映画という場所から生まれた〈声だけの存在〉

 映画というメディアは、〈声〉の存在を(それはもちろん〈音〉でも)、その発生源としてのイメージから分離し、個別に現れることを可能にした。それは、初期の無声映画にたいして、1927年以降登場した、映像に音声が同期したトーキー映画(発声映画)における特徴と言えるものだろう。その分離とは、空間的、時間的に操作されることで行なわれるが、それ以上に本書で論じられているのが〈音(声)だけが聞こえる〉というものである。 本書の著者ミシェル・シオンは、フランス国営放送の電子音楽研究組織(GRM)に所属したミュージック・コンクレート(具体的な録音された音を再構成して作曲する電子音楽)の作曲家、批評家であり、映画における音、音楽の関係の研究者である。代表的な著作であり、先に翻訳がなされたが、時系列的には本書(原著は1982年)の続編となる「映画にとって音とはなにか」(川竹英克、J・ピノン訳、勁草書房、1993年、原著は1985年)において、映画における音の操作とその効果を仔細に論じ、そこで (本書においても論旨の基底となっているが)映画の中の音を3種類に分類した。ある場面の画面の中に発話者や音のする出来事が映されるフレーム内の音、おなじ場面に存在しているが画面の外にあるために音源が見えないフレーム外の音、そして、映画音楽やナレーションまたはそこに実在しない、ことなる時空にある音あるいは声、である。

ミシェル・シオン, 川竹英克 『映された声 映画にとって「声」とはなにか』 フィルムアート社(2026)

 本書では、トーキー映画における〈声だけの存在〉の誕生が、映画というメディアにおける本質的な要件となっていることをしめす。それは、なぜ〈無声映画〉であり、〈無音映画〉ではないのかという言葉の問題にも表れているという。トーキー映画の登場によって事後的にそれ以前の映画が〈無声映画〉と呼ばれるようになった映画というメディアにおいて、〈声〉はそもそもどのような意味を持つのか。むしろ、映画というメディアの性質(声のみを後からサウンドトラックに挿入することを可能にする技術)が〈声だけの存在〉の表れを可能にすることになった。画面に映る、見えているものと、画面の外にある、見えていないもの、そしてそのどちらでもないもの、ナレーション、心の中の声、録音された声、機械によって発話されるもの、死者、どこにいるかわからないもの、身体をもたない人工知能。こうした属性を与えられた声の数々を、映画というメディアの特徴によって召喚されたキャラクターとして考えることによって映画の見方は変わるだろう。