
中古レコードコレクター界では高額取引される超レア盤のLPレコード『マンガ浪曲《サラリーマン読本》』の完全復刻盤と、同じく初となるCD化の2タイトルがタワーレコード限定で2026年3月25日(水)に同時発売される。
味わい深いしわがれ声で浪曲をうなるのが、ヒット曲“嘆きのボイン”で知られる落語家の故・月亭可朝。カンカン帽にちょび髭、丸メガネがトレードマークという怪しいいでたち。〈楽屋に届いた出前のうどんを持ったまま舞台に上がり、それを食べ終えるだけで降りてきた〉など豪快な伝説には事欠かず。政界進出に失敗し、野球賭博やストーカー容疑で逮捕もされた。
このやんちゃ芸人が遺したアルバム『マンガ浪曲』の全曲に社会風刺が効いたスパイシーな詞をつけたのが、「パンチDEデート」の〈一目あったその日から恋の花咲くこともある。見知らぬアナタと見知らぬアナタのデートを取り持つパンチでデート!〉を考案するなど、関西の名番組の数々を構成してきた放送作家の池田幾三(いけだいくぞう)さん。御年90歳。池田さんが入所している神奈川県の介護施設を訪れ、アルバム制作の背景について話を訊いた。
可朝やんが「浪曲をやりたい」と言ったんですよ
――池田幾三さんが全曲の作詞を担当したアルバム『月亭可朝 マンガ浪曲《サラリーマン読本》』が発売から50年ぶりに復刻・再発されることになりました。
「1976年に発売されて、ちょうど50年ですか。いやぁ、懐かしいですね。私の手元にはもう元のLPレコードがないんですよ。河内音頭の河内家菊水丸くんに譲ったんじゃなかったかな。彼はこういう変わったものを収集していますから」
――このアルバムは、どのような経緯で制作されたのですか。
「アルバム制作のお話をいただいたのは、私が40歳になる手前の時期やったかな。当時、私はテレビ番組の主題歌や挿入歌の作詞をする仕事もしていましてね。そのご縁でテイチクエンタテインメントのディレクターだった八田亜生さんと知り合いました。それで八田さんが〈月亭可朝さんを起用して、なんぞおもろいレコードをつくりたい。池田さん、相談に乗ってくれまへんか〉と言うんです。〈ほんなら可朝やん※も交えて3人で話をしましょか〉と、こうなりましてね」
――池田さんは可朝さんと仲がよかったのですか。
「とても仲がよかったですよ。私が20代の頃からのお付き合いです。可朝やんは私の3つくらい年下でね。ほぼ同世代やったから、若手時代から気が合うたんです。よう一緒に遊びました。ゴルフへ行ったり麻雀をしたりね」
――それにしても不思議です。落語家の月亭可朝さんを起用して、なぜ畑違いなジャンルである浪曲のアルバムを制作しようと思われたのですか。
「浪曲にしたのはね、実は可朝やんからの提案なんです」
――あ、そうなんですか。
「可朝やんが〈浪曲がやりたい〉と言うんですよ。〈浪曲? あんた、ほんまに浪曲なんてできるんかいな〉と訊くと〈実は浪曲、好きでんねん〉と。それで試しに一節を語ってもらったら、汚いダミ声やけど、なんとも言えん、ええ味してるんですよ。これには八田さんも私も驚きましてね。あんた、どこで練習してきたんやと」
――実際、可朝さんは浪曲がかなりお上手ですね。アルバムを聴いてシビれました。
「可朝やんはね、裏で努力をして、表にそれを見せない人でした。それで〈じゃあ、浪曲でいきましょか〉と。せやけど普通に浪曲をうなるだけではおもろない。〈歌詞はイマふうの切り口で、ピリッとした風刺というか『かやく』(加薬)を効かせようやないか〉となりましてね。それで現代のサラリーマンの悲哀で全体を通す構成にしたんです」

その場のノリで生まれた日本初のラップ歌謡(?)“ミスター・チョンボ”
――制作には、どれくらいの時間がかかったのですか。
「一晩でつくりました」
――え! ひ、一晩ですか!? アルバムをたったの一晩で? 本当ですか。
「本当です。一晩、徹夜してこしらえたんです。私と可朝やん、八田さん、サックス奏者の古谷充(ふるやたかし)さん、古谷さんが率いていた〈コンコード〉のメンバーなど、梅田の小さなスタジオに集まって録音したんです。コンコードのなかには現在90代で現役ジャズピアニストとしてギネスブックにも記録されている大塚善章(おおつかぜんしょう)さんもいました※。真夏で、冷房が効かなくてね。室内がとても暑かったのを憶えています」
――そうそうたる和ジャズの面々で制作していたのですね。
「なぜかアルバムにお名前がクレジットされてないのですが、演奏したのは、すごい人ばかりですよ。他にも曲をつくっている最中に〈ここに三味線がいるな〉〈ここは尺八やな〉となると、お師匠さんたちを呼びだして、その場で演奏してもらってね。夜中でも来てくれました」
――そんなアドリブ的にレコーディングしていたのですか。すごいですね。
「もう即興。アドリブですよ。ほとんど何も決めずにスタジオに入りましたから。可朝やんや八田さんと相談しながら僕がその場で詞を書いて、すぐにメロディをつけて演奏して、可朝やんが歌ってね。録りなおしなんてしなかったな。どの曲も一発OK。そんなノリでしたね」
――なんと! 曲をその場でつくっていたのですか。ファーストテイクどころの騒ぎじゃないです。
「その場のノリですよ。僕がわりと気に入ってる収録曲に“ミスター・チョンボ(接待麻雀実況中継)”という作品があります。“ミスター・チョンボ”は、もともと麻雀用語をつなげた歌詞を私がある程度まで書いていてね。〈さぁ、メロディをどうしようか〉と。すると古谷さんやったかな、大塚さんやったかな、どっちか忘れてしもうたんやけど〈喋りのような歌でやりまへんか〉とアイデアをくださったんです」
――現在で言うところのラップをするって、その場で決めたのですか。でも1976年ならば、〈喋りのような歌〉はまだ一般的ではない時代ですよね。
「そうなんです。〈海の向こうで喋るように歌う、メロディがないような音楽があるんです。日本ではまだ知らない人が多いですから、このアルバムでやりましょ。可朝さんに思うままに喋ってもらって、あとでバックコーラスつけますから〉と、こう言うんです。それで半信半疑なままやってみたら、これがおもろかった。可朝やんも私も麻雀が好きやから、スタジオでも盛り上がりましたね」
――“ミスター・チョンボ”は〈本邦初のラップ歌謡ではないか〉という説がある奇特な曲で、クラブで回している若者もいます。
「今の若者に共感してもらえる部分もあるんでしょうね。他にも全編浪曲だけではおもろないからと、可朝やんが次々とアイデアを出しましてね。明治時代の日露戦争期に活躍した演歌師の草分けである添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)の“ラッパ節”“のんき節”や、第二次世界大戦の戦時下に親しまれた“ツーレロ節”、民謡の“江州音頭”など、浪曲の間にどんどん挟んでいった。結果的にバラエティに富んだアルバムになりました」
――可朝さんが作曲した作品もありますね。
「“ひとり酒”ですね。可朝やんが〈センセ、こんなメロディがおまんねんけど、なんぞ詞を乗せてくれまへんか〉と言うてきてね。可朝やんにメロディを口ずさんでもらって、それを聴いて私が詞を書いたんです。〈こんな短いメロディでは2行しか歌詞がないで〉と、2人でメロディと詞を増やしながらつくりました。とても切ないメロディでね。よい曲になりましたね。私のお気に入りです」
――お話をうかがっていますと、改めて可朝さんの多才さ、知識の豊富さに驚かされます。
「とにかく引き出しの数が多い人でしたね。都都逸(どどいつ)や河内音頭、古い流行歌など、よう知ってました。調べてるんやろね。それに座布団まわしのような曲芸も実はうまいんです。いったいいつ練習しているのか。誰に教わっているのか。ぜんぜんわからない。シャイなのか、そういう頑張っている部分は他人には見せなかったですね」
――そして、可朝さんのアイデアを瞬時に受け容れて、その場で作品にしてしまう池田さんやミュージシャンたちの対応力がすごいです。アルバム全体を貫く、やけっぱちとも言える怒涛の勢い、グルーヴ感の理由がよくわかりました。
「〈池田さん、この曲ちょっと短いわ〉〈ほな、今から3番と4番をこしらえるから、待っててや〉と言うて、その場でささっと書いてね。ええ加減なアルバムですが、全員の息がピタッと合うてました。せやなかったら一晩ではつくれなかったでしょうね」

適当にやるからおもろいんでんがな
――可朝さんと初めて出会ったのは、いつですか。
「初めて一緒に仕事をしたのは1964年です。梅田の阪神百貨店の1階に、当時はラジオ大阪のサテライトスタジオがありましてね。月曜日から木曜日まで、このサテスタで『即席リレー小話 ハイ本番』という番組を生放送していました。私はこの番組の台本を書いてたんです」
――その生放送に可朝さんが出演されていたのですね。
「そうなんです。出演者は日替わりでね。笑福亭仁鶴、可朝やん、二代目・桂春蝶、桂小春(現 四代目・桂福團治)の落語家4人がその日の新聞記事を題材とした小話を語る構成です。勢いのある若手ばかりで、みんな人気がありましたよ。なかでも可朝やんはズバ抜けて個性的やったですね」
――自由奔放な発言や行動で知られる可朝さんですが、やはり若手の頃から個性的だったのですね。
「とにかく落語がうまい。さすがのちに人間国宝となる桂米朝のもとで修業をしただけのことはあります。『住吉駕籠(すみよしかご)』という上方の古典落語があるんですが、もう絶品なんです。ところがテレビやラジオはね……何度〈可朝やん、あんたもうちょっと真面目にやりなはれ〉と諭したことか。すると可朝やんは〈落語やないねんから、こんなもん一所懸命やってどないしまんねん。適当にやるからおもろいんでんがな〉と、こう返してきよる」
――私も幼少期に可朝さんをテレビで観て〈こんなにふざけた大人が本当にいるんだ〉と驚きました。でも、そこがおもしろかったです。
「そうなんですよ。実際ね、肩の力が抜けていて、その姿勢がお茶の間にウケていました。私も可朝やんの考え方にずいぶんと影響を受けましたよ。〈そない真面目にやらんでもええな。それよりも自分が楽しまないと〉とね。可朝やんに共感できたからこそ、放送作家の仕事を何十年も続けてこられた部分もあるんやないかな」

国会議員に立候補したのは可朝やんなりの遊びなんです
――その後、可朝さんは1969年にテイチクレコードから“嘆きのボイン”をリリースし、80万枚の大ヒットとなります。月亭可朝時代の到来ですね。
「あの頃の可朝やんはほんま、ええ意味で適当でしたね。“嘆きのボイン”はギターの弾き語りなんやけど、コードなんて1つか2つくらいしか憶えてない。まともに弾いてないんです。それでもお客さんは大笑いやし、80万枚の大ヒットやからね。あの軽妙な感じが時代から求められたんです」
――1971年には参院選に立候補し、〈一夫多妻制〉と〈銭湯の男湯と女湯の隔てをなくす〉を公約としていました※。
「弟子に選挙カーを運転させて〈六甲山のてっぺんへ行け〉と命令するんです。弟子が〈師匠、山の頂上なんて人がいてしまへんがな。人がおらんところへ行っても選挙活動になりまへんで〉と言い返すと、〈アホ! それでええねん。選挙演説を人に見られたら恥ずかしいやないか〉と怒る。ハナから国会議員になる気なんかないんですよ。立候補したのは可朝やんなりの遊びなんです」
――遊びの度が過ぎて、1979年には野球賭博で逮捕されました。
「警察で取り調べを受けているとき〈世の中から金を巻き上げる悪い奴が胴元や。ワシは奴らの資金源から金を奪い返したんやから、ワシはむしろ正義やないかい〉と、こんなふうに抗弁してたくらいです。博打が好きで、〈大勝負の際に必要やから〉と家の権利書をつねに自家用車に常備しているほどのめりこんでいましたね」

可朝やんが亡くなって〈一つの時代が終わった〉と感じました
――そんな可朝さんは2018年に80歳で他界されました。その知らせを聞いて、どのように思われましたか。
「やりたい放題やってきた人でした。せやけど憎めない魅力がある。これはあくまで私の想像ですけれど、可朝やんは自分が歩んできた道を、まったく後悔してはおらんと思う。後悔があるとすれば〈もっと遊んでおきたかった〉、そういう後悔でしょうね。もうあんな人は二度と出てこないでしょう。今ならばコンプライアンスに引っかかって、テレビやラジオに出せないですよ」
――確かに可朝さんがお亡くなりになった時期(2018年)と入れ替わるように、急に放送業界のコンプライアンスが厳しくなった印象があります。
「可朝やんが亡くなって〈一つの時代が終わったな〉と感じましたね。私のホン書き歴の中で、何度か大きなエポックがあったんです。最初は上方コメディでした。私が放送作家を始めた頃は『てなもんや三度笠』『番頭はんと丁稚どん』『やりくりアパート』といったテレビコメディの舞台中継が全盛期でね。脚本を書くのが仕事やったんです。
スターと言えば南都雄二、藤田まこと、芦屋雁之助などの喜劇俳優でした。そこから10年足らずで今度は仁鶴、可朝、三枝(現在の六代目・桂文枝)、やすきよ(横山やすし・西川きよし)といった若手芸人が一気に台頭し、雰囲気がゴロッと変わった。芸だけやなく、その人のニン(人柄)が愛されるようになったんです。可朝やんは、その代表みたいな人でしたね」
――次世代を担う若き芸人たちに伝えたいことはありますか。
「可朝やんは破天荒な人やったけれど、根は笑芸が大好きなんです。根底に〈芸事が好き〉〈芸がある〉から許されてきた部分はあると思う。これからのお笑い界を背負う若い人たちには、〈私の芸はこうだ〉というのを確立してほしいですね。なんとなくいるタレントになるんじゃなくてね」
――『月亭可朝 マンガ浪曲《サラリーマン読本》』を聴いても、可朝さんの芸の凄みが改めて伝わってきます。今日は長時間、ありがとうございました。

RELEASE INFORMATION
リリース日:2026年3月25日(水)
オリジナル発売日:1976年10月25日
録音日:1976年8月5日
2026年最新マスタリング音源使用 LP 2026年カッティング
■LP

品番:TEA-29
形態:LPレコード(33 1/3 r.p.m.)
価格:5,500円(税込)
SIDE A
1.イントロダクション (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
2.浪曲口上 (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
3.母チャン行ってきます (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
4.タダの人(ラッパ節)(作詞)池田幾三 (作曲)不詳
5.構内 穴 ウンス (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
6.新歌笑曲 (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
7.チカン電車 (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
8.社内会議(江州音頭)(原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
9.重役コース裏道5ヶ条 (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
10.浪曲チリ紙君の運命 (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
SIDE B
1.浪曲サワリーマン (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
2.あゝ懐しの青春時代 (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
3.ミスター・チョンボ(接待麻雀実況中継)(作詞)池田幾三 (作曲)月亭可朝
4.浪曲男・涙の縄のれん (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
5.ひとり酒(歌謡曲)(原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
6.艶笑ツーレロ節 (作詞)池田幾三 (作曲)不詳
7.艶笑ノンキ節 (作詞)池田幾三 (作曲)添田唖蝉坊
8.浪曲オソマツの章 (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
■CD
品番:TEH-29
形態:CD
価格:3,000円(税込)
TRACKLIST
1. イントロダクション (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
2. 浪曲口上 (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
3. 母チャン行ってきます (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
4. タダの人(ラッパ節)(作詞)池田幾三 (作曲)不詳
5. 構内 穴 ウンス (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
6. 新歌笑曲 (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
7. チカン電車 (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
8. 社内会議(江州音頭)(原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
9. 重役コース裏道5ヶ条 (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
10. 浪曲チリ紙君の運命 (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
11. 浪曲サワリーマン (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
12. あゝ懐しの青春時代 (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
13. ミスター・チョンボ(接待麻雀実況中継)(作詞)池田幾三 (作曲)月亭可朝
14. 浪曲男・涙の縄のれん (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
15. ひとり酒(歌謡曲)(原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
16. 艶笑ツーレロ節 (作詞)池田幾三 (作曲)不詳
17. 艶笑ノンキ節 (作詞)池田幾三 (作曲)添田唖蝉坊
18. 浪曲オソマツの章 (原作)池田幾三 (構成)池田幾三・木本裕
PROFILE: 月亭可朝
落語家。1938年生まれ。意外にも神奈川県の葉山生まれ、横浜出身。最初の師匠こと3代目林家染丸に師事し(のちに破門)、吉本興業に所属。桂米朝の弟子として再入門し、幕末から明治にかけて活躍した落語四天王のひとり月亭文都ゆかりの亭号である月亭を襲名。初代・月亭可朝となる。襲名披露公演では舞台に置かれた棺桶から現れ、いきなり異彩を放った。高座でも洋風のカンカン帽をかぶるなどアクが強いキャラクターでお茶の間の人気者となるが、反骨精神に富んだ芸風は〈卑猥で下劣〉と賛否両論あった。営業先にて即興で歌った“嘆きのボイン”を1969年にレコード化し、80万枚の大ヒットとなる。1971年、第9回参議院議員通常選挙では全国区より無所属で立候補したが落選。2001年には第19回参議院議員通常選挙に自由連合公認で比例代表区から立候補したが再度落選している。無類の博打好きでもあり1979年、野球賭博で逮捕。〈バラエティ番組だけではなくニュースにも出る落語家〉と呼ばれるようになった。2018年3月28日、急性肺線維症のため兵庫県内の病院で死去。80歳没。
PROFILE: 池田幾三
放送作家/ラジオパーソナリティ。1935年生まれ。早稲田大学文学部演劇科を卒業後、カラーテレビの放送が開始された1959年4月に東宝テレビ部に入社。コメディドラマ「番頭はんと丁稚どん」などの脚本を執筆していた花登筺のもとで修行をし、のちに東宝テレビ部の同僚であった新野新と〈ペン企画〉を主宰する。放送作家として「パンチDEデート」のパンチライン〈一目あったその日から恋の花咲くこともある。見知らぬアナタと見知らぬアナタのデートを取り持つパンチでデート!〉を考案し、これが初のヒット作となった。以来「霊感ヤマカン第六感」「ABCヤングプラザ」「ざこば・鶴瓶らくごのご」「あまからアベニュー」など多数の名番組を手がける。また、帯番組「池田幾三のザ・トゥディー」などラジオパーソナリティとしても人気者に。
