カルメン・マキ&OZとの出会い、矢沢永吉やサザンとの対バン

――そこで春日博文さん(ギター)と加治木剛(=ダディ竹千代)さんに出会うんですね。もう1つのキーワード、カルメン・マキ&OZの2人です。

「2年生になって同好会の部長になって、そこに入ってきたのが春日で、〈ドラムをやる〉って言うです。今でも覚えてるけど長髪で、毛先を染めてたね。でもドラムにはバカテクのすごいヤツがいたから、ギターをやってもらったんだよね。いきなりジミ・ヘンドリックスの“紫のけむり”(67年)をやらせたんだよ。

で、加治木はフォークをやってたんですよ。しかも、軽音部じゃなくて新聞部で。当時は学生運動が大学から高校にまで及んでて、彼は全校集会で演説してましたね。

それで、僕が3年になると春日が部長になったんですけど、この頃は学園紛争で授業が無くなって、僕らノンポリ連中は麻雀ばっかり。バンドの練習もしなくなっちゃった。春日は〈バンドが出来ないなら学校に行く意味がない〉って言って、ブルース・クリエイションのライブを観に行ったんですよ。〈竹田和夫って凄いギタリストがいる〉と学校でも話題でしたから。それで春日は学校を辞めちゃったんですよ。

卒業してしばらく経った頃でしたか、東横線の吊り広告で、『微笑』って主婦向け女性誌の広告に〈あのカルメン・マキがロックバンドを始めた〉とあったんです。〈もしかして〉と思って本屋で立ち読みしたら写真があって、写っているのがどう見ても春日なんですよ。それでカルメン・マキ&OZを観に行く機会が出来たんです」

――来住野さんは高校卒業後どうしてたんですか?

「横浜駅西口のグルッペというディスコでハコバンの仕事をもらって、月のギャラが25万だったの。メンバーは4人だから1人5、6万。この頃のサラリーマンの初任給が3、4万だからすごいよね。

ディスコは音楽を切らしちゃいけないんでバンドを2つ入れてるんですよ。30分交代で、1日5、6回ステージで演奏していたね。で、その時のもう1つのバンドがキャロルの前身の、矢沢永吉のヤマトなんですよ」

――おとぼけCATSの最初のライブの対バンはサザンオールスターズだったそうですね。

「デビュー前の永ちゃんやデビュー直後の桑田(佳祐)君と出会ったのは、貴重な経験でした。

それで、ディスコやキャバレーの仕事は毎月あるわけじゃないから、時間が空いた時に(カルメン・マキ&)OZのライブを観に行ってたと思う。ビアホールやキャバレー、ライブハウスだと吉祥寺のOZや渋谷のジャンジャンだったかな。

(カルメン・マキ&)OZはドラムが樋口晶之(クリエイション)でベースは鳴瀬(喜博、カシオペア)なんだけど、なかよし三郎がヘルプのベースでね」

 

長嶋茂雄が引退した日にカルメン・マキ&OZ“私は風”を録った

――今回『裏面』のディスク3に収録された東京おとぼけCATSのデビュー前のバンド(73年)はどのようなバンドなんですか?

「高校の下級生の寺中(由紀夫、寺中名人=テーラー八雲)と彼の中学のバンド仲間のなかよし三郎、そしてこの頃にはもうカルメン・マキ&OZのスタッフをやってた加治木と作った1回のみのバンドですね」

――この時、カルメン・マキ&OZのデビューシングルとなる“午前1時のスケッチ”(74年)が既に出来てたんですね。

「それは自分が高校の時にやってたバンドの英語のオリジナル曲が元なんです。その曲でヤマハの〈ライト・ミュージック・コンテスト〉に出ました。上位にはなれなかったけど優秀賞はもらったな。この曲のギターリフとコード進行を知っていた寺中が、加治木に日本語の歌詞と歌メロを付けさせたんですね。それが“午前1時のスケッチ”となったわけ。桜町高校の縁で作られた作品です」

カルメン・マキ&OZの75年作『カルメン・マキ&OZ』収録曲“午前1時のスケッチ”。作詞作曲は加治木剛(ダディ竹千代)。シングルは74年にリリース

――それをダディさんが初めて歌った世田谷砧区民会館のライブにカルメン・マキと春日さんが来ていたと。

「そこで初めて聴くんですよね。曲もOZっぽいし、それで彼らのレパートリーとなるわけです」

――ファーストアルバム『カルメン・マキ&OZ』(75年)に来住野さんはコーラスで参加しています。

「高音のボーカルが出るんでコーラスに呼ばれたんですよ」

――“私は風”の〈♪チュッチュッチュッチュ~チュ~〉のコーラスですね。

「コーラスを録音した日は長嶋(茂雄)が引退した日でね(1974年10月14日)、大ファンだからテレビで観ていたかったんだけど。(目黒)大橋のポリドールのスタジオの誰もいない食堂で録音の声が掛かるまで1人でテレビを見てました。ダブルヘッダーの第2試合、長嶋がセンター前のヒットを打ってね。涙をボロボロ流してたらダディが呼びに来たんです。

あと“六月の詩”と“IMAGE SONG”の3曲でコーラスやりました。サードアルバム(77年作『カルメン・マキ&OZ III』)の中の“26の時”は春日と僕の共作で、OZとはずっと関わってました」

カルメン・マキ&OZの75年作『カルメン・マキ&OZ』収録曲“私は風”。中森明菜、デーモン閣下、松本孝弘、SHOW-YAらによるカバーでも知られる

 

ダディ竹千代と東京おとぼけCATS結成

――そしてOZのスタッフであるダディさんとのバンドが始まるわけですが。

「当時、私はブラザー・フーというメジャーデビュー直前までいったポップなバンドをやってました。同じ頃に加治木はダディ竹千代と名乗る前にファンキー・ステップというバンドをやってて。着物姿で盆踊りをやったりね、面白いバンドでした。“電気クラゲ”も既にあったんです。このバンドのギターは寺中と春日だったんですよ。

そのファンキー・ステップが解散し、僕のバンドも停滞してた時に、加治木から電話がかかってきて、それが始まりですね。76年です」

――OZのセカンド『閉ざされた町』が出た頃ですかね。

「それが出て、OZが少し休んでた時ですね。寺中は〈入らない〉と言って、春日の弟(春日善光)が入り、国立音大の学生のハタさん(=秦万里子)が加わったんですね」

――『裏面』のディスク1で聴ける初期ライブの秦さんのキーボードのセンス、すごいですよね。

「当時はわからなかったけど今回改めて聴いて、〈このバンド、秦さんでもってるな〉と思いました。〈こんなバンドに入るつもりじゃなかった〉と言ってましたけどね。彼女はイエスのリック・ウェイクマンが好きだから」

――入ったら歌謡曲をやらされたと。

「僕たちはロックをさんざんやって飽きてきたから、ロックの要素はあるけど、このスタイルになったんです」

――外しの美学といいますか。

「カッコ悪いのがやりたくてね」

――70年代後半はウェストコーストロックにAOR、クロスオーバーなどカッコいいのじゃなくちゃって雰囲気でしたよね。

「ステージではあまり喋らずにね」