90年代初頭の東京アンダーグラウンドで、ウィスパーボイスとミニマルなビートが織りなす退廃的かつ内省的な音楽を展開していたPOiSON GiRL FRiEND。彼女の代表作『SHYNESS』(1993年)と『LOVE ME』(1994年)が、このたび日本コロムビアよりリイシューされた。前者は、英国の奇才モーマスがプロデュースを手がけ、ルイ・フィリップやザ・キング・オブ・ルクセンブルクことサイモン・フィッシャー・ターナーが参加するなど、当時から海外での評価も高かった作品。今回の再発盤には、昨年発表された“The October Country”や、Noriko名義で制作された『プロヴァンスの休日』収録のフレンチポップカバーといった貴重なボーナストラックも収録されている。Z世代の耳にまで届いた再評価の波と、Spotify経由で拡張されたその音楽的地平。時代と国境を超えて届いたその〈サッドネスとロマンティシズム〉の核心に、今ふたたび触れてほしい。


 

ネットなき時代に繋がり合ったモーマスとの共同作業

──まずは『SHYNESS』『LOVE ME』がリイシューされたことについて、率直なお気持ちをお聞かせください。

「そうですね……〈今さら?〉って思う方もいらっしゃるかもしれませんが(笑)、私は本当にうれしいです。

実は、一昨年に2枚のアルバムを1枚にまとめたコンピレーションLP(『exQuisxx』)が出たことがあったんですよ。そのときにファンの方々から、〈やっぱり1枚ずつ欲しい〉といった声をたくさんいただいて。なので今回、それぞれアルバムとしてリイシューしていただけたのもありがたかったですし、正直ちょっと驚きましたね。どちらもこれまでレコードでリリースされたことがなかったので、とても感慨深いです」

──『SHYNESS』のプロデューサーであるモーマスとの出会い、一緒にアルバムを作ることになった経緯を改めてお聞かせください。

POiSON GiRL FRiEND 『SHYNESS』 NIPPONOPHONE/コロムビア(2025)

「〈POiSON GiRL FRiEND〉という名前は、80年代からずっと大ファンだったモーマスのアルバム『The Poison Boyfriend』から取ったんです。それを、たまたま彼が日本のCDショップで見つけてくれて、名前に惹かれて買ってくれたそうなんです。来日公演のMCで〈POiSON GiRL FRiENDのアルバムが気に入っている〉と話してくれたのも嬉しい驚きでした。

その後、『シティロード』という、今は廃刊になってしまった東京ローカルの情報誌にモーマスのインタビュー記事が掲載され、そこでも私の名前を挙げてくれていました。その流れで私にも取材の申し出があり、私のインタビューも同時に掲載されたのです。

その記事を、モーマスの日本人ファンの方が英訳して送ってくださったんですよね。当時はまだネットもなく、情報のやりとりには時間がかかる時代でしたが、すぐにモーマス本人からビクターにファックスが届きました。〈プロデュースでも曲提供でも、なんでもやりたい〉と。それが、『SHYNESS』制作のきっかけになりました」

──実際の制作は、どのような流れで行われたのでしょうか。

「今話したように、当時はまだネットがなかった時代だったので、たぶんファックスではなく手紙を書いたんじゃないかなと思います。最初にモーマスから連絡があったのは、7月か8月くらいだったでしょうか。その年の11月、私は別件でロンドンに行く予定があって、〈せっかくだから会いましょう〉ということになりました。

その時点で、彼のほうではすでに『SHYNESS』に収録予定の曲が何曲かデモとしてできていて、自分で仮歌も入れていたんです。その仮歌がとても可愛らしく(笑)、それもあって〈ぜひ一緒にやろう〉と」

──そこからすぐに制作が始まったのですか?

「いえ、そのときはまだ本格的な制作には至らず、私はいったん日本に戻りました。ロンドンにはあくまで別の用事で行っていましたし。その頃ちょうど、ビクターで2枚目のアルバムを作る話もあったのですが、日本の音楽業界の状況やレーベル、マネジメントの問題が少し複雑になってきていて……正直、少しややこしいことになりかけていたんです(笑)。

そんなときに、コロムビアのクリエイティブ部門に繋いでくれた方がいました。〈コロムビアだったらこの企画に絶対興味を持ってくれるはず〉と、強く後押ししてくれて。実際にコロムビアの方とお会いしてみたら、話はとんとん拍子に進んでいきましたね」

──制作では、モーマスさんが曲を作って、nOrikOさんが歌を乗せていくような形だったのですか?

「私も事前にたくさんのデモテープをモーマスに渡していたんです。その中から、彼が〈これいいな〉と思ったものを選んでくれて。特に私が80年代の終わり頃に作っていた、クラブっぽくないというか……もっと内省的なタイプの曲に惹かれたみたいでした。

なので、モーマスが完全に主導していたというよりは、お互いに素材を持ち寄って、どれをレコーディングするか相談しながら一緒に形にしていった感じですね。まさに共同作業でした」