
元たのきんトリオの野村義男(ボーカル/ギター)、そして曾我泰久(ボーカル/ギター)、衛藤浩一(ドラムス/ボーカル)、2013年に惜しくもこの世を去った加賀八郎(ベース/ボーカル)からなるバンド、The Good-Bye。ロックバンドとしての高い演奏力、魅力的な自作曲、さらに洋楽ファンをニヤリとさせるこだわりのサウンドなど、いわゆる〈アイドル〉という枠組みに収まらない異彩を放った伝説的な4人組だ。
2019年、30年ぶりのニューアルバム『Special ThanX』を発表したことも話題になった彼らだが、デビュー40周年を2023年に控える今、オリジナルアルバム9作とベスト盤『READY! STEADY!! THE GOOD-BYE!!!』(2004年)、野村のソロアルバム『待たせてSorry』(83年)が再プレスされ、ついにタワーレコードで手に入れられるようになった。長く入手困難だったこと、近年再評価の声が高まっていることもあってか、店頭での売れ行きはすでにかなり好調だという。
これに合わせて、The Good-Byeの音楽をこよなく愛し、2004年の再発盤の監修と『READY! STEADY!! THE GOOD-BYE!!!』の編集を務めたイラストレーター/漫画家の本秀康が、The Good-Byeの3人に直撃した。後半ではディレクターの川原伸司も参加し、バンドの本質に迫る貴重なロングインタビューになった。

芸能界を辞めようとしていたヨッちゃん
――インタビューをさせていただくなんて初めてですが、The Good-Byeのことをご本人がたにお訊きできるまたとない機会なので、ついお引き受けしました。拙いインタビュアーですが、よろしくお願いいたします! まずは結成についてお伺いさせていただけますか? もう何度もお話しされていると思いますが……。
野村義男「もちろん。たのきんトリオから田原俊彦と近藤真彦が(80年に)デビューして、順番的に次は僕だったんですよ。でも、僕は踊りもできないから、〈ギターを持って歌いたいです〉と言ったんです。色々なロックを聴いてた時期で、〈バンドがいいです〉と。そしたら、意外にも事務所から〈いいよ〉と言われて(笑)。それで〈メンバーはどうするの!?〉となった。それが、デビューが2人よりも遅れた理由でした。
実は当時、僕は事務所を辞めようとしてたんです。芸能界で3年も遊んで十分楽しかったし、色々な経験をさせてもらったから、実家のバイク屋を継ごうと思って。なのに、バンドを作ることにOKが出ちゃったもんだから……事務所は辞めさせないようにと考えていたのかもしれませんけどね」
――ええっ、芸能界を辞めようとされていたんですか!?
野村「どれだけ辞表を出したことか(笑)。でも、事務所が協力的に〈オーディションをしよう〉と言ってくれて、ジャニー(喜多川)さんもヤッチン(曾我泰久)に〈ヨッちゃんの相談に乗ってくれない?〉と声をかけてくださっていたんですね。それで、ヤッチンと〈何人組にする?〉というところから相談しはじめて」
曾我泰久「ビートルズが好きだから、〈絶対4人組がいいよ!〉と義男に言ったんです」
野村「しかも、〈バンドなんだから自分たちで曲を作ったほうがいい〉なんて言い出すから驚いたんだよね。それからヤッチンがよくウチに来るようになって」
曾我「事務所に届いた(オーディションの)履歴書を紙袋4袋分くらい持って義男の部屋に行って、2人で見てたよね」
野村「デモを聴いたり、ビデオや写真を見たり。後で有名になった人もいたな~。一緒に仕事をすると〈今だから言えるんですけど、実はヨッちゃんBANDのオーディション受けたんですよ〉と打ち明けられたり(笑)」

ヨッちゃんとヤッチンが手探りで始めた作曲
――当初は野村さんと曾我さんが主体だったんですね。
曾我「僕らに丸投げだったから(笑)。でも、なかなか良いメンバーが見つからなくて。選ぶ時に〈ジャニーズにふさわしい〉というポイントも重要でしたし。当時、僕は他人事で、ルックス重視で選んでたんです(笑)」
野村「メンバー探しをしつつ曲作りもしてたんだけど、僕は曲の作り方なんて知らなかったわけです。その頃、ウチにはギターが何本かあって……すでにギターオタクのドアをノックしかかってたからね(笑)。それで、ヤッチンが部屋にあるギターを弾いて、〈こういうフレーズはどう? 義男はAを♪デンデケデケデケデンってやってよ〉と言ったんですよね。それが“TAKE OFF”(84年作『HELLO! THE GOOD-BYE』収録曲)のイントロになったんです。そんな風に作曲を始めて、そういう作業は衛藤さんが入る1年前に始めていました」
曾我「“TAKE OFF”は冬に作ったんだよね」
野村「うん。The Good-Byeを始める1年前の『明星』か『平凡』に〈ヨッちゃんはバンド結成に向けて作曲を始めたそうです!〉と“愛 See Tight”(『HELLO! THE GOOD-BYE』収録曲)の歌詞が載ったこともあったね。
当時作った曲、もう一曲あったな……。あっ、〈♪雨の降る日は~〉だ」
曾我「“ジョンソン博士の場合”※ね」
衛藤浩一「あの曲ってそんな昔に出来てたの!?」
野村「うん。で、板野(俊雄)くんから買ったギブソン・レスポールを売って、TEAC 144って4チャンネルのカセットレコーダーを買ったんです。それでヤッチンと〈録音しようぜ〉って、ウチでデモを録っていってね」

The Good-Bye結成
野村「そんなことをやってたら、今度はレコード会社も動きはじめた。ビクタースタジオの中に練習場所があったから、そこで音を出せることになって、その頃に来たのが衛藤さんだったんです。衛藤さんは〈オーディションに応募した〉と言ってたけど、僕らは知らなかったんだよね。ある日、(プロデューサーの)飯田(久彦)さんがスタジオに来て、〈九州でいちばん上手い同世代のドラマーで、先生もしてる人が見つかったから!〉って言ったの」
衛藤「〈九州でいちばん上手い〉(笑)」
野村「こっちも緊張しちゃって〈マジ!? 大事になっちゃったね〉なんて言ってね(笑)。それで衛藤さんが来たんだけど、〈すごいドラマー〉だからさ、こうやって(ドラムを叩いて調整する真似をして)ドラムのセッティングとチューニングをずーっとやってるのよ。耳が相当良くて、音にうるさい人なんだろうなと思ったな。それがね、後で聞いたら、なるべく演奏しないようにしてただけで、時間稼ぎだったんだよね(笑)」
曾我「この人(衛藤)、本当にシャイでね~(笑)」
――衛藤さんは、どなたかからの紹介だったんですか?
衛藤「紹介していただく前に、僕のことを知っている女の子が、その頃やってたバンドのライブテープと履歴書をオーディションに送ってくれていたんですね。でも、その時は何もなくて。
その後、稲葉(政裕)さんという有名なギタリストが福岡にいらっしゃって、その方に〈プロになるなら俺と一緒に来い!〉と言われ、福岡に連れて行ってもらったんです。そこでヤマハのドラムインストラクターをやらせてもらってたのですが、ヤマハがプロデュースしたスタジオの方のところに〈若くて良いドラマー、いない?〉と相談があったそうで。それで僕を紹介をしてくれて、青山のビクタースタジオに行った、という経緯でした」
曾我「僕はその時、立ち会えなかったんですよね」
衛藤「ヤッチンはいなかったね。
当時、僕は虫歯で歯に穴が開いていたし、話すと大分弁が出て恥ずかしいし、たのきんのヨッちゃんがいて緊張するしで、とにかくしゃべらないようにしていました(笑)。しかも、九州の先輩から〈お前はアイドルをやるためにドラムを叩いているのか?〉と言われたり、東京が怖かったりして、〈できない!〉と逃げ帰っちゃったんです。ジャニーさんからいきなり〈明日からハワイに行け!〉と言われたのもあったし(笑)」
野村「ハワイで撮影した『嵐を呼ぶ男』(83年)のクラインクイン直前で、そこでThe Good-Byeのメンバーを顔見せしておきたかったんだろうね」
衛藤「それで怖気づいて九州に帰ったら、先輩たちが手の平を返したように〈なんで断っちゃったんだよ!〉〈すごいチャンスじゃないか!〉なんて言ってくるんですよ。それに乗せられて、また東京にノコノコと戻ってきて(笑)」
野村「それで、衛藤さんと僕らが作った曲の練習を始めたんですね。加賀(八郎)さんはまだいなくて、川原(伸司)さんのピアノの左手がベースでした。
ちょうどその時、富やん――日本のセッションレコーディングには欠かせない名ベーシスト、トランザムの富倉安生さんですね――が隣でレコーディングをしていて。富やんのベースをチューニングしてたか弦を替えてたのが加賀さんで、飯田さんが〈君、ベース弾けるの? ちょっと弾いてみせて〉と声をかけて、スタジオに入れたんです。そしたら、彼がいちばんプロ歴が長いですから、ものすごく弾けてね。気づいたらメンバーになってました(笑)」
曾我「最終的に僕も入ることになったのですが、当時は役者になりたいと思っていたから、〈ドラマ撮影を年間3本入れてください〉と条件を出してたんです。でも、The Good-Byeが始まったら、もうそんな時間なんてなくて(笑)」
野村「騙されたね(笑)!」
曾我「いっつもジャニーさんに騙されてたから(笑)」

TV出演も楽曲制作もワンセット
――結成の経緯、すごく深いお話でした。僕がお訊きしたかったのは、アイドルとしての忙しい活動と、本格的なロックバンドとしてのスタジオでの制作は、みなさんの意識の上で切り離されていたのでは?ということなんです。例えば、“LOVE AGAIN”(84年作『Good Vibrations』収録曲)は〈味の素 マリーナ〉のCMソングですが、あれってロックバンドの域を超えて、もはや職業作家の仕事だと思うんです。僕は『FIFTH DIMENSION』(86年)の頃にロックバンドとして覚醒したのかと思っていたのですが、それは間違いで、当初からアイドルとロックミュージシャンとしての側面が切り離されていたのかなと。
曾我「う~ん。そもそも、あんまり自分たちをアイドルとは思ってなくて。当初からスタジオでレコーディングをやらせてもらってたので、もう意識がそっち(楽曲制作)に行ってたんですね。
逆に、あの頃はロックバンドの体で出てきた人たちが、自分たちで曲を作らず、プロの作家さんが用意した曲を演奏するばっかりでした。なので、僕らの外からの見られ方と、実際にやってることのギャップに対する〈何でだよ!?〉というジレンマはありましたね。ロックバンドと言われている人たちのほうが、ロックバンドのふりをしたアイドルじゃないかって」
――そうですよね。The Good-Byeは、TVや雑誌でアイドルとしての仕事をこなしながら、よくあれだけのクォリティーの曲を作ってレコーディングしてたなと。大変なことだと思います。
曾我「ほんとにね(笑)。TVの収録が終ったら、そのまま朝までレコーディングして、車で録った音を聴きながら別の曲を書いて、昼に起きたらTV局に行って、という生活をずっと続けてましたからね。〈自分の曲がレコードになる〉という思いだけで、必死で作っていました」
野村「〈アイドル〉というのは、周りから見たイメージじゃないかな? TVや雑誌でピースしてニコっとする、そういう仕事も楽しんでこなしながら曲を作ってレコーディングをする――全部がワンセットで当たり前の日々だったんですね。大変だとも思わなかったな。若いからできたんだけどね」
――同時期に活動していたロックミュージシャンと仕事量が違うわけですが、フラストレーションはなかったんですか?
野村「ない。だって、他のミュージシャンのことを知らないからね」
曾我「ただ、僕は事務所に掛け合って、当時出てきていたロック系雑誌の取材を取ってきてほしいとお願いしてましたね」
――曾我さんは〈ロックバンドとして見られたい〉と思っていたんですね。
曾我「僕は強く思ってましたね。『ミュートマジャパン(ミュージックトマトJAPAN)』というTVKの番組で紹介されるバンドの人気が出ていたので、出演を掛け合ったこともありました。なかなかわかってもらえなかった、という思いは抱えてましたね」

奇跡的なバランスのバンド
――初期のシングルは歌謡曲としての完成度が高いので、僕はロックバンドとしての魅力に気づけなかったんですよ。その後リリースされた『FIFTH DIMENSION』があからさまにロックで。あまりのギャップに驚きました!
曾我「売上はドーンと落ちたけどね(笑)。
当時はアイドルや歌謡曲とロックがかけ離れてた時代で、真ん中にいる僕らはコウモリ状態だったんです。とはいえ、TVに出てシングルも出さなきゃいけなかった。でも、B面やアルバム曲は好きにやらせてもらえたんです。だから、好きにやってきたものが、今こうやって評価してもらえてるのかなって思いますね」
――それこそが、いま素晴らしい音楽だと再評価される理由の一つでしょうね。
曾我「The Good-Byeは、ぱっつぁん(加賀)、浩一を含めて、良い意味でジャニーズ系じゃない4人が揃っていたから、それも奇跡的なバランスだったと思います。全員アイドルチックな4人組だったら、こうもいかなかったかも。
さらに、川原さんと出会えて、曲作りやレコーディングを教わって、僕らがどんどん音楽的に成長していけた」
――ある意味、川原さんにハメられたとも言えますね(笑)。
曾我「(笑)。川原さんが、メンバーが作曲すること、それを作品にすることに強くこだわってくださったからこそだと思います。
ジャニーズの子たちが好き勝手に曲を作って本格的な音楽をやってるギャップも大きかったと思いますが、もし〈ジャニーズ〉〈アイドル〉という側面や振り幅がなかったら、普通のバンドになってたかもね」
――曾我さんの葛藤も、いま振り返れば、評価される良いポイントだったと思います。
曾我「当たり前のように1日2回、3回公演をやってましたからね。なので、事務所に〈1回公演にしてほしい〉〈こういうステージでやりたい〉という交渉もしました。アーティスティックに見られたいという思いがあったので、舞台の演出も考えていましたね」

ヨッちゃんの歌詞の秘密は〈黒板〉にあった
――The Good-Byeのメインコンポーザーは野村さんと曾我さんですが、野村さんが詞、曽我さんが曲という形が多いですよね。それはどうしてなんでしょう?
野村「……なんでだろう? 当時は僕がまだ高校生で、夜間に通っていたから、17時から授業だったんですね。僕が学校に行っている間に他の3人がレコーディングを進めて、僕は授業中に、その前に録音したものをウォークマンで聴きながら詞を書いていたんですよ。たぶん、それが大きいんじゃないかな? その授業が古文・漢文だったりすると、〈愛する愛して愛したら〉(84年作『ALL YOU NEED IS…グッバイに夢中!』収録曲“にくめないのがニクイのサ”)という3段活用の歌詞になる(笑)。そんなことを繰り返してたら〈お前、歌詞書けんじゃん!〉と僕に回ってきたんじゃないかな」
――“にくめないのがニクイのサ”の歌詞は素晴らしいですよね。
野村「数学の授業だったら、ああいう詞になってなかっただろうね」
衛藤「〈サイン・コサイン・タンジェント〉になってたかも(笑)」
野村「そうそう(笑)。そこに秘密がある。目の前にあった黒板にね!」
――“にくめないのがニクイのサ”は、好きな女の子に対する気持ちが揺れ動いていて定まらない感じが良いですよね。
曾我「すごく義男っぽいなと思う」
野村&曾我「(声を揃えて)〈♪夜更けのTEL僕だとわかっていても/君は知らんぷりして でる でない〉」
衛藤「出ないんじゃん(笑)!」
野村「学校で勉強はしなかったけど(笑)、物語を作るのは好きになったかもしれません。曲をドラマにしたかったんですよ。それは、後半戦のほうが多いかもしれないけど。
最初の頃は、〈キャッチーで他の人が使わない言葉って何だろう?〉と考えていました。カタカナとひらがな、英語を全部混ぜたら、日本だけのものになるんじゃない?と思って作ったのが“YOU惑-MAY惑”(84年作『Good Vibrations』収録曲)です」
曾我「ジャニーさんが大絶賛してたよね」
――〈YOU惑 MAY惑 ワクワク〉! 最高です!! 初期の野村さんの歌詞はシュールでポップでキャッチーですよね。

“P.S. LOVE ME DO”の作曲秘話
――衛藤さんが曲を書いたのは“P.S. LOVE ME DO”(85年作『ALL YOU NEED IS…グッバイに夢中!』収録曲)が最初でしょうか? それ以前に“愛 See Tight”で歌声を披露されてましたが。
衛藤「実は、“P.S. LOVE ME DO”は名前を載せていただいてる、くらいの感じなんですよ(笑)」
曾我「あれはね、僕が書いたの(笑)。僕が思いついたメロディーを口ずさんで〈これ、浩一くんが覚えてたら浩一くんにあげるね〉と言ったら、本当に覚えてて。それを膨らましていった曲なんですね」
――そうだったんですね!? 衛藤さんが曲を作るようになるスピードがビートルズのリンゴ・スターよりも早いので、すごいなと尊敬していたんです。
衛藤「でしょ(笑)?」
――ちなみに、“愛 See Tight”は、最初は野村さんが歌う予定だったのでしょうか?
野村「もちろん。The Good-Bye始動の1年以上前からある曲だから。僕が歌うものだと思ってたけど、〈歌え〉って言われないなと思ってたら、衛藤さんが歌ってたという(笑)」
曾我「バランスや振り幅を考えていたのかもしれませんね。(『HELLO! THE GOOD-BYE』は)1枚目だからヨッちゃんの曲だけにせず、バンドの作品として成立させようとしたんじゃないかなと」
野村「そうだろうね」
曾我「ぱっつぁんが作ったのに、自分で歌えなかった曲もあったね」
――“昨日まではFunny Boy”ですね。
曾我「だから、ぱっつぁんはずーっとファーストアルバムを……」
衛藤「〈嫌いだ〉って言ってたよね。セカンド(84年作『Good Vibrations』)のほうが好きだって」
曾我「“Going Home”で歌ってるからね」

歌詞を書きにくい曲ほど燃える!
――ちなみに、The Good-ByeのシングルB面曲のクォリティーがめちゃめちゃ高いのはなぜなんでしょう?
野村「B面のほうが自由だったから。A面は〈絶対この曲〉〈これがキャッチーだよね〉と決めつけで作って、裏面は〈こういう曲もあるし、これでいいんじゃない?〉と感覚的に、自由に作ってましたね」
――そうだったんですね。それと、野村さんと曾我さんの共作曲はユーモラスな遊びのあるものが多いんですけど、単独作品になるとクールでちょっとシリアスな曲が多いのはなぜなんでしょうか?
野村「一人で詞と曲を書くと、自分の作品と考えて真面目になるからじゃないですか? 〈真面目〉という言い方は変かもしれないけど、自分一人だから責任を取らなきゃいけない。
でも、2人で曲を書くとなったら〈これに詞は付けられないでしょ!〉なんてメロディーを考えることもできる。それで、詞を書くほうは〈くっそ~、絶対書いてやるよ、しかも変なものを!〉と燃える(笑)。それが、The Good-Byeのシングルのおもしろさだったのかも。“気分モヤモヤ サラサラ チクチク”(85年作『4 SALE』収録曲)なんてまさにそうだね」
――あの詞はヤバいですね(笑)。
野村「僕としては、あの曲はT・レックスだったんですよ」
――“Solid Gold Easy Action”ですよね。
野村「そうそう!」
――The Good-Bye史上、もっとも実験的な歌詞だと思います。
野村「一文字ずつ歌うわけだからね(笑)」
曾我「あれ、どっちかが間違えたら最悪だからね(笑)。意味が通じなくなっちゃうから。でも、TVの生放送で何回か失敗したよね(笑)」
衛藤「スリリングだったね~(笑)!」

照れくさい歌詞をヤッチンに歌わせる
――The Good-Byeのすごさって、サウンドだけじゃなく歌詞も洋楽のように楽しめるところなんですよ。“YOU惑-MAY惑”や“にくめないのがニクイのサ”は、歌詞のキャッチーなフレーズがいちいち耳に残ります。洋楽の、英語はよくわからないけど知ってる単語だけ聞き取れる感じに近いと思うんです。日本語の曲は歌詞がダメだとわかるじゃないですか、日本語だから(笑)。ロックじゃない!とか思っちゃう。The Good-Byeは完全にロックの歌詞ですね。
曾我「それはやっぱり、義男の才能だね」
野村「深い詞が書けなかったから(笑)」
曾我「パッと聞いた時に耳に残る言葉をチョイスしてるよね」
野村「そういえば、“YES! YES!! YES!!!”(86年)の歌詞にはエピソードがあって。プリプロと撮影を兼ねて、ビクタースタジオから車で清里に向かったんだよね。車に乗る前、ヤッチンから〈この曲の歌詞、書いといて〉ってテープを渡されて、車のなかでかけたら“YES! YES!! YES!!!”のデモだったんです。清里に着いた時には詞を書き上げて、ヤッチンに〈はい〉って渡したな」
――車のスピード感があの詞に表れているんですね!
野村「高速を走っていなかったら、もうちょっと緩い詞だったかも(笑)」
衛藤「書くの早いよね~!」
野村「ヤッチンの曲って、褒めるわけじゃないけど(笑)、〈♪ラララ〉とかインチキ英語の歌が入ってるから早く書けるんですよ。他のアーティストに作詞を依頼されても時間がかかってしまいますね」
――お2人は以心伝心なんでしょうね。
野村「でも、たまにめんどくさいのがあって。歌が入っていないデモね。自分で書けないからこっちに回したなっていう(笑)。そういう時は〈くっそー、仕返しだ!〉って、歌うのが照れくさいストレートな詞を書くんです(笑)。〈君を愛してる〉みたいな詞を書いて、〈どうだ!〉ってね。自分じゃ歌えないからさ(笑)」

The Good-Byeは日本語ラップの先駆者?
――野村さんの言葉遊びが独特になってきたのが“摩訶WHO SEE議”(85年作『ALL YOU NEED IS…グッバイに夢中!』収録曲)からだと思うんです。あの曲にはコマやメンコが出てきますよね。
野村「あの曲は、近所の(中野の)川島通り商店街の最後のところにあった駄菓子屋がモデルなんです」
――そうだったんですね! フュージョンファンクにジャポニズムをプラスしたサウンドは?
野村「あれはね、クリームをファンクにしただけなの(笑)。(エリック・)クラプトンのクリームの8ビートの曲(“Sunshine Of Your Love”)をファンクにしたらカッコいいかもって」
――大好きな曲なんですよね。当時から評価されていましたか?
野村「どうなんだろう? アルバムの1曲目だもんね。シングル(“気分モヤモヤ サラサラ チクチク”)のB面が先だっけ? だから、毛色の違うサウンドになってるんだよね」
川原伸司「アルバムが先だね。あれもジャニーさんが気に入った曲だった」
野村「あの曲の最後では、〈ラップってのをやってみようぜ〉と挑戦してみたんです。でも、日本に上陸する前だったからさ、朗読になっちゃってるわけ(笑)」
曾我「〈♪麦茶に抹茶に僕ヨッちゃん〉ね(笑)」」
野村「〈4LDK住みたいな〉とか(笑)」
――“摩訶WHO SEE議”の発展型が“花のお江戸は華盛り”(88年作『ALBUM』収録曲)だと思っていましたが、改めてクレジットを見ると、あの曲の作詞は衛藤さんなんですね。
野村「あの曲のラップはパーフェクトなんですよ。〈やられた! なんで俺が書けなかったんだろう〉と悔しかったもん」
衛藤「(笑)。あの歌詞は、江戸語辞典を3冊くらい買ってきて、良さそうな言葉を書き出して組み立てていったんですよ」
――The Good-Byeのみなさんは、作詞をする時に色々と研究するんですね。野村さんの“浪漫幻夢(Romantic Game)”(87年作『#6 Dream』収録曲)も……。
野村「星の本を買って、望遠鏡まで買ったからね!」
衛藤「あと、ギリシャ神話の本ね」
野村「星の回り方ってのがあるからさ、それをちゃんと勉強して、〈この星からこの星へ、こう行けるかな? おっ、行ける行ける!〉なんて考えながら書いたんだよね」

神アルバム『FIFTH DIMENSION』制作秘話
――個人的な話になりますが、僕は当時洋楽が好きで、日本の音楽は大滝詠一さんとかほんの一部しか聴いてなかったんです。それで、『FIFTH DIMENSION』が出た時に〈ジャニーズのアイドルのアルバムがこんな攻めたデザインということは、きっとアイドルポップとロックが良い塩梅でミックスされた音楽なんだろう〉と興味を持って買ったんです。聴いてみたら想像以上に攻めすぎで驚きましたが(笑)。
曾我「僕らはもともとビートルズだったり(ローリング・)ストーンズだったり、色々な洋楽を聴いて育ったからね。しかも、80年代はMTV全盛期でしょ? 海の向こうから入ってくる音楽が楽しくてしょうがなかった。でも、〈ヒューイ・ルイスのような音楽をやってみたい〉と思ってやってみても、出てくるものは全然違うものになる。洋楽の影響はあるけど、それを日本人の僕らが表現したら、ちょっとへんてこなものが生まれるんです。それがThe Good-Byeなのかなと思いますね」
――そのロックバンドとしての魅力に僕がようやく気づいたのが、先ほど言ったとおり『FIFTH DIMENSION』だったんです。お恥ずかしいことに、それまで気づけていなかったんですね。また個人的な話をしちゃいますけど……。
野村「いいよいいよ!」
――“僕色に染めて”を野外で演奏しているのをTVで観たんですね。その日は風が強くて、野村さんの長髪がなびいていて。
野村「もう髪が長かった頃だね」
――そのビジュアル込みで〈めちゃめちゃ良い曲だ!〉と思って。『FIFTH DIMENSION』ってドロドロのサイケ一辺倒というわけでもなくキャッチーな曲もあるんだなと、もっと注意深くアルバムを聴くきっかけになりました。
衛藤「本さんにとって神アルバムだったわけですね」
――ええ。本当に大好きで、もう何枚買っているかわかりません。
一同「(笑)」
――『FIFTH DIMENSION』の頃からファン層が変わった実感はありました?
曾我「ライブではわからなかったけれども、他のバンドの方から〈『FIFTH DIMENSION』、良いアルバムですね〉と言われたのがすごくうれしくて、印象に残ってますね」
――『FIFTH DIMENSION』がサイケデリックアルバムになったきっかけは何なのでしょうか? 川原さんがこのタイミングでビートルズの『Revolver』のようなアルバムを作らせようと仕組んだのでは?と少し勘ぐっていたのですが……。
曾我「それはないね。ほんとに、たまたまそういう流れになったの」
野村「〈こういう作品を作れ〉なんて言われたことないからね」
曾我「まったくね。僕がデュークス・オブ・ストラトスフィア(XTCの変名バンド)のアルバムにハマってて、“THE VOID”のデモを8チャンネルのオープンリールで作ったのがきっかけかな。デモを川原さんに聴かせたらすごく褒めてくれて、寝ている奥さんを〈これ、聴いてみろ!〉って起こしたほどだった(笑)」
野村「『FIFTH DIMENSION』の後に12インチ盤(86年のシングル『僕色に染めて/GOING DOWN』)を出したけど、あれはもっとめちゃくちゃだったね(笑)。別世界に行っちゃってるから」
曾我「“ANOTHER WORLD”だからね(笑)」

The Good-Byeはメドレーの名手?
――それとまたビートルズ的な話ですが、『ALL YOU NEED IS…グッバイに夢中!』のB面はメドレーで繋がっているじゃないですか。僕はThe Good-Byeというとメドレーのイメージがあって。
野村「3枚目でもうそんなことやってたんだね(笑)」
曾我「あれは川原さんのアイデアだったかもね」
川原「まだそれほど複雑な曲を書けなくて簡単な構成の短い曲が多かったら、アルバムで聴かせるんだったらメドレーにしたほうが効果的かなと思ったんです」
――ジョン・レノンの短い曲をなんとかしようとして、ポール・マッカートニーが『Abbey Road』でやったことと同じですね。
川原「『Special ThanX』の“タイムカプセル”も、短い曲の断片がたくさんあって、それを無理に一曲に仕上げる必要はないから繋げちゃおう、って作ったんだよね」
――『Album』のメドレー曲“THE DAY ILLUSION SUITE”は、ベスト盤の『OLDIES BUT Good-Buy! vol.II』(90年)には、野村さんのヘビメタパートが“祭り気分で TAKE A CHANCE”に差し替わったバージョンで入ってるじゃないですか。中間部が違うとメドレー全体のイメージが全然変わってくるんですよね。テイクは同じなので『Album』の再発盤のボーナストラックに入れるか悩んだんですが、メドレーの差し替えなんて斬新すぎるので思い切って入れちゃいました。
野村「“THE DAY ILLUSION SUITE”は良い曲だよね、すごく」
曾我「いいよね~!」
――衛藤さんの歌がまた良いんですよ。
衛藤「僕も好きです(笑)」
川原「4人それぞれの持ち味が出てるからね」
野村「この曲を渡されてさ、〈どう歌詞を書いたらいいんだ?〉って思ったよ(笑)」
川原「主人公は“祭り気分でTAKE A CHANCE”と一緒でしょ?」
――えっ! マジですか!?
野村「そう。会社の歌だからね」
――そっか、“THE DAY ILLUSION SUITE”のメドレー差し替えは歌詞面でも意味があったのか! 感動です!
野村「この頃はアイドルとしてTVに出ることもほとんどなくなってて、〈レコーディングだけしたいんだ!〉という気持ちになってたんだよね。ライブももういいかなって」
――そうだったんですか!?
野村「うん。とにかく〈アルバムを作りたい〉〈レコーディングをしたい〉という状態だったから、このまま事務所に所属しててもしょうがないんじゃないかって思って書いた詞なの。でも、考え直して〈♪だけど今の会社は一番〉と自分に言い聞かせてるんです」

〈The Good-Bye聴いたことないの!?〉と言える時代
――では、本日のまとめに入らせていただきます。僕が初めてライブを観たのは〈再会〉(2003年)なんですね。その時、予想以上に男性の観客が多かったんです。翌年に『READY! STEADY!! THE GOOD-BYE!!!』を出して、それ以降さらに男性のお客さんが増えたと思いました。
曾我「たぶん、義男の男性ファンがたくさん観に来てくれてるんじゃないかな。それと、The Good-Byeのライブを観てみたかった男の人たちが来てくれているんじゃない?」
野村「昔は〈踏み絵The Good-Bye〉なんて言葉があったからね(笑)。当時好きだと思ってくれてた男子たちもいたけど、〈The Good-Byeが好き〉と公言するのは恥ずかしかったっていう時代だから。それが、今は〈えっ、お前The Good-Bye聴いたことないの!?〉って言える時代になった」
――The Good-Byeのライブを観てると〈あー、このカッコよさを友だちに見せたい! 誘えばよかった!〉っていつも思っちゃいます。『READY! STEADY!! THE GOOD-BYE!!!』も、もっと洋楽好きに聴いてほしいと、能地祐子さんと話し合いながら作ったんです。
野村「僕、ツアーで色々な地方に行くんですけど、どの土地に行っても必ず寄るのが楽器屋さんなんですね。で、たまにレコードも扱ってるお店があって。そういうお店で〈このギターって……〉とお店の人に訊きに行くと、店員さんがThe Good-Byeのレコードを持って〈サインもらえますか? 当時買ったレコードなんです〉って言うんです(笑)。楽器好きの人たちがThe Good-Byeを楽しんでくれているというのは感じますね」
曾我「僕の知り合いにも、当時TVで見た僕のギターを探し回って買ったという人がいるよ。あと、僕のマネージャーはジャニーズというだけで聴かずにシャッターを下ろしちゃってて、改めて聴いたらびっくりしたと言っていました。そういう人は多いんだろうなって」
――The Good-Byeのすごさというのは、20周年の頃より浸透しつつありますよね。今回、デビュー40周年を前に全作が再プレスされたので、僕は引き続き、これからも変わらずThe Good-Byeを推していきたいと思っています!
一同「ありがとうございます!」
野村「僕が初めてビートルズやレッド・ツェッペリンを聴いた時みたいに、今の人たちは後ろから逆の順番で聴くこともできるからね」
――『Special ThanX』から『HELLO! THE GOOD-BYE』へと。
野村「そうそう。どんどん曲がシンプルになっていく様もわかる。それでまた順番に聴き直したら、〈大きくなったね~〉って感じられるかも(笑)」
――それは良いですね。全作が聴ける状況ならではの聴き方です。本日はありがとうございました!
RELEASE INFORMATION
The Good-Bye、デビュー40周年を控え生産中止により長らく入手困難だったThe Good-Byeと野村義男の11作品が待望の再入荷!
THE GOOD-BYEのオリジナルアルバムが再プレスされるということ、本当にありがとうございます。1983年にシングル「気まぐれOne Way Boy」でデビューして、翌年84年の1月にファーストアルバム「HELLO THE GOOD-BYE」をリリース。そこから約7年の間に9枚のオリジナルアルバムを出してきました。80年代はランキング番組による、シングル曲が主流の時代にグッバイはアルバムの方が売れていたという、当時のアイドルとしてはちょっと珍しい存在でした。しかも自分達で曲を作り、詞を書いて レコーディングさせてもらえたのも当時としては珍しいバンドだったと思います。アイドルという型にはめずに、やりたいことをやりたいようにやらせてくれていたから、今でも30年以上前のアルバムを求めてくださる方がいるのかなぁなんて思ったりもします。なかなかOKテイクが録れなくて莫大な時間がかかったファーストアルバムから、少しずつ演奏力もあがり、メンバーそれぞれの個性が芽生え、アルバムごとにバンドとしての成長物語を聴いていただけたらと思います。 あっ、30年ぶりに出したグッバイ10枚目のオリジナルアルバム「special thanX」も併せて聴いてみてくださいね!
THE GOOD-BYE 曾我泰久







