「生まれること」への感動により、さらに深化した世界観
エーテル的でメランコリック、唯一無二の世界観で世界中のリスナーを惹きつけてやまないデンマーク出身のシンガーソングライター、アグネス・オベル。前作『Myopia』(2020年)から6年ぶりとなった今作『The Meaning Of Flowers』の制作は前作発表後すぐに開始されたものの、パンデミックと重なり、さらに妊娠・出産という決定的な転機が訪れた。当初はテーマに「テクノロジーと真理」を据えていたが、完璧には制御できない「生まれること」そのものへの感動と、生命の連鎖に対する感覚の芽生えが作品の原動力となった。彼女の生命観も創作の方向も一変し「テクノロジーより大きなものに取り組めました」と語る。
まず、作品作りには書物からのインスパイアが必要だった。死を対象の中心にしてきた西洋哲学では珍しく「生命の始まり」に着目したハンナ・アーレントの出生(natality)という概念、植物の哲学で知られるエマヌエーレ・コッチャによる生命の変容性の議論、そして古代シュメールの女性祭司で「史上初めて名前が記録された著者」エンヘドゥアンナが女神イナンナに捧げた讃歌。
もちろん、その影響は音そのものに刻まれている。先行シングル“Laymelli”では、ピッチシフトされ性差を超えたような彼女の声が、「生命の変容」として立ち上がる。また打楽器では「毛虫から蝶への変態をイメージし、昆虫の羽音のような音を作って、それぞれの楽器パートにも変化していく感覚を持たせています」。曲中で歌われる〈DOAUY〉という暗号のような語については、「救急医療の現場で死を意味する用語ですが、あえて直接わかるようには書きませんでした」。死は生と隣り合い、死もまた世界に存在し続けている、という世界観なのだそうだ。
“Blood So Red”は、文字通り赤い血を意味するタイトルだが、「戦いやセックス、誕生を扱う、エンヘドゥアンナの力強い言葉に感銘を受けました」。古代から人は、制御しがたい状況のなか強く生き抜いてきた。「古代人の、現代に通じる普遍的な生命観に感銘を受けた」とのことだ。
各曲固有の心理的な雰囲気づくりには細心の注意が払われた。「リバーヴで曲ごとに違う空間や状態を定義し、声のピッチ変化も含め、エフェクトでそれぞれの曲の精神性をどう伝えるか、時間をかけました」。通して聴けば、デビュー以来彼女の作品が持ちつづけてきた「音による小さな映画」のような世界観が、いっそう深化していることに気づく。
