今は亡き〈ビッグボス〉、念願のロストテープを発掘
40年前のスイスで若き勇士らが遺した驚異の記録!
前身となる楽団の時代から数えれば、もっと長くなろう。日本が主権を取り戻す少し前より戦後日本のジャズ・シーンを牽引し、以後60年間、ひとつシャープス&フラッツ(以後〈シャープ〉)のリーダーであり続けた。デューク・エリントンにもカウント・ベイシーにもできなかったこの偉業を、原信夫は常にその最前線に立ちやり通してみせたのだ。その間、数多くのオリジナル作品を創作し、通算すれば300枚以上ものアルバム制作に関わってきた。そんな中、主催フェスティヴァルの編集盤か、伴奏を務める著名アーティストの作品以外に、自身の単独ライヴを音源化するのにあまり積極的ではなかったことに気づかされる。原は音の完成度に対し、また自身の生き様に対していつも“美学”を貫く男であった。
流行りのダイレクト・カッティング用レコーディングに臨んだこともある。よんどころなき理由で数回のつき合いはこなしたものの、その後は一度もこの新方式による録音へ近づこうとしなかった。デビュー・リサイタルとファイナル・コンサート、その間にあったいくつかの周年ライヴを記念として出したこともあるが、他に『フォレスト・フラワー』か『ジャズ・アンリミテッド』の数点以外、実況音源の作品化はなされなかった。〈完全主義者〉=原のこだわりであり、それがバンドに威厳をもたらしたのも確かである。ただし、リーダーが望んで発表を目論んだ単独のライヴ音源が他に1点だけあったことはあまり知られていない。ここに紹介する未発表音源『イン・モントルー 1982』が、それである。
前年の1981年は結成30周年に当たっていた。サラ・ヴォーンをゲストに迎えた武道館での記念リサイタルを皮切りに、バディ・リッチ・バンドとの全国23か所ツアー、クインシー・ジョーンズの武道館コンサートでの伴奏、日本五大ビッグバンドを一堂に並べた企画の主催とそのライヴ&レコーディングへの参画……大がかりなイヴェントをいくつもこなしていった。8か所の夏フェスにも巡演して立ち、ビッグバンドの魅力を各地に伝えると同年暮に原信夫は、その功績が認められビッグバンド・リーダーとしては初の“南里文雄賞”を受賞していた。
そんな81年からこのモントルー出演(82年7月20日)までの期間が、本物のシャープ・サウンドを聴かせる黄金期だったと言われる。森川周三(トランペット)、谷山忠男(トロンボーン)、前川元(アルト・サックス)といった名物奏者が顔を揃え、福島照之(トランペット)や鈴木孝二(アルト・サックス)や唐木洋介(テナー・サックス)や川上和彦(ギター)ら歴代トップクラスのソリストも控えた。このメンバーで米クール・ジャズ祭、ニューヨーク・マンハッタンでの複数のクラブ・ギグ、テネシー州ノックスヴィル〈国際エネルギー博/ジャパンウィーク〉の連日2回公演の肩馴らしを済ませ、仕上がったところで乗り込んだのがモントルー・ジャズ・フェスティヴァルの舞台だった。
女流オルガン奏者として、当時引っ張りダコだった田代ユリもゲストに加わっていた。和風を意識した“阿波踊り”“ソーラン節”“梅ヶ枝の手洗鉢”のラインナップは、まだ珍しい極東アジアの異国情緒を聴衆へ植えつけたかった原の策略である。豪快なオルガンが響き渡る“東海道”も、原の意向を受け田代が作ってきたオリジナル曲だ。参加メンバーの言を借りるなら「時差ボケもあって全員がハイな気分になっていた。それが功を奏し稀にみるエキサイティングなステージとなった」。原の目算どおりそのサウンドはヨーロッパ中から参集した聴衆の心を掴み、世界中のビッグバンドを集めたこの日のプログラム中一番の喝采を浴びていた。演奏後には久しく感じていなかった手応えから、原には珍しく主催者と交渉し、この日の演奏を記録するマスターテープを持ち帰ってきた。帰国後は早速、全国リリースに向けてのプロモーションを開始したのだった。
そのテープの紛失から40年。どこでどうなってのことだったかは故あって詳述を避けるが、つまり2021年に亡くなった原信夫が生涯探し続けたロストテープが、皮肉なことに死の翌年、遺族のもとへ戻ってきたわけである。しかも音の劣化もないまったくの完全体のまま。まさに当時あまりに遠かったスイスの地で、若き勇士たちの驚きのプレイが連続する、今は亡きリーダー原の念願にして奇跡の音源。
LIVE INFORMATION
原信夫とシャープス&フラッツ「復活コンサートライヴ2024 Re:BLUE FLAME」
2024年11月2日(土)有楽町・アイマショウシアター
開場/開演:17:00/18:00
https://imashow.jp/schedule/1146/