ウィリー・コローンが死去した。
ウィリー・コローンが亡くなったことは、マネージャーのピエトロ・カルロスのFacebookアカウントで発表された。ウィリーは昨日2月21日に死去、75歳だった。死因は呼吸器系の問題だとされている。
ピエトロ・カルロスのコメントは次のとおり。
本日、私たちはニューヨークサウンドの創始者にして、音楽史に永遠の一章を刻んだトロンボーン奏者を失いました。“El Malo”から世代を象徴するアンセムまで、彼の作品は単なる音楽に留まりません。アイデンティティ、コミュニティ、意識、そして抵抗の象徴でした。
ウィリーは、サルサを変えただけでなく、それを発展させ、政治化し、都市の歴史を織り込み、サルサをこれまで聴かれたことのないステージへと導いたのです。彼のトロンボーンは人々の声であり、ニューヨークにおけるカリブ海の響きであり、文化間の架け橋でした。
本日、私たちは巨匠に別れを告げますが、彼の遺産は生きつづけます。それは、あらゆるジャムセッションのなかで、そして、サルサが音楽革命であり詩でもあることを発見するすべての若者のなかに生きつづけるのです。
ウィリー、これまでのすべてに感謝します。そして、なによりも、あなたの友情に感謝します。
ピエトロ・カルロス
ウィリー・コロンのマネージャー
ウィリー・コローンことウィリアム・アンソニー・コローン・ローマンは1950年、米ニューヨークシティのサウス・ブロンクスで生まれたトロンボーン奏者。プエルトリコ人の両親のもとに生まれ、幼い頃からプエルトリコの伝統音楽やキューバのソン、タンゴといったラテン音楽を教え込まれた。11歳でクラリネットを演奏しはじめ、のちにトランペット、そしてトロンボーンに転向した。
1965年、弱冠15歳でフューチュラ・レコードから初のシングルをリリース。17歳でファニア・レコードと契約し、1967年に1stアルバム『El Malo』でデビューを果たした。同作でプロデューサーのジョニー・パチェーコが引き合わせたボーカリスト、エクトル・ラボーと初共演を果たし、以降、2人で多数の作品を作り上げていくことになる。
ちなみに、アルバムタイトルに掲げた〈悪党(エル・マロ)〉というのは、彼が自ら名乗ったニックネーム。耳障りな不協和音を発するミュージシャンだと批判されたことやマフィアへの風刺・皮肉を込めて、不良のイメージを纏いつつ用いたものだ。
その後、『The Hustler』(1968年)、『Guisando: Doing A Job』(1969年)、『Cosa Nuestra』(1969年)、『La Gran Fuga』(1970年)、『El Juicio』(1972年)、『Lo Mato』(1973年)といった名作群やクリスマスアルバム『Asalto Navideño』(1970年)を制作し、ファニア・オールスターズにも参加。エクトルの薬物問題や関係性の悪化によってウィリーは彼と1974年に決別してしまったが、その後もエクトルの作品には関わっていく。
ソロアーティストとして再始動したあとは、音楽理論や作曲、オーケストラの編曲などを学びはじめ、セリア・クルスらシンガーの作品も多数手がけていく。1977年にはシンガーのルーベン・ブラデスを自身のオーケストラに参加させ、ルーベンとの新たな黄金タッグで『Siembra』(1978年)をリリース。同作はヒットを記録し、サルサ史に残る名盤になった。
プロデューサーとしてファニアの作品を多数手がけていた一方で、1979年のアルバム『Solo』ではリードボーカリストとしても活躍。同作のヒットも伴って、音楽家として不動の地位を築いた。しかし、1980年代半ば以降はニューヨークサルサのブームが衰退、ウィリーもファニアを離れることになる。
その後、1996年には功績が認められ、グラミー賞特別賞を受賞。1999年から活動を休止したが、2008年に1stアルバムの続編『El Malo Vol. 2: Prisioneros Del Mambo』を完成させて復帰を果たす。が、2023年、ライブ中に体調不良によって演奏を中止する事件が起こり、引退を示唆するコメントを発表していた。
ニューヨークサルサの立役者として数々の名作を残しながら、ロックやジャズ、ソウル、カリブ海やラテンアメリカの音楽との融合にも挑んできたウィリー。その音楽的な功績は計り知れない。
また、公民権運動に積極的に関わり、ラテン系の人々やコミュニティのための政治活動に長年コミットしてきた。移民問題でアメリカが揺れるいま、彼の遺産を改めて再訪する価値は大きい。
あのバッド・バニーもリスペクトするサルサの巨匠を追悼して、彼が遺した音楽にしばらく浸っていたい。