あえて選択された“貧しさ”がもたらす「現代映画」の息吹き
台湾の巨匠の久々の新作は紛れもない傑作である!
草原にポツンと立つ樹木の陰で、二人の女性が真剣な眼差しを画面外に向けている。年長の女性(白衣の女道士)によって凄腕の刺客へと育て上げられた若い黒衣の女性、隠姫が、いわば卒業試験ということか、ある人物の暗殺を命じられようとしているのだが、僕らはそうした物語上の情報以前に、彼女たちが身を隠す樹木の美しさや、緩やかな風による木の葉のざわめきに胸騒ぎを覚える。登場人物たちにしばしの憩いの時を与える一本の樹木、そして風がもたらす木の葉のざわめき……。武侠映画への初挑戦という点でも注目される、この8年ぶりの新作は、まさにホウ・シャオシェンならではの傑作であり、彼はその冒頭から自らの作家としての署名を鮮明に画面に刻むのだ。
スタンダード・サイズの選択に映画作家の並々ならぬ決意を読み取るべきだろう。昨今の武侠映画は、豪華な衣装を身に纏った男女の剣客らが華麗に宙を舞い神業めいた術の応酬で雌雄を決する戦闘シーン(スペクタクル)を売りにし、そうした歴史大作にあってはむしろ横長の画面サイズが好んで選ばれる。もちろんかなりの迫力の戦闘シーンも展開される本作だが、スタンダードの画面は積極的かつ絶対的な意味での“貧しさ”を志向するだろう。唐代中国の辺境の地を舞台とする本作は、その時代の同地の“貧しさ”を肯定的な意味で捉える試みともいえ、その際、さまざまな情報を画面外に追いやるスタンダード・サイズの選択こそ必然的な帰結なのだ。
“貧しさ”の選択は、本作を「現代映画」とすべく要請されたものでもあるだろう。当然といえば当然のことながら、本作は、現代の俳優たちに現代の優れた映画作家が演出を施し、現代の優れた撮影監督(リー・ピンビン)がキャメラを向けることで生まれた「現代映画」であり、武侠映画のジャンル性を介してもなお、そうした現代性がここまであらわになることに驚きを禁じ得ない。樹木の葉を揺らす風は現代において吹き、荘厳な神秘性を帯びた風景も現代の風景で、登場人物らが胸に秘める苦悩や喜びも同様である。ホウ・シャオシェンが優れて現代的な映画作家たるゆえんは、「見えないもの」を「見えるもの」とする意志や情熱にある。風は目に見えないが、木々の葉や部屋に下ろされた布、蝋燭の炎等々を揺らすことで「見えるもの」となり、非情な暗殺マシーンであるはずの隠姫が不可思議な感情の生起によって殺しを逡巡する姿が僕らに呼び起こす感動にしても、安直なヒューマニズムやセンチメンタリズムで説明してはならない。私の関心は人間の「情」を描くことにある…とかつて僕がインタヴューした際にも映画作家は堂々と語っていた。曖昧模糊として「見えないもの」である人間の「情」が、映画の画面上でまさに現前し「見えるもの」となる時、映画作家の孤高の天才と本作の偉大さがまざまざと「見えるもの」となり、立証されるのだ。
映画『黒衣の刺客』
監督:ホウ・シャオシェン(侯孝賢)
原作:「聶隱娘(ニエ・インニャン)」/裴鉶(ハイ・ケイ)
脚本:チョン・アーチョン(鍾阿城)、チュー・ティエンウェン(朱天文)、シェ・ハイモン(謝海盟)
出演:スー・チー(舒 淇)/チャン・チェン(張震)/妻夫木聡/忽那汐里/他
配給:松竹(株)メディア事業部 (2015年 台湾・中国・香港・フランス 108分)
◎9/12(土)より、新宿ピカデリーほか全国ロードショー
http://kokui-movie.com/