BIOMANとの共作盤を経て3年ぶりに送り出されるフル・アルバム。アコースティックな演奏とエレクトロニクスが溶け合い、奇妙なアンビエンスやベース・ミュージックばりの低音が立ち現れたりするサウンドがとにかく鮮烈だが、あくまで宅録的な人肌感を宿しているがゆえに、人懐っこく聴き手を包む。何よりも、ルーツ・ミュージックの滋味を吸収した美しいラインを描くソングライティングに胸を射抜かれっぱなし。

 


1. 王舟さんの音楽について語ることは本当に難しい。音よりは言葉で捉えやすいだろう歌詞についても、何を歌っているのかがよくわからないということがある(独特の発音で歌われる、いわゆる〈王舟語〉のこと)。音にしても詞にしても、王舟さん自身は自分のなかになんとなく、もわっとある感覚を手繰り寄せるようにして、それにただひたすら正直に作っているのではないのだろうか。僕は勝手に、そんなふうに思っている。

そもそも音楽を言葉で表現することの不可能性というものが前提として、厳然たるものとしてあるわけで……。それについて考えはじめると、ではなぜ僕たちは音楽についてやたらと語りたがるのだろう?という疑問も浮かんでくる。どうあがいたって、語れやしないのに。

2.〈ムード音楽〉という言葉、ジャンルがある。その代表的な作家とみなされているポール・モーリアの名前は、王舟さんとBIOMANが作ったアンビエント・ポップ・アルバム『Villa Tereze』(2018年)についてのインタヴューでも(インタヴュアーである柴崎祐二さんの口から)挙げられていた。

いろいろな解釈があるムード音楽の定義を、試しに極限まで広げてみる。すると、音楽はすべてムード音楽だという考えが、どうしても拭い去れなくなってくる。音楽は常に〈ムード〉という捉えどころのない、もわっとした何かを表すものだと僕は思っているからだ。

リズムや和声、メロディー、楽曲の構成、あるいは音のテクスチャーに至るまで、いまは音楽の構造的な分析がよくなされるようになった。でもそれらは、例えば建築物で言えば骨組みや素材のようなものであって、その分析というのは、何か骨組みを恥ずかしげもなく露わにする作業のようにも感じてしまう。結局はそういったものを組み合わせて何を表現しようとしているのか?というのが音楽の肝心要なはず。

3. 誤解を恐れずに言えば、王舟さんの音楽は究極のムード・ポップだ。ここには、普通なら取りこぼしてもおかしくないような、もわっとした何かが実に頼りなげにふわふわと漂っていて、確かな手触りよりも不確かさや割り切れなさばかりがある。何もわからないという、ただそれだけがわかる音楽。王舟さんの音楽を聴いていると、そんなことを考える。それには、ふわっとした発声の軽い歌い口や、くぐもった発音による〈王舟語〉も多分に寄与しているはず。

4. そんな王舟さんの新作『Big fish』には、コーラスでトクマルシューゴ、見汐麻衣、annie the clumsy、tamao ninomiyaが参加している(敬称略)。たった一人で作った前作の『PICTURE』(2016年)とは正反対だ。

僕は特にtamao ninomiyaが透き通った歌声を寄せた“Kamiariana”が気に入っていて、ここでは2人のささやかでひそやかな声の交わりが聴ける。〈デュエット〉や〈ゲスト・ヴォーカル〉というような大仰な構えとは一切無縁のささやかさ。しかも、歌詞はほとんど言葉遊び。2人のパフォーマンスももちろんだけど、特にミックスが素晴らしくて、聴こえるか聴こえないかの微妙なラインをいく音量のバランスや、声が微妙に重なり合っているヴァースから一気に分離するサビの部分の音の配置が本当に見事だと思う。2人でまるまる一枚アルバムを作ってほしいくらい。

5. 数年前の〈ele-king〉のインタヴュー記事には〈“Roots”よりも“Routes”〉という言葉が掲げられていた。これは言い得て妙だと思った。その音楽がどんなルーツから構成されているのか。そんなことよりも、どんなルート=道筋を通って、どんな出口=音楽という表象に辿り着いているのか――それこそが大事なんだと。

これはもしかしたら、音楽について考えることの放棄かもしれない。でも僕は、いろいろな聴き方ができるだろう王舟さんの音楽をパーツに分解して、分析的に聴こうとは思わないし、これからもそうしたことをしないと思う。なぜなら、王舟さんにしか表現しえない、この絶妙な、ささやかな、捉えどころのないムードにいつまでも身を委ねていたいから。そしてそれこそが、王舟さんの音楽の(最良ではないにせよ、悪くはない)楽しみ方だと思うからだ。