
パンク、ニューウェイブの時期に本気でロックでお笑いをやり、あくまでもロックバンドであることに挑み続けたバンドがあった。英米ギタリストの弾き真似や、しゃもじから納豆、豆腐まで異物を使ったチョッパーベース演奏など破天荒で過激なパフォーマンスでライブハウスは出入禁止。ホームのライブハウス、渋谷屋根裏の最高動員記録を持ち、リーダー・ダディ竹千代(ボーカル)は「オールナイトニッポン」のレギュラーDJとなり、音楽界での交遊も広く、山下達郎、竹内まりや、桑田佳祐との関係は知られたところ。しかし、勝負を賭けた山下達郎作曲のサードシングル“偽りのDJ”(80年)は不発、商業的には成功することなく約5年の活動をもって82年に活動停止。80年代、90年代に2度の再結成はあったが続くことはなかった。テクニシャン揃いのメンバーは、その後もそれぞれ音楽活動を続け、その人脈からトレンドセッターとして裏から日本のポップスを支えたことは重要である。
そのダディ竹千代と東京おとぼけCATSのメジャー会社から発売されたシングル、アルバム、プロデュース曲で編成した〈表〉ベストアルバムと、このバンドを知るには十分すぎるほどの貴重な未発表音源と秘蔵映像をまとめた〈裏〉ベストアルバムが、10、11月と連続リリースされた。この機に、2作を監修した東京おとぼけCATSのギタリスト、キー坊金太こと来住野潔氏に話を伺った。

田園風景が広がる世田谷で洋楽と出会った
――まずは、このバンドのキーワードの1つ、メンバーの地元・世田谷の話から。今ではハイソでおしゃれな街のイメージですが。
「僕が1952年生まれです。ダディ(竹千代)は鹿児島生まれですが中学の頃からこっちで、なかよし三郎(ベース)もみんな、神奈川寄りの駒沢、用賀、桜新町あたりの世田谷出身ですね。
その頃(の世田谷)は二子玉川の砂利を積んで渋谷に運んでいるだけだったのですが、今の田園都市線――当時は玉電(玉川線)と呼んでいましたが――の駅が出来て人が集まるようになったんです。僕が住んでいたのは瀬田で、小学校までの道は田んぼと畑で肥溜めがあって、キツネまでいてね。
劇的に変わったのが東京オリンピック(64年)で、(国道)246(号)や環八(環状八号線)、高速道路が出来て田園風景がガラッと変わったんです。その頃は自然がどうのとかいう思想はないから、周りが便利で近代的になるのが嬉しかったですね」
――そして家にテレビが来たと。
「そう。坂本九や森山加代子が歌う洋楽カバーや日本のポップスがラジオから流れて来て、テレビも始まった。『ザ・ヒットパレード』でクレイジーキャッツを観たりとかね。しかも、4つ上の兄貴が受験勉強をしながらラジオを聴いてたので、ジェームズ・ボンドのテーマとかが部屋から聴こえてくるんですよ。そういう音楽は洋楽だからハーモニーが全然違うし、それにビートがある。それで、学校で習うものではない音楽に目覚めたんです。
その後ビートルズが出て来て“Twist And Shout”(63年)にショックを受けました。小学校6年の頃だったかな。何しろ〈シャウト〉って言葉を初めて聞いたんでね、ああいう歌い方するんだって。あとは重たいビートですよね。シングルのB面は“Roll Over Beethoven”、カバーですよね。当時は“のっぽのサリー”や“Rock And Roll Music”など、東芝が日本独自のシングルを出していました。どれも黒人音楽のカバーね。ビートルズ経由でビートがあってアッパーな曲が好きになったんです」
――それでギターを買おうと思ったわけですね。
「兄貴が〈ギター買うからお前もお金を出せ〉って言うので、500円出して自由が丘に買いに行きましたね。当時、世田谷では自由が丘が一番の都会だったんですよ。で、3,500円のクラシックギターを買って。中学に入るとエレキを持ってるヤツに見せてもらったな。アンプから音が出るのが気持ち良くてね。
でもビートルズは、初期のレコードには〈コーラスグループ、ビートルズ〉って書いてあるくらいハーモニーが大事だから1人じゃ出来なくてね。さらに英語のビートが自分じゃ出来ないし」

小杉保夫や河口純之助らを輩出した桜町高校
――そして都立桜町高校に入学されました。
「学校でフォークじゃなくて、ドラムとベースも入れたバンドが出来るというから、軽音同好会に入ってね。先輩のバンドを観にいったら上手かったよ。『Revolver』(66年)の曲とか“Nowhere Man”(65年)とかを演奏して、ハーモニーも完璧でベースもドライブしていたんだ。そのジャンクスってバンドの小杉(保夫、郷ひろみ“お嫁サンバ”やTVアニメ『プリキュア』シリーズの音楽などで知られる作曲家)さんに、〈どうしたらこんなに上手く出来るんですか?〉と訊いたら、〈レコードを何回も聴いて耳で覚えるんだよ〉って言うわけです。そこからレコードの聴き方が変わりましたね。小杉さんの1年先輩に、ズー・ニー・ヴー(68~71年に活動したグループサウンズバンド)に途中で加わるギターの高橋英介さんがいました」
――後輩には連続射殺魔(70年代後半~80年代前半に活動した和田哲郎をリーダーとするロックバンド)の和田哲郎(琴桃川凛)さんと、じゃがたらのメンバーでもあった川辺徳行がいますね。
「知ってる! 内田裕也さんの〈ニュー・イヤー・ロック・フェス〉におとぼけCATSが出たとき(79年)、僕たちの前に出たんだよ。アン・ルイス、連続射殺魔、おとぼけCATSの順番でした。THE BLUE HEARTSのベースの河ちゃん(河口宏之、河口純之助)も後輩。音楽が盛んな高校でしたね」

カルメン・マキ&OZとの出会い、矢沢永吉やサザンとの対バン
――そこで春日博文さん(ギター)と加治木剛(=ダディ竹千代)さんに出会うんですね。もう1つのキーワード、カルメン・マキ&OZの2人です。
「2年生になって同好会の部長になって、そこに入ってきたのが春日で、〈ドラムをやる〉って言うです。今でも覚えてるけど長髪で、毛先を染めてたね。でもドラムにはバカテクのすごいヤツがいたから、ギターをやってもらったんだよね。いきなりジミ・ヘンドリックスの“紫のけむり”(67年)をやらせたんだよ。
で、加治木はフォークをやってたんですよ。しかも、軽音部じゃなくて新聞部で。当時は学生運動が大学から高校にまで及んでて、彼は全校集会で演説してましたね。
それで、僕が3年になると春日が部長になったんですけど、この頃は学園紛争で授業が無くなって、僕らノンポリ連中は麻雀ばっかり。バンドの練習もしなくなっちゃった。春日は〈バンドが出来ないなら学校に行く意味がない〉って言って、ブルース・クリエイションのライブを観に行ったんですよ。〈竹田和夫って凄いギタリストがいる〉と学校でも話題でしたから。それで春日は学校を辞めちゃったんですよ。
卒業してしばらく経った頃でしたか、東横線の吊り広告で、『微笑』って主婦向け女性誌の広告に〈あのカルメン・マキがロックバンドを始めた〉とあったんです。〈もしかして〉と思って本屋で立ち読みしたら写真があって、写っているのがどう見ても春日なんですよ。それでカルメン・マキ&OZを観に行く機会が出来たんです」
――来住野さんは高校卒業後どうしてたんですか?
「横浜駅西口のグルッペというディスコでハコバンの仕事をもらって、月のギャラが25万だったの。メンバーは4人だから1人5、6万。この頃のサラリーマンの初任給が3、4万だからすごいよね。
ディスコは音楽を切らしちゃいけないんでバンドを2つ入れてるんですよ。30分交代で、1日5、6回ステージで演奏していたね。で、その時のもう1つのバンドがキャロルの前身の、矢沢永吉のヤマトなんですよ」
――おとぼけCATSの最初のライブの対バンはサザンオールスターズだったそうですね。
「デビュー前の永ちゃんやデビュー直後の桑田(佳祐)君と出会ったのは、貴重な経験でした。
それで、ディスコやキャバレーの仕事は毎月あるわけじゃないから、時間が空いた時に(カルメン・マキ&)OZのライブを観に行ってたと思う。ビアホールやキャバレー、ライブハウスだと吉祥寺のOZや渋谷のジャンジャンだったかな。
(カルメン・マキ&)OZはドラムが樋口晶之(クリエイション)でベースは鳴瀬(喜博、カシオペア)なんだけど、なかよし三郎がヘルプのベースでね」

長嶋茂雄が引退した日にカルメン・マキ&OZ“私は風”を録った
――今回『裏面』のディスク3に収録された東京おとぼけCATSのデビュー前のバンド(73年)はどのようなバンドなんですか?
「高校の下級生の寺中(由紀夫、寺中名人=テーラー八雲)と彼の中学のバンド仲間のなかよし三郎、そしてこの頃にはもうカルメン・マキ&OZのスタッフをやってた加治木と作った1回のみのバンドですね」
――この時、カルメン・マキ&OZのデビューシングルとなる“午前1時のスケッチ”(74年)が既に出来てたんですね。
「それは自分が高校の時にやってたバンドの英語のオリジナル曲が元なんです。その曲でヤマハの〈ライト・ミュージック・コンテスト〉に出ました。上位にはなれなかったけど優秀賞はもらったな。この曲のギターリフとコード進行を知っていた寺中が、加治木に日本語の歌詞と歌メロを付けさせたんですね。それが“午前1時のスケッチ”となったわけ。桜町高校の縁で作られた作品です」
――それをダディさんが初めて歌った世田谷砧区民会館のライブにカルメン・マキと春日さんが来ていたと。
「そこで初めて聴くんですよね。曲もOZっぽいし、それで彼らのレパートリーとなるわけです」
――ファーストアルバム『カルメン・マキ&OZ』(75年)に来住野さんはコーラスで参加しています。
「高音のボーカルが出るんでコーラスに呼ばれたんですよ」
――“私は風”の〈♪チュッチュッチュッチュ~チュ~〉のコーラスですね。
「コーラスを録音した日は長嶋(茂雄)が引退した日でね(1974年10月14日)、大ファンだからテレビで観ていたかったんだけど。(目黒)大橋のポリドールのスタジオの誰もいない食堂で録音の声が掛かるまで1人でテレビを見てました。ダブルヘッダーの第2試合、長嶋がセンター前のヒットを打ってね。涙をボロボロ流してたらダディが呼びに来たんです。
あと“六月の詩”と“IMAGE SONG”の3曲でコーラスやりました。サードアルバム(77年作『カルメン・マキ&OZ III』)の中の“26の時”は春日と僕の共作で、OZとはずっと関わってました」

ダディ竹千代と東京おとぼけCATS結成
――そしてOZのスタッフであるダディさんとのバンドが始まるわけですが。
「当時、私はブラザー・フーというメジャーデビュー直前までいったポップなバンドをやってました。同じ頃に加治木はダディ竹千代と名乗る前にファンキー・ステップというバンドをやってて。着物姿で盆踊りをやったりね、面白いバンドでした。“電気クラゲ”も既にあったんです。このバンドのギターは寺中と春日だったんですよ。
そのファンキー・ステップが解散し、僕のバンドも停滞してた時に、加治木から電話がかかってきて、それが始まりですね。76年です」
――OZのセカンド『閉ざされた町』が出た頃ですかね。
「それが出て、OZが少し休んでた時ですね。寺中は〈入らない〉と言って、春日の弟(春日善光)が入り、国立音大の学生のハタさん(=秦万里子)が加わったんですね」
――『裏面』のディスク1で聴ける初期ライブの秦さんのキーボードのセンス、すごいですよね。
「当時はわからなかったけど今回改めて聴いて、〈このバンド、秦さんでもってるな〉と思いました。〈こんなバンドに入るつもりじゃなかった〉と言ってましたけどね。彼女はイエスのリック・ウェイクマンが好きだから」
――入ったら歌謡曲をやらされたと。
「僕たちはロックをさんざんやって飽きてきたから、ロックの要素はあるけど、このスタイルになったんです」
――外しの美学といいますか。
「カッコ悪いのがやりたくてね」
――70年代後半はウェストコーストロックにAOR、クロスオーバーなどカッコいいのじゃなくちゃって雰囲気でしたよね。
「ステージではあまり喋らずにね」

バカテク、外しの美学、東京ローカルの感覚
――メンバー全員がすごいテクニックを持ちながら、ダサいをことをする、この東京おとぼけCATSのセンスというのはどこから来たのでしょうか?
「まず、いい意味でダディは歌があまり上手くなかったからですね。それでステージングやアレンジに凝ったり、お笑いの要素を入れたりして楽しんでいました。
すでにあった“電気クラゲ”に、僕のバンドでやってた“なかよし音頭”をアレンジしてファンクにしようって、レパートリーに加えたんです。それから戦前戦後の東京をテーマにした“東京行進曲”や“有楽町で逢いましょう”をカバーしたり。それをメンバーが黒いスーツを着て……」
――ブルース・ブラザーズのジョン・ベルーシより早かったわけですね。
「譜面を見ながら弾くわけじゃないんだけけど、譜面台もキャバレーの丸椅子を上手く利用して使っていました。メンバーはみんな長髪だったけど、ポマードで固めて横分けにしてキャバレーバンドのような出で立ちでね。それで小さい音でダサく演るっていうのが初期の狙いでした」
――〈東京〉というキーワードも、その後の遠藤賢司“東京ワッショイ”(78年)や近田春夫の『電撃的東京』(78年)、さらにその後のYMOやジュリー(沢田研二)の“TOKIO”(80年)より早かったですね。
「バンド名に〈東京〉を付けたのは、それがダサいというか、ダサカッコいいからですかね。東京ビートルズ、東京ベンチャーズ……このへんの東京のローカルな感覚なんです。〈CATS〉はもちろんクレイジーキャッツから。〈おとぼけ〉は何だっけな?」
――それはダディさんがインタビューで言っていました(レコード・コレクターズ増刊「コミック・バンド全員集合!」)。矢沢永吉のコンサートを観て、カッコよくて確信犯的という意味で、〈とぼけた野郎だな〉と感じたからだそうです。
「〈ダディ竹千代と東京おとぼけCATS〉というバンド名は、それに加えて、フランキー堺とシティ・スリッカーズ、スマイリー小原とスカイライナーズ、もちろんハナ肇とクレイジーキャッツからですね」
――〈竹千代〉という芸名については『裏面』のライナーノーツでご自身で触れていました。
「そう、竹田和夫さんと麻雀をやってた時に、和夫さんが(本名の)〈剛(タケシ)〉と言おうとして〈竹千代〉と言ったからですね」
――『裏面』を聴くとよくわかりますが、音楽性が幅広いですね。
「“御徒町タンゴ”、“あなたのジルバ”、それにラテン。なかよし三郎がキャバレーで演奏してたから、そこで習得したリズムパターンを取り入れましたね。ダディが作ってきたフォークっぽいのを、リズムを変えてオリジナルにしていきました」

ハードロックバンド+ホーンセクション
――そしてライブを重ねていったと。
「自分たちの実力じゃライブハウスなんてまだまだで、ダディが勤めていた上馬のガソリンアレイから始めて、だんだんウケていったんですね。ダディのしゃべりが面白いし独特なサウンドだったんで客が増えてきて、それで下北沢ロフトに呼ばれたんです。今の王将があるところは、昔は銭湯だったんだけど、その上がマンションで、そこに春日が住んでたから、そこを拠点にしてね、ロフトまで歩いてすぐだったよ」
――それでレコード会社から声が掛かったんですね。
「その頃、ドラムの春日がOZが忙しくなってバンドを辞めて、ダディが目を付けていたドラマーのそうる透(萩原敏夫)に声をかけたんです。彼が来たのは翌年(78年)2月のデビューシングル(“電気クラゲ”)のレコーディングの合宿からです」
――ロックドラマーがいきなり参加というのは……。
「歌謡曲調の曲は叩けなかったね。でも彼が入って全体的に音が派手になってデカくなった。当然、ダディの歌い方も変わってきてハードさが増したわけです」
――ハードロックではないけど、いい感じのハードさがありますね。
「すると、お客さんがさらに増えてきたんです」
――そこに、ホーンセクションが加わり……。
「B面の“なかよし音頭”にホーンを入れたいってことになって、寺中の紹介で包国充(サックス)が来てくれたんです」
――クリエイションの?
「いや、(クリエイションへの加入より)こっちが先。竹田和夫さんが僕たちを観て〈ヘルプでほしい〉と言ってきて、あっちがメインになったけど。で、彼が大学の同窓のボーン助谷(トロンボーン)を連れてきてくれて、固まったんです」
――ハードロックのバンドにトロンボーンがいる、って変ですよね。
「変な編成だよね、サックスならまだわかるけど。ボーン助谷はサックスもトランペットも器用にこなしてたけどね。彼が面白いのは、演奏中にストリップを始めたりするんですよ。ウケてました」

野菜や豆腐でチョッパーベース、「イギリスはロンドンからやって参りました」ミュージシャン物真似
――メンバーそれぞれお笑いの持ちネタがありますが、それはライブを重ねるうちに出来ていったんですか?
「歌詞も変だし、曲の中で突然曲調が変わったりね。それはメンバー全員実力があるから出来るんだけど。
ジェスロ・タルの初来日公演(72年)の影響が大きいんですよ。開始早々、メンバーが出て来たと思ったらボーヤが出て来て(ステージの)左に消える。そしてボーヤが2人出て来てまた消える。今度はボーヤが箱を持ってきて、メンバーが登場して、箱の中からボーカルのイアン・アンダーソンが出て来るっていうね。コントみたいなギミックを入れたステージがものすごく面白かった。だからそれを取り入れようとなったんです」
――モンティ・パイソンの影響もあったかもしれませんね。ミュージシャンなのにエンターテイナーで、演劇的なステージという。
「演奏だけじゃなく面白いことをやろうよって。当然クレイジーキャッツが好きでしたからね」
――なかよし三郎さんの〈何でもチョッパー〉はみんな好きでしたね。
「それは元々ベースソロとドラムソロを聴かせるためにあった“嘆きのしゃもじ”という曲だったんですよ。最初はしゃもじでベースを弾いてたのが、どんどん大きなしゃもじになっていって、ドラムソロになって終わるんです」
――それが野菜とか豆腐とか別のものにエスカレートしていったんですね。
「それでライブハウス出入禁止になるんです、汚すから。でも大阪だけは、〈面白いから、汚してもいいからまた来てくれ〉って言われるんです」
――〈ミュージシャン物真似〉というのは?
「(東京ロッカーズに対抗した)関東ロッカーズのイベントでも共演した野毛ハーレム(・バンド)がやってたネタがヒントです。普通にミュージシャンのフレーズを弾くだけなんですけど、それが面白くて。僕たちも出来るからやり出したんです。エリック・クラプトンとかジェフ・ベックとか、ただ彼らの物真似をやればいいだけなんで。
するとお客さんから〈ディープ・パープルをやってくれ〉とリクエストが来てね。それで、キーボードもホーンセクションもメンバーそれぞれやり出して、あらゆるジャンルの物真似をするようになったんです。それはウケましたね。
それもダディがいたからですよ。ハナ肇やいかりや長介みたいに周りに振って上手く引き出す統率力があったんです。総合的なプロデュース能力ですね」
――そしてアルバムも2枚発売して、ダディさんは「オールナイトニッポン」のディスクジョッキーになり、桑田佳祐や山下達郎などとの交遊があって、どんどん人気が出てきました。
「でも食えなかったし、飽きちゃったのが一番大きいかな、バンドを抜けることになったんです。81年の秋ですね。ライブでのバカ騒ぎは楽しかったけど、自分のちゃんとした音楽がやりたくなったんですよね。後から聞いたんだけど、そうる透も辞めることになって、3年続いた年末の渋谷屋根裏のライブを解散ライブにしたんです」

ダディ竹千代&東京おとぼけCATSのメンバーとその後
ダディ竹千代(加治木剛):ボーカル。プロデュース業を経て現在は二子玉川でライブハウス〈ジェミニ〉を経営。
なかよし三郎(児島三郎):ベース&キーボード。引退。
キー坊金太(来住野潔):ギター。〈めおと楽団ジキジキ〉で寄席に出演中、落語協会所属。
ボーン助谷(助谷明広):管楽器全般。佐野元春のサポートメンバー。
そうる透(萩原敏夫):ドラムス。今や日本のトップドラマーになり、天童よしみをサポート中。
ダニエル茜(浦山秀彦):ギター。遠藤賢司やあがた森魚のサポートを務めた後、張紅陽と〈めいなCo.〉を結成。
■準構成員
ハタさん(秦万里子):キーボード。今や著名なピアニスト。多方面で活躍中。
フランク春日(春日博文):ドラムス。カルメン・マキ&OZの中心メンバーで、ギターと作曲担当。
天沼でんすけ(岡井大二):ドラムス。四人囃子のメンバー。
テーラー八雲(寺中名人):ギター。その後、寺内タケシ&ブルージーンズのメンバーに。
蛤三太郎(田代修二):キーボード。八神純子や岡村孝子のレコーディング&ツアーメンバー。
張紅陽(熊谷陽子):キーボード。あがた森魚や梅津和時らと活動。
美空どれみ:ボーカル。その後バンド〈ビジネス〉でデビューし、作詞作曲を担当。
うしろぼん・じょび(三国義貴):RED WARRIORSやTHE YELLOW MONKEYのサポートメンバーを務める。
碑文谷パーラッ太(包国充):サックス。クリエイションや竜童組のメンバーになる。
藤井ヤクハチ(藤井康一):サックス。ウシャコダのボーカル。現在ウクレレ奏者として全国でライブ活動中。
近藤大(近藤達郎):キーボード。金子マリ&バックスバニーのサポートを務める。現在は大友良英スペシャルビッグバンドに参加。CM曲“勇気のしるし~リゲインのテーマ~”(89年)を作曲。
どんまいめぐみ(丸尾めぐみ):キーボード。小川銀次バンドに参加後、様々な音楽制作を行う。
RELEASE INFORMATION
リリース日:2021年10月20日
品番:FJSP438
仕様:2枚組CD
価格:4,015円(税込)
TRACKLIST
CD-1
1. 電気クラゲ(1978年1stシングル)
2. なかよし音頭(1978年1stシングル)
3. 御徒町タンゴ(1979年2ndシングル)
4. 舟乗りの夢(1979年2ndシングル)
5. Over Chai(1980年アルバム『First』より)
6. 銀座カンカン娘(1980年アルバム『First』より)
7. 夕方フレンド(1980年アルバム『First』より)
8. Easy Girl(1980年アルバム『First』より)
9. 偽りのDJ(1980年3rdシングル)
10. 北千住(1980年3rdシングル用デモ)
11. ロンリーローラー(1981年アルバム『イデオット・プロット』より)
12. 天山南路(1981年アルバム『イデオット・プロット』より)
13. 難解の美少年(1981年アルバム『イデオット・プロット』より)
14. 横浜倶楽部(1981年アルバム『イデオット・プロット』より)
15. 隼(1981年アルバム『イデオット・プロット』より)
16. ビートきよし/雨の権之助坂(1981年シングル)
17. ビートたけし/俺は絶対テクニシャン(1981年シングル)
CD-2
1. 税務署への手紙(ショート)(1992年アルバム『伊賀の影丸』より)
2. Sagi-Sagi Boogie Woogie(1992年アルバム『伊賀の影丸』より)
3. おとぼけテレフォン・ショッピング(1992年アルバム『伊賀の影丸』より)
4. 世田谷育ち(1992年アルバム『伊賀の影丸』より)
5. 税務署への手紙(1992年アルバム『伊賀の影丸』より)
6. ざけんじゃねえ!(歌:久本雅美)(1991年『恋愛ドレミファ娘 平成芸者ガール』より)
7. バンド天国への階段(1991年『恋愛ドレミファ娘 平成芸者ガール』より)
8. テストはおまかせ!(歌:ウシャコダやくはち)(1991年『きんぎょ注意報! Vol.2』より)
9. ベルマークの歌(1991年『きんぎょ注意報! Vol.2』より)
10. パパ大好き(1992年『まあじゃんほうろうき』より)
11. 勝負師”西原”その一週間の日々(1992年『まあじゃんほうろうき』より)
12. 麻雀列車はフニクニフニクラ(1992年『まあじゃんほうろうき』より)
13. ツァラトゥストラはかく語りき(『LIVE AT LIVE INN』より)
14. ロンリーローラー(ドラム:四人囃子 岡井大二) (『DEAD STOCK』より)
15. 一日一食(『DEAD STOCK』より)
16. 舟乗りの夢~Under Chair(『DEAD STOCK』より)
監修:来住野潔(東京おとぼけCATS)
マスタリング:勝守理(クリアー・スタジオ)
デザイン:ダダオ
全曲解説:春雨キヨシ
リリース日:2021年11月24日(水)
品番:FJSP442
仕様:3CD+DVD
価格:7,480円(税込)
TRACKLIST
CD-1
1. 哀愁の夜行列車
2. 青年
3. あなたのジルバ
4. 雨の権之助坂
5. 北千住
6. 嘆きのチャールストン
7. なかよし音頭
8. 電気クラゲ
9. 電気クラゲ
10. 夕方フレンド
11. おとぼけ口上
12. 銀座カンカン娘
13. 約束パパ
14. なかよし音頭
15. 舟乗りの夢
16. Easy Girl
M1-8[LIVE]1977年 大阪バーボンハウス
M9[STUDIO DEMO]1978年
M10[STUDIO DEMO]1979年
M11-14[LIVE]1979年 群馬大学 学園祭
M15, 16[STUDIO DEMO]1979年
CD-2
1. 銀座カンカン娘
2. あなたのジルバ
3. JET'S
4. 霧の町
5. 音真似ゲスト大会~北の宿から
6. 逃げろ!(KのRock)
7. Easy Girl
8. Under Chair
9. よっちゃんの原付バイク
10. ゆきちゃんの弦付ギター
11. 舟乗りの夢
12. Over Chair
13. 銀座カンカン娘
14. 青年
15. あなたのジルバ
16. ドアを開けて
17. 夕方フレンド
M1-8 [STUDIO LIVE]1980年 日立ローディプラザ銀座
M9-11[STUDIO DEMO]1982年
M12-17[STUDIO DEMO]1980年アルバム『FIRST』
CD-3
1. Easy Girl
2. 航海
3. 東京ラグタイム・ブルース
4. Under Chair
5. 音態模写劇場
6. パパイヤランドクラブハウスで
7. 横浜俱楽部
8. 昇天ホーンセクション
9. 夕方フレンド
10. 解散の口上
11. 偽りのDJ
12. なかよし音頭で逃げ惑う客
13. よっちゃんの原付バイク
14. シベリア・レイルロード
[付録音源]
付録その① 六本木行進曲
付録その② パパイヤランドクラブハウスで
付録その③ 午前1時のスケッチ
M1-4[STUDIO DEMO]1980年アルバム『First』
M5-9[LIVE]1985年10月9日 渋谷LIVE INN
M10-13[LIVE]1981年12月26日 渋谷屋根裏(解散ライブ)
M14[LIVE]1981年6月3日 日本青年館(ワンマン・ライブ)
M15,16[STUDIO DEMO]1983年
M17[LIVE]1973年 世田谷砧区民会館
DVD(秘蔵映像集)
1. 電気クラゲ
2. あなたのジルバ
3. シャミヘン
4. なかよし音頭
5. 雨の権之助坂
6. 約束パパ(美空どれみ&東京おとぼけCATS)
7. よっちゃんの原付バイク(美空どれみ&東京おとぼけCATS)
8. ヘビメタの振り付け
9. 舟乗りの夢
10. ロンリーローラー
11. 横浜俱楽部
12. Easy Girl
13. 隼
14. 舟乗りの夢
15. 続 東京ワッショイ(遠藤賢司&東京おとぼけCATS)
M1-4[LIVE]1991年 渋谷クラブクアトロ 第1部(ビデオ『幻の10年』アウトテイク映像)
M5[LIVE]1979年2月17日 お茶の水日仏会館ワンマン・コンサート
M6, 7[LIVE]1979年春 富山ライブハウス・タムタム
M8[LIVE]1986年 渋谷LIVE INN
M9[LIVE]1987年 渋谷LIVE INN
M10-14[LIVE]1991年 渋谷クラブクアトロ 第2部(ビデオ『幻の10年』アウトテイク映像)
M15[LIVE]1979年5月11日 目黒公会堂『関東ロッカーズ旗揚げコンサート』
監修:来住野潔(東京おとぼけCATS)
マスタリング:勝守理(クリアー・スタジオ)
デザイン:ダダオ
解説:ダディ竹千代/春雨キヨシ

