高石ともやが死去した。
高石ともやが亡くなったことは、オフィシャルサイトで発表された。〈フォークシンガー 高石ともやに長年ご厚情いただきまして、ありがとうございます。高石はかねてより入院療養中でしたが、去る8月17日 82歳の生涯を閉じました。とても残念でなりません 葬儀は密葬で近親者のみで執り行います。また、御供花、御香典等は勝手ながらご辞退させていただきます。なお、お別れ会は後日開催予定です〉と綴られている。
オフィシャルサイトのプロフィールによると、高石ともやは1941年、北海道・雨竜生まれ。1960年に立教大学に入学し、その後アメリカのフォークソングを訳して歌いはじめる。1966年、大阪労音フォークソング愛好会のコンサートに出演し、初舞台を踏んだ。同年、秦政明に見出され、各地の労働組合や大学、労音のコンサート、反戦集会などで歌うようになる。
さらにシングル“かごの鳥ブルース”でビクターからデビューを果たし、翌1967年に1stアルバム『想い出の赤いヤッケ 高石友也フォーク・アルバム』をリリース。同じく1967年に秦は高石音楽事務所(のちに音楽者舎と改名)を立ち上げ、その後、同事務所はアングラ・レコード・クラブ(URC)の母体になり、関西フォークやアングラフォークの中心になった。
1968年には、“受験生ブルース”(中川五郎のボブ・ディラン“North Country Blues”の替え歌の歌詞に高石が別の曲を付けたもの)や“主婦のブルース”といった代表曲を発表し、ヒットを飛ばす。しかし1969年12月、〈高石ともや冬眠コンサート〉を最後にソロ活動を停止させた。
アメリカやカナダでの放浪を経た1971年、ザ・ナターシャー・セブンを結成し、京都で活動を再開。バンドでは、アメリカのブルーグラスやフォークと日本の音楽の融合を試みた。さらに1973年、祇園祭の開催期間にあわせた野外イベント〈宵々山コンサート〉を京都・円山公園音楽堂で始める。
1985年にはザ・ナターシャー・セブンが解散し、1987年にソロのフォークシンガーとしての活動を再び始めた。翌1988年には、ザ・ナターシャー・セブンが〈再会〉を果たしている。
30代で始めたマラソンやトライアスロンのランナーとしても知られていた高石。近年も〈宵々山コンサート〉の開催(2011年に終了)やライブの場などで活動を続けていた。
半世紀以上にわたって歌いつづけ、日本語フォークの黎明期に貢献し、音楽を通じて反戦などのメッセージを伝え、最期までステージに立っていた唯一無二の歌い手の冥福を祈りたい。