アフリカ・バンバータが死去した。68歳だった。
バンバータの訃報は海外メディアを中心に報じられ、現地時間4月9日の午前3時ごろに癌の合併症により亡くなったという。
1957年4月17日、アフリカ・バンバータことランス・テイラーはNYのブロンクス区リバーサイドで誕生した。1970年代からラッパー/DJ/プロデューサーとして活躍し、グランドマスター・フラッシュ、クール・ハークらと共にヒップホップにおける音楽的/文化的発展に大きく貢献した。
移民であるジャマイカ人の母とバルバドス人の父を両親に持つバンバータは、幼い頃に公民権運動の影響を受けたほか、音楽に関しては母親がレコードコレクターだったこともあり、様々な作品に触れる機会があったという。また、当時NYで最も恐れられていたギャング、ブラック・スペーズの一員でもあった。
1973年、バンバータはアフロアメリカンの若者による組織〈ユニバーサル・ズールー・ネイション〉(通称ズールー・ネイション)を結成。同組織は、ブラック・スペードの幹部となったバンバータが旅行で訪れたアフリカでの生活に感銘を受け、ギャング自体を非暴力や平和を掲げるコミュニティへと改革したことで生まれた。
1980年代初頭、バンバータを中心にズールー・ネイションはヒップホップがラップ、DJ、ダンス(ブレイクダンス)、グラフィティの4つの要素で構成されることを早々に定義付けた。これによりヒップホップによる黒人たちの創造性文化を統合し、各要素が発展していくことでカルチャー全体がフックアップされていく構造を生み出した。
バンバータ個人としては、DJのアーサー・ベイカーとの出会いをきっかけに、アフリカ・バンバータ&ソウル・ソニック・フォースとして1982年に“Planet Rock”をリリース。同曲はクラフトワーク“Trans-Europe Express”のシンセリフを引用したほか、ストラヴィンスキー「火の鳥」のオーケストラヒットをサンプリングするなど、それまでにはない画期的なサウンドを構築。また、当時はYMOなど一部のアーティストしか使用していなかったローランドのTR-808を用いるなど、その後のヒップホップサウンドの起点とも言える重要な1曲となった。
1984年、当時人気が低迷気味であったジェームス・ブラウンのために“Unity”を提供。バンバータが手がけた本格的なファンクナンバーはJBの再起に大きく貢献した。
1985年、バンバータは反アパルトヘイト運動の一環としてアルバム『Sun City』の制作に参加。同作にはジョーイ・ラモーンやルー・リード、U2といった面々が参加した。なお、この年には初来日も果たしている。
1988年にはジョージ・クリトン、ブーツィー・コリンズらを迎え、アフリカ・バンバータ&ファミリー名義でアルバム『The Light』を発表。ヒップホップやエレクトロファンク、ダブなどジャンルを横断する先進的な一枚として評価された。
1990年代以降もコンスタントに作品をリリースし続けたバンバータだが、2016年には彼から性的虐待を受けたという男性の告発によって大きな注目を集めることとなった(その後、この男性は告発による自らの主張を撤回)。バンバータは疑惑を完全に否定したが、その後も被害を訴える者が複数名乗り出るなど、人身売買の容疑も含めて民事訴訟へと発展した。なお、2025年にはバンバータが出廷を欠席するかたちで判決が下され、彼は敗訴している。
キャリア終盤はスキャンダルの面で賛否を生む存在となってしまったが、ヒップホップを形成する4大要素、その後のヒップホップやデトロイトテクノにも影響を与えた名曲“Planet Rock”を創造した人物であることに変わりない。ヒップホップを単なるジャンルやムーブメントとして終わらせなかった存在として、改めてこの機会に彼の作品群に耳を傾けたいと思う。