連載

【EXOTIC GRAMMER】VOL.34 オーケストラがやって来た

稀代の天才音楽家、山本直純が甦る

【EXOTIC GRAMMER】VOL.34 オーケストラがやって来た

 昨年12月11日。東京・錦糸町のすみだトリフォニー大ホールで「『オーケストラがやって来た』が帰って来た!」という風変わりな題名の演奏会が開かれた。翌朝フェイスブックに書き込んだ私の感想文が、当日の雰囲気を伝える。

 泣けた!すみだトリフォニーホールのオルガン前にかかった巨大スクリーンに山本直純(1932〜2002)が現れ、ガラガラ声で語り、指揮する姿を見ただけで、懐かしさがこみ上げてきた。NTTの前身、日本電信電話公社の1社提供でテレビマンユニオンの萩元晴彦がプロデュース、TBS系で1972〜83年に544回放映された伝説の音楽番組『オーケストラがやって来た』。そのDVDボックス発売に先立ち、テレビマンユニオンが主催したコンサートは「『オーケストラがやって来た』が帰って来た!」という題。座付きの新日本フィルハーモニー交響楽団に歴代司会者の1人であるマリ・クリスティーヌ、直純さんに次いで出演の多かった指揮者の井上道義ら懐かしい顔ぶれが集まった。ベートーヴェンの「エグモント序曲」を振るはずだった小澤征爾は風邪でキャンセルしたが、小澤と井上の母校である成城学園の子どもたちは、素晴らしい合唱で花を添えた。傑出した指揮、作曲の才能を持ちながら、クラシック音楽大衆化の理想に燃え憤死した直純さんの壮絶な生涯を、私たちは涙なしに語ることができない。ドイツ音楽の演奏解釈において、小澤が最も尊敬し怖れたのは直純だった。私たち昭和のクラシック少年たちは「オケ来た」に育てられたようなものなので、直純さんのことを決して忘れない。DVDボックス、絶対に買います!

山本直純 オーケストラがやって来た DVD-BOX TCエンタテインメント(2014)

 「絶対に買います」と宣言していたら年明け、テスト盤のDVD-Rが「やって来た」。ボックスは4枚組。「第一楽章 山本直純編~ヒゲの超人、響いた、跳んだ!~」「第二楽章 小澤征爾編~音楽は神様の贈りもの~」「第三楽章 伝説の名演奏・名企画編~たっぷり10選~」「第四楽章 夢の共演オンパレード~泣いて笑って心に刻んだ~」のそれぞれに、約2時間の名場面を収めてある。ボックスには、全544回の放送タイトルと出演者名を網羅した保存版ブックレットがつく。

 『オーケストラがやって来た』を生んだ背景は大きく分けて、三つある。先ず1972年の「日本フィル事件」。前年に旧日本フィルハーモニー交響楽団の楽員が待遇向上を求め、日本のオーケストラ史上初のストライキを打った。当時の首席指揮者、小澤が日本芸術院賞の授賞式で昭和天皇に「直訴」するハプニングもあって事件は社会の大きな関心を呼ぶ。だが事態は改善せず、スポンサーのフジ・サンケイ・グループは翌年6月、日本フィルの解散に踏み切った。1955年にフジテレビの水野成夫社長(当時)、指揮者の渡邉暁雄らによって創立された斬新なオーケストラは組合派(集団プレーの弦が中心)の現日本フィルと、非組合派(個人プレーの管が中心)の新日本フィルハーモニー交響楽団に分裂した。番組は発足後間もない新日フィルの存在を全国に伝え、活動を支援することを目的に誕生した。

 「日本経済新聞」朝刊文化面に2014年1月の1ヶ月間連載された小澤の「私の履歴書」。24日付けに、こう記してあった。

 「(新日フィル)設立後すぐ、直純さんはテレビマンユニオンのプロデューサー、萩元晴彦さんと音楽番組『オーケストラがやって来た』を始める。番組内での演奏はもちろん新日フィル。僕は120%協力するつもりで、可能な限り出演し、親しい外国の演奏家にも積極的に出てもらった。(中略)クラシック音楽を分かりやすい言葉で裾野まで広めようとしたのがこの番組だと思う。番組は11年にわたって続いた。直純さんの素晴らしい功績だ。」

 二つ目の背景は新日フィルの少し前、1970年に産声を上げたばかりの番組制作会社のテレビマンユニオン自体にあった。68年にTBS系列のニュース番組「JNNニュースコープ」のベトナム戦争報道をめぐり、担当スタッフが外された。労組(ユニオン)加盟のTBS局員は抗議のストライキを打ち、萩元や村木良彦ら報道部門だけでなく、今野勉らドラマ部門のディレクターも69年に局を去った。翌年には独立系制作プロダクションとしてテレビマンユニオンを旗揚げ、テレビ局の下請けに甘んじず独自の番組を企画、スポンサーへ直に持ち込む手法の草分けとなった。萩元は小澤の自伝エッセー、「ボクの音楽武者修行」(1962年、新潮社)の出版にも深くかかわっていた。新日フィルをテレビで支援する番組を創るに当たり、萩元は小澤の師の1人であるレナード・バーンスタインが企画、若い世代に語りかけたテレビの音楽啓蒙番組「ヤング・ピープルズ・コンサート」を手本とした。

 東京・御茶ノ水にあった室内楽演奏会場、「カザルスホール」プロデューサーとしても名を残す萩元は、音楽を深く愛していた。「この番組は真摯に生きている人たちへ私たちが心からお贈りするテレビ番組です」。萩元の思いは小澤の国際ネットワークを通じ多くの音楽家を動かし、ヴァイオリンのアイザック・スターンやイツァーク・パールマン、ジョセフ・シルヴァースタイン、ピアノと指揮のクリストフ・エッシェンバッハ、フルートのオーレル・ニコレ、セヴェリーノ・ガッゼローニらが次々とゲスト出演した。彼らが日本の、たった30分枠のテレビ番組に残した偉大な足跡は、DVDでしかと楽しめる。

 

 萩元が狙いを定めたスポンサーはNTTの前身、日本電信電話公社だった。テレビマンユニオンの重延浩会長・ゼネラルディレクターは昨年12月のコンサートのプログラム冊子で、萩元の言葉を紹介している。「提供してくれるのは電電公社だ。全国への通信を、責任を持って行う公共機関。だから全国の客にこたえる音楽番組にしたい」。全544回の番組はすべて、電電公社が提供(途中から富士重工業との2社提供)。公開録画の会場ロビーには公衆電話が置かれ、当時は高価だった長距離通話も無料で提供したので、長蛇の列ができた。首都圏の電話加入者数が500万の大台を突破した記念の第424回「ふたりのオペラ」では、メノッティの歌劇『電話』を放映。ヒロインのルーシーを本宮寛子(ソプラノ)が歌い、演出の粟國安彦(淳の父)が恋人ベンの歌も引き受けた。だが何より見事だったのは、山本直純の指揮だった。アメリカの近代オペラにおいても、大らかで生気あふれる棒さばきが光った。

 

 そう、三つ目の背景は稀代の天才音楽家だった山本直純の全貌を余すところなく伝え、「世界のオザワ」以外の日本人音楽家の実力もすでに、キラ星のように豪華なゲストの国際アーティストに全く劣らなくなっていた事実を立証することにあった。直純は常々、「俺は底辺を目指すから、お前は頂点を目指せ」と小澤を励ました。山田洋次監督の映画『寅さん』シリーズの音楽ひとつでも歴史に名を残す大衆音楽の作曲家だが、DVDに収められた管弦楽曲や合唱曲、遠藤周作と共同で制作したオラトリオなど純音楽作品のクオリティも極めて高い。オーケストラ、人の声、人情の機微を知り尽くし、込み入った内容をわかりやすく伝える才にたけていた。番組のオーケストラ伴奏用の編曲も、ほぼ一人で手がけた。

 直純だけではない。朝比奈隆、石井真木、岩城宏之、斎藤秀雄、武満徹、立川清登、安川加寿子ら、今は亡き偉人たちの姿もたっぷり拝める。いちばん最後に収められたのは第151回の《夢の船》。早世した作曲家の矢代秋雄が同名のピアノ4手作品、《夢の船》を《ピアノ協奏曲》の初演者である中村紘子と連弾する。ほんの数分の小品ながら、『オーケストラがやって来た』にこめた無数の人々の思いがあふれ出るようで、またしても泣けた。

 

山本直純(やまもと・なおずみ) [1932-2002]

1932年東京生まれ。幼少の頃から父・直忠氏より音楽教育を受け、自由学園から東京藝術大学作曲科に入学。後に指揮科に転じ、渡邉暁雄氏に師事。72年、小澤征爾とともに新日本フィルハーモニー交響楽団の設立に参画。同年より、テレビ番組『オーケストラがやって来た』にレギュラー出演し、ユニークな企画、ウィットに富んだ解説が好評を博した。74年ニューヨークでの国連デー・コンサートのための国連委嘱作品『天・地・人』のうち『人』を作曲。79年には日本人として初めてボストン・ポップス指揮。83年から98年まで毎年大阪城ホールで『一万人の第九コンサート』の音楽監督、指揮を務めるなど、クラシックの大衆化に力を注いだ。数々のCMソング、テレビ番組のテーマ音楽をはじめ、大ヒット映画『男はつらいよ』シリーズ全48作の音楽を担当した。2002年6月18日、逝去。享年69歳。

 

寄稿者プロフィール
池田卓夫(いけだ・たくお)

1958年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部を81年に卒業と同時に(株)日本経済新聞社へ入社。経済畑のフランクフルト支局長などを経て文化部へ移り、長く音楽担当の編集委員を務めた。音楽雑誌への寄稿やコンサート、オペラ、CDなどの企画・解説、コンクールや音楽賞の審査なども手がける。