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ロック的なかっこよさに縛られず、〈何じゃこれ〉と思われていい

――まず、これはどんなインタビューでも訊かれることだと思うんですが、このTHE TOKYOというバンド名の由来について教えてください。

こだまたいち(ギター)「最初は違うバンド名だったんですよ。僕ら2人(コダマアツシ、こだまたいち)は2歳違いの兄弟なんです。愛知から高校を卒業して東京に出てきて、しばらくは兄も違うバンドをやってたし、僕も弾き語りでフォークをやってました。

そのうち、お互い〈そろそろ一緒にやるか〉みたいな話になって、サポートを加えてバンドを始めたんですけど、そのメンバーには当時は東京出身が1人もいなくて。あるときパッと周りを見たら建物のところに〈TOKYO〉って看板があったんで、僕ら田舎者がTHE TOKYOって名乗ったらおもしろいなと思った……っていう記憶があるんですけど」

コダマアツシ(ヴォーカル)「そこの記憶がお互いあんまり定かじゃないんです(笑)。もともとは弟と2人で〈KODAMA FAN CLUB〉と名乗ってやってまして、それが母体だったんです。自分たちでファンクラブを名乗っちゃうという。でも、メンバーがKODAMA FAN CLUBはいやだ、と言い出しまして(笑)。じゃあ略そうかとしたら〈KFC〉になっちゃうし、そんなすったもんだがあってTHE TOKYOになったという記憶もあり……」

――公式プロフィールにも〈THE TOKYO というバンド名で活動を始めたのは2010~2011年頃? もはや不明である〉とありますが、バンド名の由来も判然としないんですね(笑)。それにしても、このバンド名、思い切りがよすぎです。

アツシ「周りは賛否両論でした(笑)。〈めちゃくちゃおもしろいね!〉って盛り上がってくれるミュージシャンもいたり、〈そんな検索に引っかからない名前にしちゃって!〉って言われたり。でも、上京者で組んだバンドがTHE TOKYOっていうのはちょっとおもしろいかなと自分でも思ってます」

――KODAMA FAN CLUBの頃から現在に通じる音楽性はすでにあったんですか?

たいち「ありましたね。ただ、今もやってる曲はゼロかな。THE TOKYOとして名前を変えて、腰を据えて活動していくようになってから新しい曲が固まっていったという感じでした」

――バンド名がTHE TOKYOになったことが、曲作りの方向も変えていったということですか。

アツシ「それもありました。もともとは、THE TOKYOの初期くらいまでは俺もロン毛で、みんなもスーツを着て演奏してて。もっとTHE YELLOW MONKEYとか(ローリング・)ストーンズとかエアロスミスみたいなタイプの曲をやったりもしていたんですよ。弟と一緒にやるようになる前は、自分ではファンクみたいな音楽をやってたし」

たいち「KODAMA FAN CLUBのころは兄がほとんど歌詞も書いていて、わりと精神的に熱い内容が多かったんですけど、もっと軽い感じのことも兄に歌ってもらいたいなという気持ちが僕に湧いてきて、それがTHE TOKYOの結成にもつながってるんです」

アツシ「THE TOKYOになってからは結構ぐちゃぐちゃというか、そのときやりたいことをそのままやってますね。ひとつのジャンルというより〈これ、めっちゃおもしろいからやろうぜ〉みたいなことをずっとやってました。そのうち、自分らの得意なこと、他の人たちにはなくて俺たちにはあるものがわかってきて」

――どういうところが〈他にはなくて自分たちにはあるもの〉だと気がついたんですか?

たいち「それは、僕から見たらヴォーカルなんですよ。たとえば、ストーンズをやろうとしたときに、このヴォーカルじゃできない。声もそうだけど、兄は圧倒的に歌謡曲の歌い方なんですよ。洋楽みたいな歌い方はできない。でも、そのできない反面にある魅力も僕はすごく好きなんで、このバンドではこれを活かすしかないと思って、そこから曲を組み立てていったんじゃないかな」

――なるほど。でも、ルックスから入った先入観で〈この人たちはストレートなロックンロール・バンドなの?〉と思ってると、いい意味で裏切られていく快感はアルバムを聴いていてもすごくありますよね。

ドン・タカシ(ベース)「僕も初めてTHE TOKYOを観たときの印象は〈わー、何これ?〉でしたから。いい意味での〈何これ?〉なんですけどね(笑)」

アツシ「2015年1月1日にファースト・ミニ・アルバム『GOLDEN HOP』を出したあと、新宿LOFTにピックアップしてもらってその年に毎月主催のイベント〈LET’S GO LOFT!オレたちしんじゅく族〉を1年間やらせてもらったのも大きかったですね。そこで、THE NEATBEATSやザ50回転ズ、THE BOHEMIANSみたいな純度の高いロックンロールを演奏するバンドと出会ったときに、俺らの作曲を担当していたたいちとハリケーンハマー(現在は脱退)の2人が〈俺たちには歌謡の方向がある! これなら勝てるはずだ〉って話をしてたんですよ」

2019年に配信限定リリースした楽曲“気ままにグッドラック”。『J.U.M.P.』にはリマスタリングが施されて収録
 

たいち「ロックンロールへの憧れっていうのはめちゃくちゃあるし、そういう曲が大好きなんですけど、さいわいにも早い段階でのすごい人たちとの出会いが、あきらめさせてくれたんです(笑)」

タカシ「客として観ていてもその1年間でじわじわとバンドが変わっていった印象が強いです」

アツシ「上京したころ、〈LONDON NITE〉とかをやってる新宿のクラブで自分は働いてたんですけど、そういう場所にはとんでもないロックな不良たちがあちこちにいるわけですよ。それを見ていて〈俺はそっちじゃないんじゃねえか?〉と思うようになったんです。ロックを好きな気持ちでは負けないから〈もっといい歌を歌ってやる〉って思ってたけど、ロック的なかっこよさに縛られずに〈何じゃこれ?〉っていう好奇心やおもしろさも大事にしてきました」

 

〈歌謡〉へのチャレンジというドデカい海

――THE TOKYOとしての転機として、この曲が出来たとかあの日のライブがよかった、みたいな節目を作ったものはありますか?

タカシ「僕が加入したのが2016年の頭なんですけど、ちょうどそのころにたいちが〈こんな曲をやろうと思ってる〉って“雨街BLUES”(詞曲:こだまたいち)を聴かせてくれて。そこで、これからこのバンドでこの曲を弾いていくんだと思った、そこかなと個人的には思ってますね。バンドとしての変化というより、僕にとってはでかいターニング・ポイントでした」

『J.U.M.P.』収録曲“雨街BLUES”
 

たいち「そのとき、僕とタカシで先にスタジオに入ってたんです。出来立てのデモを2人で合わせて、そのままバンドでやってもうまくいって。僕にとっても“雨街BLUES”は感慨深い曲です。本当にお金がないときに出来た曲なんですよ(笑)。当時、兄と一緒に住んでたんですけど、兄が銭湯をおごってくれて。湯船に浸かっていると涙が出そうになって、気がついたらこの曲のサビを口ずさんでたんです。それからすぐに外に出て、録音して、すぐにこの曲が出来ました。これが出来てから自分の好きなものが結構具体的になったし、これで変わったという感じもしますね」

アツシ「自分にとってターニングポイントになったのは、今回の『J.U.M.P.』の1曲目でもある“ROCK ROCK ROCK”(詞:コダマアツシ/曲:コダマアツシ、こだまたいち)かな。実はこの曲を書いて、自分がやりたいことは全部やっちゃったんですよ。それ以降、曲が全然書けなくなってしまった(笑)。

もうひとつ、自分のアザーサイドとして“落陽”(詞:コダマアツシ/曲:コダマアツシ、こだまたいち)という曲もあって、この2曲であらかた自分のメッセージは詰め込まれてしまったんです。2曲ともバンドの初期に書いたんですけど、そのあと〈これ以上曲を書いたりすることをしたいのか?〉と自分に問うたときに〈俺はとにかくいい歌を歌いたい〉という答えが出た。曲を書くのは弟もハマーも好きだったから、それを俺がしっかり届けてやろうというほうに向かったんです。ある意味、昭和芸能の歌手的な立ち回りに自然となっていったんです」

『J.U.M.P.』収録曲“落陽”
 

――そういう意味でいうと、今回の『J.U.M.P.』は〈ファースト・フル・アルバム〉でありながら、過去の名曲もふんだんに収められているし、THE TOKYOの10年の歩みを追ったベスト・アルバムのようなところもあると思うんですが。

アツシ「もともと、ファースト・ミニ・アルバム『GOLDEN HOP』、2枚目の『陽気なステップ』(2016年)と、〈ホップ・ステップ・ジャンプ〉を立て続けに出して、さっさと世の中に羽ばたいてやろうと思ってたんです。そう思ったのが2015年だったので、〈(時間が)かかったなあ!〉って感じです(笑)。いざ、ジャンプと思ったときに〈歌謡〉へのチャレンジというドデカい海に漕ぎ出してしまって。そこで納得のいくかたちになるのに時間がかかっちゃったなというのはあるかもしれません」

たいち「ライブを頑張って演奏の精度を上げようという話を2年前くらいからしていて、ある程度演奏がうまくドライヴしていくようになるのを待ってたというのも、今回のアルバムに至るまで時間がかかった理由のひとつです」

アツシ「アルバムをポーンと出して、そのアルバムの曲をツアーでやっていくというのが普通だと思うんですけど、俺らはもうさんざんやり尽くして、完成したらアルバムに収録するというパターンが多かった。だから10年くらいかかったイメージですね」