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70年代の喜多嶋修

日本で1台目のビートルズと同じレコーダーを導入

――あのハイド・パークのブライアン・ジョーンズ追悼コンサートの前座にキング・クリムゾンが出た時期ですね。

「ええ。ハイド・パークには私も行きました。30万もの人が集まるなんて誰も想像していなかったですし、世界で初めてそれほどの人数が集まってしまったコンサートです。私は〈朝10時くらいに着けばいいや〉と思ってホテルを出たのですが、会場に着いた時点で、すでに2万人ぐらいは集まっていたんじゃないかな。それでも人を掻き分けて、前のほうまで行きました。

コンサートが始まるまで待っていたんですけど、身動きができなかったですね。トイレにも行けなくて、みんな立ちションしていましたよ(笑)。女の子がするときは、みんなで隠してあげて。むちゃくちゃな時代でしたよ、本当に。

前座のキング・クリムゾンは、なかなかいいバンドだなと思いました。次の日にもマーキー・クラブにまた彼らが出ていて、すごいバンドだなと思っていたら、偶然モーガン・スタジオで『クリムゾン・キングの宮殿』のレコーディングに立ち会うことになったわけです」

――すごい縁ですね。

「はい。スタジオのスタッフはすごくいい方で、いろんなことを教えてくれました。キング・クリムゾンが帰ったあと、当時は携帯電話で写真を撮ることなんてできませんから、〈マイクロフォンはバスドラのなかのこの位置にこうしてセットして、機材は何を使っていて、リミッターはこうで〉などなど、聞いたことをすべて1冊のノートにめいっぱい書き込んで、日本へ持ち帰りました。

それを持って行って、東芝EMIのプロデューサー渋谷森久さんと話したんです。渋谷さんは、〈日本人でインターナショナルになれるのは修しかいない!〉といつも言い切っていて、私とはとても仲がよかったんですね。その渋谷さんに機材のリストを見せたら、〈日本にないものがけっこうあるね。でも、上に交渉して全部手に入れるようにしよう!〉と言って、実際に全部スタジオに入れてくださって。〈夜12時を過ぎたら誰も録音しないから、勝手に音作りをやったら?〉と許可を頂いて録音したのが、『ジャスティン・ヒースクリフ』(1971年)です。

当時、ランチャーズの録音のセカンドエンジニアだった吉野金次が私のオリジナル音楽にとても感銘を受けて、彼は私がロンドンで学んできた世界最先端の録音方法や機材について熱心に勉強し、当時の日本では考えられないようなクオリティで録音できるエンジニアに成長しました。〈あんなすごい音を作れるエンジニアがいるんだ〉と業界で評判になり、彼の仕事も増えていったんです。そんな流れで、『ジャスティン・ヒースクリフ』の録音も彼がエンジニアとして活躍してくれました」

ジャスティン・ヒースクリフ 『JUSTIN HEATHCLIFF THE UNHEARD EDITION』 SUPER FUJI(2026)

――知らずに聴いていたんですが、『愛こそすべて 松岡計井子ビートルズをうたう』(1971年)の演奏は喜多嶋さんだったんですね。

「ええ。〈ジャック・アルマン〉という名前でやりました。私が〈ジャック〉で、吉野が〈アルマン〉なんです。

松岡さんのプロデューサーが〈とにかくビートルズの音に近づけたい〉と言うので、ビートルズが使っているのと同じ16チャンネルのレコーダーが欲しいと思ったのですが、日本には1台もないと。〈絶対に手に入れてください。そうすればビートルズと同じレベルの音になります〉とお願いし、日本で1台目のビートルズと同じレコーダーが導入されることになりました。それで仕上げたのが『松岡計井子ビートルズをうたう』の音なんですけど、その機材は『弁才天』の録音にも使った、という流れです」

喜多嶋修 『松岡計井子、ビートルズをうたう INSTRUMENTALS』 SUPER FUJI(2026)

――『弁才天』は、1972年にはもう録っていたわけですよね。

「間違いなくその頃ですね。何年にやったのか、記憶はありませんが……(笑)」

――1976年にリリースされるまでの4年間、『弁才天』が眠っていたというのは、やはり海外で出そうと思っていたからですか?

「そうです。正しく評価してくれるのが欧米であろうと。〈わざわざ和風ロックみたいな作品を作って、外人の心を掴むためにやっているんじゃないか〉とも言われました。そういう時代でしたね」

喜多嶋修 『弁才天 THE UNHEARD EDITION』 SUPER FUJI(2026)