To Tempt You』(77年)で7曲のソングライトに関わってもいた。グレン脱退後の83年に加入して以来、制作面でも貢献しながら35年に渡ってオーティスを支え、現テンプスではNo.2的な存在に。

 

【ALI-OLLIE WOODSON】デトロイト生まれのアラバマ育ちで、80年代テンプスを代表するテナー担当にしてマルチ・ミュージシャン。再脱退したデニスの後釜として84年に加入し、曲作りやアレンジ面でもグループに貢献した。デニスと入れ替わりで87年に脱退/89年に復帰。96年の脱退後は自身の〈エンペラーズ・オブ・ソウル〉なるレヴューやデニス版テンプスでも活動。素晴らしいソロ作『Right Here All Along』を残すも、2010年に逝去。

 

【THEO PEOPLES】グループ初の60年代生まれとなる、セントルイス出身のバリトン担当。リチャードに替わって92年に加入し、グラミー候補となった98年の復活作『Phoenix Rising』では制作面でも活躍したが、ドラッグ問題からリリース直前に解雇。フォー・トップスでの活動なども経験しながら、自作自演によるソロ作も断続的に届けている。

 

【RAY DAVIS】パーラメンツで活動を開始したPファンクのオリジナル構成員で、80年代にはザップ軍団でヒューマン・ボディとしても活躍した大物ベース・シンガー。メルヴィンの急逝に際し、95年の『For Lovers Only』でのみテンプスに助っ人(?)として参加した。2005年に逝去。

 

【HARRY McGILBERRY】フィラデルフィア出身で、メルヴィン~レイの後釜として96年に加入したベース・シンガー。70年代には地元を拠点とするフューチャーズでデビューしていた実力者で、不死鳥期のテンプスにも寄与したが、ドラッグ癖から2003年に解雇される。2006年に逝去。

 

【TERRY WEEKS】アラバマ出身で、アリ・オリに替わって98年に加入したバリトン担当。もともとオーティスとメルヴィンの後見を受けたフォー・ラヴァーズ・オンリーというトリオで、93年にモータウンからデビューしていた経歴の持ち主で、いわばテンプス直系の弟子にあたるわけだ。加入20年を経て、現在もグループの顔として活躍中。

【BARRINGTON "BO" HENDERSON】ワシントン出身でドラムスなど楽器演奏にも長けたメンバー。80年代後半にはソーラーのレイクサイドに名を連ね、ドラマティックスでも活動した後、セオの後釜として『Phoenix Rising』制作途中の98年にテンプスに加入する。脱退した2003年にはソロ作をリリース。

 

【G.C. CAMERON】スピナーズでの活動を経て70年代からソロに転じ、テンプスとは長らくモータウン仲間でもあった大物ソウル・シンガー(スピナーズ時代にはテンプス“Message From A Black Man”のカヴァーも歌っていた)。2003~2007年にテンプスに在籍し、以降は自身のソロ活動に専念している。

 

【JOE HERNDON】ドゥワップの名門スパニエルズで歌ってきたDC出身のベース歌手で、ハリー解雇後のテンプスに『Legacy』から加入。2015年に脱退。

【BRUCE WILLIAMSON】LA出身で初の70年代生まれメンバーだったバリトン担当。GCに代わって2007年にテンプスに加入し、2015年まで在籍した。

【LARRY BRAGGS】ブルースに代わって2016年に加入した現バリトン担当で、タワー・オブ・パワー在籍時に来日も経験しているほか、ソロ作も発表している芸達者。

 

【WILLIE GREEN】ジョーに代わって加入した現ベース担当で、80年代からセッション・シンガーとしてライ・クーダーやジョージ・ハリソンの作品に参加してきた。彼もまたなぜかテンプスに多いアラバマ出身だ。