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(C)Jean Radel

 

■1945年-50年代前半のトータル・セリエリズム

 1945年という年は世界的に社会の変革の年であるのみならず、音楽の世界にとってもとても大きな転換期であった。戦争中に情報は閉ざされ、ヨーロッパではナチスによって進歩的な音楽は禁止されていた。戦後、これにより聴くことができなかった現代音楽を取り上げるコンサートがドイツの各地で積極的に催された。当時のパリ音楽院では異端扱いをされ評判も悪かったメシアンは、実は和声法の教師にすぎなかった。作曲家の教師としてみとめられたのは60年代で、それまでは私的塾をひらいて当時の先鋭的な作品の分析をおこなった。そこには、ピエール・ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼンが参加した。一方で、シェーンベルクの弟子であったルネ・レイボヴィッツが、同様に私的にワークショップを開いて、ウィーン楽派の特にセリー音楽を教授した。そこにも新たな音楽を渇望していた若いブーレーズらが参加していたのは言うまでもない。

 

■トータル・セリエリズムと点描音楽

 当時の前衛の作曲家が12音技法などのような論理的な作曲技法と深く関わったもう一つの理由がある。戦後の作曲家は、戦争によって破壊された作曲界をゼロから作り直そうとした。それまで貯えた記憶や習慣を排除するために、客観的な方法で音楽を新たに作り直そうとした試みにも由来しているのである。セリーによる作曲は今日ではもはや音楽史上での過去のものとなってしまった。しかしその当時を振り返れば、音楽が内包するすべてのパラメータの解体と、新たな音楽の構築を導き出すための客観的な方法論は必然的であり、この50年代のセリー音楽手法以降の傾向もこれを元に何らかの影響を大きく受けている。

 トータル・セリエリズムと呼ばれるこの技法は、音高、リズム、強度、音色をセリーによって組織化する方法であり、戦後の中心的な作曲技法であった。シェーンベルクの時代の12音技法の場合では、音楽の解体という面では、音高というパラメータのみが扱われ、他の要素は依然として伝統的な方法に頼るものであった。このような音楽が成熟しつつあった50年代の前半に、エレクトロニック・ミュージックの技術の出現によって、数学的なアプローチによるエレクトロニック・ミュージックが進展した。従って、トータル・セリエリズムとエレクトロニック・ミュージックが密接な関係となって双方の発展に貢献したのである。

 

■1945年−50年代前半のブーレーズ

 ここでブーレーズのトータル・セリエリズムの代表作を見ていこう。ブーレーズは1940年代にパリの若いセリー音楽の作曲家の間ですでに注目を浴びていた。当時のブーレーズの主な作品に、《ノタシオン》(1945)、《水の太陽》(1948)、《婚礼の顔》(1946)、《四重奏のための書》(1948-9)、《ポリフォニーX》(1951)などが挙げられる。《ピアノ・ソナタ第2番》(1948)はセリー技法をさらに発展した作品で、音高とリズムの構造的な一貫性が特徴である。《構造Ia》(1952)では音高のセリーと32分音符を使った半音階的持続セリーが結びつけられている。それは、強度とアタックのモードをも支配する。ここではある意味作曲家の決定は素材の予備的準備にあたり、セリーによって作曲は自動的に完結するのである。

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によるブーレーズの〈ノタシオン第二番〉

 

■初期エレクトロニック・ミュージック

 1948年に、ミュージック・コンクレートを考案したピエール・シェフェールは、同年に作品の《鉄道のエチュード》も発表した。これは現実の音を録音して、電子的に変調させる基礎技術、つまり、テープの逆回転による音の逆行、再生速度を変えることにより音高を変化させる方法などの技術を使った作品である。これにはセリーの技法が大きく適用された。テープを用いることにより厳密に時間を操作することも可能となった。

ピエール・シェフェール〈鉄道のエチュード〉

 

 1950年代初期頃の若いセリー作曲家達が、すぐにこの新しいエレクトロニック・ミュージックの技術に大きな関心を持ったことは必然的なことであった。複雑で厳密な音価は、テープにミリメートルで指定して再生することによってしか可能ではないだろう。つまり、器楽の演奏者では大まかな値でしか演奏することしかできないからである。

 エレクトロニック・ミュージックのリズムと音色を明確に指定できるという点に惹かれて、メシアンとブーレーズを含む数人の弟子は、1952年にシェフェールのスタジオにおもむいた。彼等は、セリー技法への関心をこの新しい技術によるさらなる可能性を求めたのである。つまり、音高、リズム、音色、音量のセリー構造を厳密に作り出すために電子技術に委ねることであった。ブーレーズは《ひとつの音による習作》(1951-52)、《7つの音による習作》(1951-52)をそこで制作した。しかし、ブーレーズが本格的にエレクトロニック・ミュージックと関わるようになったのは、実質的には70年代以降で、IRCAMにてコンピュータによるライヴ・エレクトロニクスを用いるようになってからである。