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【REAL Asian Music Report】第1回 軍事政権下のミャンマーで音楽革命を起こしたエレクトロ・ハウスの異才、ターソーに直撃

大石始が伝えるアジア音楽の最前線

 

〈アジア音楽のリアルな現在進行形〉を伝える新連載「REAL Asian Music Report」がスタート! 「GLOCAL BEATS」(共著)「大韓ロック探訪記」(編集)「ニッポン大音頭時代」(著)などの音楽書に携わり、文化放送のラジオ番組「MAU LISTEN TO THE EARTH」でパーソナリティーとしてアジア情報を発信するなど、世界の音楽とカルチャーをディープに掘り下げてきたライター/編集者/DJの大石始が、パワフルでオリジナルな活況を呈するアジア各地のローカル・シーンに迫る。当地を支えるミュージシャン/関係者、あるいは縁の深い日本人アーティストの声を拾い集め、現地に赴いた大石のレポート/体験談も交えながら、日本で紹介される機会に恵まれてこなかった物語を紡いでいく。音楽家だけでなく、その才能を輩出した地域のカルチャーや歴史背景もこの連載の主役であり、旅ガイドとしても役立ててほしい。 

第1回の舞台はミャンマー。軍事政権が長く続き、自由な文化の根付く土壌すらなかったこの国で、現地のヒップホップ・シーンを支え、伝統音楽とエレクトロ・ハウスを融合させたサウンドで国中を沸かす異才ターソーのインタヴュー(本邦初!)を軸に、この国のポップ・カルチャーが歩んだ道のりを考察する。 *Mikiki編集部
 



まずはこちらの衝撃映像をご覧いただきたい。

なにやら得体の知れない強烈なエネルギーを感じないだろうか? 80年代末、セカンド・サマー・オブ・ラヴ真っ只中のヨーロッパ各地で行われていた巨大レイヴ。あるいは80年代半ば、ダンスホール・レゲエ黎明期のジャマイカはキングストンのサウンドシステム。いまでは映像や音源、または当時の記録でしか追体験することのできないあのザワザワした感覚をこの映像から感じないだろうか?

いまのアジアでは、こんなザワザワ感があちこちに充満している。もちろん〈アジア〉と一言で言っても経済状態や国内の政情、国の歴史によってその事情は大きく左右されるし、そもそも〈アジア〉と言ったって一体どこからどこまでを含むんだよ?という話もある。だが、たとえ東アジア~東南アジアに限ってみても、いくつかの都市ではこれまで未成熟だったポップ・カルチャーやストリート・カルチャーが急激に発展している。僕はいくつかの都市でそんな熱気に触れ、〈ひょっとしたら、いまのアジアはヤバイことになってるんじゃないか?〉という実感を持つようになったのだ。

この連載のテーマは、そんなアジア各地域のローカルなポップ・カルチャーを紹介しようというもの。軸足を置くのは東アジア~東南アジアになるだろうが、徐々に範囲を広げていくかもしれない。これまでいくつかの心あるメディア以外ではほとんど取り上げられることのなかった〈アジアのいまの顔〉をお伝えしていければと思っている。

冒頭の映像に話を戻すと、これはミャンマーで毎年4月に行われている水かけ祭りの模様で、あちらではティンジャンとかダジャンと呼ばれるものだ(タイやラオスでも同じ水かけ祭りが行われているが、国によって名称が違う)。もともとは仏教の教えに基づいた宗教儀式だったようだが、動画をご覧いただければわかるように、いまではひたすら水をかけ合う一種の憂さ晴らし的イヴェントとなっている。

だが、ミャンマーはたった数年前まで軍事政権のもと、ほぼ文化的鎖国状態にあった国。ミャンマー最大都市、ヤンゴンで行われていたデモを取材中の日本人ジャーナリスト、長井健司さんが軍兵士によって銃撃され、死亡したのがたった8年前。現在も引き続き多くの問題を抱えながらも、一歩ずつ民主主義国家への道程を歩みつつある。それゆえに欧米のポピュラー音楽の流入も日本などと比べると遥かに遅れており、ミャンマーではポップ・カルチャーそのものがいままさに産声を上げたばかりとも言える。だが、だからこそ、いまのミャンマーのローカル・シーンには特別な〈ザワザワ感〉が漲っているのだ。

この映像を観てほしい。

これは2013年にDVDとして発売されたドキュメンタリー映画『Yangon Calling』のトレイラー。この映画はヤンゴンで活動するパンクスたちに迫ったもので、日本でも一部で話題を集めたのでご存知の方もいるかもしれない。僕は2013年にヤンゴンを訪れた際、この映像にも登場するパンクスのうちの何人かと会うことができたのだが、驚いたのはその若さ。おそらく20代前半がほとんどで、なかには10代後半としか思えないような悪ガキも含まれていた。ふと、〈70年代後半の東京で暴れていたパンクスたちもこんな感じだったのかも?〉などと想像を膨らませたものだった。

また、こちらはヤンゴンで生まれたばかりのスケートボード・カルチャーを切り取ったショート・ムーヴィー『Youth Of Yangon』。ここで映し出されるスケーターの多くも10代から20代。まだあまりにも小さなシーンだが、黎明期ならではのザワザワ感はこのショート・ムーヴィーからも感じ取れるはずだ。

だいぶ回り道したが、もう一度冒頭の水かけ祭りの映像に話を戻そう。ここで注目したいのは、バックで鳴り響いている奇妙な音楽と、ズブ濡れのオーディエンスを煽りまくる黒シャツの男だ。この男の名はターソー(Thxa Soe)。80年ヤンゴン生まれ。現在のミャンマー音楽界でも異才中の異才とされている人物である。なにせバリバリの軍事政権下だった90年代末のヤンゴンでヒップホップ・アーティストとして活動をスタート。2000年代初頭には4年ほどロンドンに留学し、現地のドラムンベースのシーンなどに遭遇。帰国後、現在に繋がる珍妙なエレクトロニック・ミュージックを作りはじめるのである。

伝統音楽とエレクトロニック・ミュージックを融合する試みは世界各地で行われているが、ミャンマーでそんなことをやっているのは彼ひとり。孤高の存在とも言えるが、やっている音楽を考えると、やっぱり〈異才〉という言葉のほうがしっくりくる。だって、こんなんですよ! ここにいまのミャンマーのハチャメチャなおもしろさは凝縮されていると言ってもいいかもしれない。

2015年8月某日、来日中のターソーをなんと東京某所でキャッチ。日本人ジャーナリストによる、ミャンマー音楽界の未来を担う異才の初インタヴューに成功した。多くの謎に満ちた軍事政権下のミャンマー・ヒップホップ・シーンの状況や、ターソーのこれまでの歩みについて話を訊いた。
 


 

 

当時のミャンマーは、デモクラシーを訴えるTシャツを着ているだけで逮捕された。だからNWAの“Fuck The Police”に共感したんだ

――ターソーさんが子供の頃はどういう音楽を聴いてました?

ヴァニラ・アイスの“Ice Ice Baby”が好きでねえ(笑)。僕が11、12歳の頃だと思うけど、それぐらいからヒップホップやレゲエに関心を持つようになったんだ。ドクター・ドレーNWAスヌープ・ドッグ……」

ヴァニラ・アイスの90年作『To The Extreme』収録曲“Ice Ice Baby”

 

――10代前半ということは90年代頭の話ですよね。当時のヤンゴンではそうしたアメリカの音楽は聴くことができたんですか。

「いや、そう簡単には聴けなかったよ。海外を廻ってる船乗りたちが持って帰ってきたCDが頼りでね……いや、当時はまだカセットテープか。ダブルデッキのラジカセで船乗りから手に入れたオリジナルのカセットをコピーしてた。そうそう、ソニーのダブルデッキだったよ(笑)! そうやってコピーしたカセットをまた何度もコピーするから、音質はとても悪かったけど、そうやって苦労してまでアメリカのヒップホップやロックを聴きたいというミュージック・ラヴァーがヤンゴンには多少いてね。あと、タイで海賊版のカセットテープを買ってくるやつがいると、そのコピーを手に入れるという方法もあった」

――音楽活動を始めたのは?

「96、97年になると、友人たちの間でヒップホップの人気が高まってきてね。僕もガールフレンドに向けた愛の詩なんかを書いて、サヴェージ・ガーデンの“Truly Madly Deeply”に合わせてその詩をラップして、カセットテープで録音したりしてた(笑)」

サヴェージ・ガーデンの97年作『Savage Garden』収録曲“Truly Madly Deeply”

 

――そのテープ、ガールフレンドにも送ったんですか?

「送ったよ。友達には大ウケだったけど……サヴェージ・ガーデンはないよねえ(笑)。ともかく、僕にとってはそれが最初のラップだったんだよ」

――当時のヤンゴンにヒップホップのクルーはいたんですか?

「いや、いなかったね。僕と友人たちがやってたのが最初じゃないかな」

――それがW.Y.Wというグループ?

「そうだね。ただ、W.Y.Wはしっかりとしたグループって感じじゃなかったし、僕自身も遊びでしかラップをやってなかったから、ちゃんとしたグループとしては2000年に始めたセオリー(Theory)が最初かな。自分の本格的な音楽キャリアはそこから始まったと思う。W.Y.Wでは音源をリリースしてないし、思うように活動もできなかったんだ」

――政治的な理由で?

「いや、ドラッグ絡みだね。僕もイヤになってしまって、それでW.Y.Wから身を引いたんだ。ただ、そのころからヤンゴンでもヒップホップのグループが一気に増えたんだ。97、98年ぐらいかな」

――当時はどういう場所でパフォーマンスをやってたんですか。

「当時のヤンゴンにはクラブもほとんどなかったんだけど、唯一〈パイオニア〉というナイトクラブだけがパフォーマンスできる場所だった。みんなそこから出てきたんだ。パイオニアは94年ぐらいにオープンして、2009年か2010年にはクローズしたと思う。結局ドラッグ・ディールが店内で行われていたことでクローズしちゃったんだ」

――当時はパフォーマンスできる場所が限られていただけじゃなく、アメリカのヒップホップの情報自体も手に入りにくかったわけですよね。そういう不自由な状況だったからこその熱さがあったんじゃないかと思うんですけど、いかがですか。

「うん、いまとはまったく違うよね。だって、オリジナルのカセットテープやCDを手に入れただけでハッピーになれたし、みんなすごくピュアだったと思うよ。そういえば、ガンズ&ローゼスのアルバムを手に入れたときは嬉しかったなあ(笑)。僕はアクセル・ローズが大好きで、部屋中に彼のポスターを貼りまくっていたんだ(笑)。ヒップホップだったらマイアミ・ベースの……2ライヴ・クルー! 歌詞の意味はわからなかったけど、あのビートが大好きだった。当時、兄に〈この歌ってどういうことを歌ってるの?〉って訊いたら〈イヤらしいことだよ。ママやパパの前で聴いちゃダメだぞ!〉って言われたけど(笑)」

2ライヴ・クルーの89年作『As Nasty As They Wanna Be』収録曲“Me So Horny”

 

――だはは、そりゃそうです! ところで、当時音楽活動を行ううえで制限はなかったんですか?

「当時のミャンマーにはなんの自由もなかったし、友人と話す内容にも気を遣わなくちゃいけなかった。デモクラシーを訴えるようなTシャツを着ているだけで逮捕される。僕らはそういう状況をヒップホップで変えたかったし、その思いはアメリカのゲットーに住む黒人たちと同じだったんじゃないかな。NWAの“Fuck The Police”に僕らは共感していたんだ。僕らにとってのヒップホップとは、抑圧されている側が自分たちのことを表現するツールだったし、社会に対して言葉で戦うという意識を持っていた」

 

 

大英図書館でアップテンポなミャンマー伝統音楽と出会って、それがまるでエレクトロ・ハウスみたいに聴こえたんだ

ターソーは2001年、留学のためロンドンへ。SAEインスティテュート(School of Audio Engineering Institute)でエレクトロニック・ミュージックを学びながら、ミャンマー音楽についての研究も始める。2004年には母国へ帰国するが、その3年間の間にターソーは多くの経験を積むことになる。

――ロンドンでさまざま音楽に触れたと思うんですが、もっとも印象に残っているのは?

「やっぱりヤンゴンでは触れることのできなかったエレクトロニック・ミュージックだよね。ドラムンベースが好きでね。自分の音楽の趣向もヒップホップから一気にエレクトロニック・ミュージック寄りになった。プロディジーケミカル・ブラザーズも好きだった。BBC RADIO1も聴いてたけど、もっぱら聴いていたのはパイレーツ・ラジオ(海賊ラジオ)のステーション。ロンドンにはたくさんのパイレーツ・ラジオ・ステーションがあって、アンダーグラウンドDJのプレイを簡単に聴くことができた。ドラムンベース、アンダーグラウンド・ヒップホップ、なんだって聴けたんだ」

――ロンドン留学中にミャンマーの伝統音楽を研究するようになったそうですね。

「ロンドンではミャンマーからやってきたミュージシャンと会う機会もあったんだけど、みんな欧米音楽のコピーばかりでね。ミャンマーでも数組を除いてオリジナリティーの一切ないアーティストばかりだったし、僕自身、そういう状況を恥ずかしく思っていた。それで僕は何をやるべきか、ミャンマーの伝統音楽を大英図書館でリサーチすることにしたんだ。そのなかでスピリチュアルでアップテンポのミャンマー伝統音楽と出会ってね。僕にはそれがまるでエレクトロ・ハウスみたいに聴こえたんだ。もしもその両者を融合することができたら、素晴らしいものができるんじゃないかと思うようになったんだよ」

――そして2004年に帰国後、ミャンマーの伝統音楽とエレクトロニック・ミュージックの融合を試みるようになるわけですが、ミャンマー国内でのリアクションはいかがでしたか。

「僕にとても大きな成功をもたらしてくれたよ。ただ、ミャンマーの伝統文化を破壊したとして僕のことを批判する人もいたね」

――あなたはミャンマーの伝統文化を破壊しようとしてるんじゃなくて、伝統を更新しようとしてるわけですよね。

「そうだね、僕もそのつもりだし、そう言ってくれる人も最近は増えてきた。ただ、賛否両論はあるよ、やっぱり」

ターソー“Sine Kyite Tae Maung”のパフォーマンス映像

 

――とはいえ、民政移管以降、活動も自由にできるようになってきたんじゃないですか。

「確かにね。ただ、もともと僕らはマイナスからスタートしたようなもので、ようやくゼロの段階になった感じだけど。これから少しずつプラスを1にして2にしながら、民主的な国家として歩んでいければと思ってる。ただ、今年11月の総選挙の結果次第ではどうなるかわからないところもあるけどね」

――まだまだ理想の活動には程遠い?

「うん、そうだね。ロンドンや東京はどこを歩いたっていいし、何を着ても許されるけど、ミャンマーではそうもいかない。だから、みんなまだ萎縮してるし、基本的にまだまだ貧しいからね。音楽活動に関しても当局の監視が強くて、歌詞に対する検閲も厳しい。そういうこともあって、僕自身、たくさんの歌詞が必要としないエレクトロニック・ミュージックのスタイルに移行してきたということもあるんだ。90年代にラッパーとして活動していたときは常に検閲の対象になっていたし、リリックで好きなことを書けなかった。検閲というのはアートのクリエイティヴィティーを制限するものでもあるし、そこはいまも変わらない。それでくだらないラヴソングばかりが溢れている。悲しいことだよ」

 

 

そう話すターソーの表情に悲壮感はない。いくらシリアスな話をしても、その次にはガハハと笑って2ライヴ・クルーの話をしている。このヴァイタリティーあってこそのあのサウンド。なるほど、ミャンマー音楽界きっての異才のタフネスを見た気がした。

そして、なんとターソーの来日公演が決定。〈フェスティバル/トーキョー15〉の〈アジアシリーズ vol.2 ミャンマー特集「ラウンドアバウト・イン・ヤンゴン」〉の一環として、約1時間のライヴ・パフォーマンスを行うというのだ。ひょっとしたら伝説になるかもしれない貴重なパフォーマンス。ぜひ会場に足を運び、アジアの未来を目撃していただきたい。
 


 
〈フェスティバル/トーキョー15〉アジアシリーズ vol.2 ミャンマー特集
「ラウンドアバウト・イン・ヤンゴン」

日時/2015年11月13日(金)~11月15日(日)
会場/東京・浅草アサヒ・アートスクエア
構成・出演/ティーモーナイン
演出・出演/ニャンリンテッ
音楽・出演/ターソー
★イヴェント詳細はこちら
★〈フェスティバル/トーキョー15〉でミャンマー映画特集も! 詳細はこちら

〈フェスティバル/トーキョー15〉
日時/2015年10月31日(土)~12月6日(日)
会場/〈東京都〉東京芸術劇場、あうるすぽっと、にしすがも創造舎、アサヒ・アートスクエア、池袋西口公園、豊島区旧第十中学校
〈埼玉県〉 彩の国さいたま芸術劇場 他
http://jfac.jp/culture/ft_asia02/

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