坂本九のベストアルバム『坂本九』が、本日8月20日にリリースとなった。2025年は昭和元年から数えて100年目であるほか、戦後から80年、さらに日本航空123便墜落事故から40年と、さまざまな節目が重なる年でもある。そんなタイミングに届けられた全56曲、計61トラックが収められた本作を、ライターの桑原シローに聴き込んでもらった。 *Mikiki編集部
カバーポップス黄金時代を支えたシンガーとして
なんとまぁ、ずいぶん深いところまで沁み込んでくる浸透力の高い歌声だこと。もともと涙成分の含有率が高い声だったからそういう効果も強かったけど、齢を重ねてこちら受け取る側の吸収力があがったことも影響しているんだろうな。いや、やっぱり違うか、九ちゃんがわれわれの未来に残してくれたメッセージが、時を経るごとにいっそう効力を発揮していることがきっと関係しているんだ。昭和100年、戦後80年、そして九ちゃん没後40年に編まれた3枚組ベストアルバム『坂本九』を聴きながら、そんなことをつらつらと考えている。
この夏はいつもに増して彼の歌声を欲していた、という気持ちを抱えていたファンはたぶん少なくないはず。このベストアルバムは、そんな方々の心を満たすのに最適なアイテムであることはたしかで、NHKの伝説的バラエティ番組「夢であいましょう」で彼が“上を向いて歩こう”を初披露した放送日にちなんだリリース日程になっているのも気が利いていてナイスだ(放送日が1961年8月19日で、本作のリリース日は8月20日)。この世で一番肝心なのはやはりステキなタイミングって九ちゃんも言っているしね。皆さんも幸せなら手をたたきましょう。
では収録曲を追って紹介していきたい。まずは60年代の輝かしきヒットソングが並べられたDISC 1から。“明日があるさ”“涙くんさよなら”“ステキなタイミング”など、さまざまなシンガーによってのちにカバーされ、さまざまな年代でふたたび息を吹き返したスタンダードナンバーもいろいろと揃っていて、感動の密度の高さは3枚のCDのなかでピカイチ。
導入部に登場するのは、当時は新興の東芝レコードからリリースされたダニー飯田とパラダイスキング在籍時の“悲しき六十才(ムスターファ)”や“ビキニスタイルのお嬢さん”といった和製ポップスの有名曲だが、これらは九ちゃんも60年代のカバーポップス黄金時代を支えたシンガーのひとりであったことを伝えてくれる。
とりわけ注目したいのが、ワールドミュージックブームの頃にディック・リーのバージョンが人気を集めた“悲しき六十才(ムスターファ)”で、異国情緒に無理くり日本情緒を括りつけて、哀愁歌謡へと仕立て上げるという高度経済成長期ならではのイケイケぶりがとにかく素晴らしい一品。九ちゃんの鷹揚な歌声がこれまたしっくりきて、やたらと沁みる。九ちゃんが恋焦がれた大スター、エルヴィス・プレスリーのカバー“GIブルース”もたまんない。エルヴィスよろしくヒーカップ唱法を繰り出しながらセクシーに迫る九ちゃんがやたらと微笑ましい。
切なさと晴れやかさを含んだ“上を向いて歩こう”での歌いっぷり
そして、なんだかんだ言ってもやっぱり“上を向いて歩こう”である。問答無用の国民的ヒットにして、全米シングルチャートでナンバーワンに輝いた唯一のジャパニーズポップスが本ディスクのオープニングを飾っている。作詞を手がけた永六輔が言うには、この曲は泣くのを我慢する歌で、小さな男の子が泣かないで歯を食いしばって我慢している顔を思い浮かべながら書いたそうだが、たしかにこの曲の肝と呼べるのは、やせ我慢の笑顔を浮かべながら宙を仰ぎ見る九ちゃんの歌いっぷりで、切なさと晴れやかさを同時に運んでくるみごとな表現力を示している。
“上を向いて歩こう”と同じぐらい重要なのが、永六輔 × 中村八大コンビによる“一人ぼっちの二人”だ。“上を向いて歩こう”と並び、九ちゃんがボッチ系ソングの名手であることを証明する名曲だが、ぽつねんと佇んでいるような歌の存在感は現代においてもリアルに響くものがあると思えてならない。
もうひとつの重要曲が“見上げてごらん夜の星を”。いずみたくと永六輔が手がけたミュージカルの劇中主題歌をカバーしたこちらは、エルヴィスのキャリアでいうと“Can't Help Falling In Love”に匹敵する一世一代の名バラードだ。数々のカバーが生まれているが、1985年8月21日にオンエアされた「夜のヒットスタジオ」において森進一が披露した魂の絶唱に優るものはない。
そんな森進一のエピソードをもう少しばかり。その日、自身の持ち歌を披露する予定だった森は“見上げてごらん夜の星を”を歌わせてほしいとスタッフに要望。かねてから九ちゃんを兄のように慕っていた彼にとって、今夜どうしても届けなければならない想いがある、という覚悟のようなものがあったのだろう。中空を見つめながら切々と歌を紡いでいく彼の眼は次第に大粒の涙で溢れ、震えるような声がやがて祈りのようにスタジオを包み込んでいった。この日ブラウン管に映し出された〈絶唱〉は、坂本九という存在の大きさを物語る出来事であると共に、日本歌謡番組史における名シーンのひとつとしていまでも語り継がれている。
それから素っ頓狂なボーカルが光る“あの娘の名前はなんてんかな”など、彼の歌手キャリアを語るうえで欠かせないコミック系の楽曲についても紹介せねば。なかでも“九ちゃん音頭~それが浮世と云うものさ”や“九ちゃんのズンタタッタ(聞いちゃいけないよ)”をはじめ、ハナ肇とクレージーキャッツのブレインでもあった青島幸男による作詞曲が持つ無鉄砲な陽気さにはいつだってひれ伏したくなる。