90年代の喜多嶋修。イースト・クエスト・スタジオで

ザ・ランチャーズに始まり、ジャスティン・ヒースクリフ、ソロなど、多彩な形態で活動し、日本音楽史に刻まれる名作の数々を作り上げてきた喜多嶋修。東洋と西洋、伝統と革新を融合させ、音響の実験や探究を先駆的におこなうことで時代を先取りし、1970年代からは世界を舞台に活躍してきた唯一無二の音楽家だ。そんな喜多嶋のアーカイブのリイシュープロジェクトが、〈喜多嶋修マスターテープ・シリーズ〉として進行中だ。

プロジェクトの展開に合わせ、今回は音楽評論家の湯浅学が喜多嶋にインタビュー。加山雄三との友情、渡英で得たスタジオワークの知見、名盤『弁才天』の制作背景、和楽器や邦楽への傾倒など、知られざる歴史をたっぷりと語ってもらった。


 

60年代の喜多嶋修

キング・クリムゾンの録音を目撃

――喜多嶋さんは数多くの録音を残しており、現在進行形で作品を作っていらっしゃいますが、今回再発された初期の作品を聴き直して、どのような感想をお持ちになりました?

「音楽の内容は昔といまとで異なりますし、次から次へと違うことをやってきたので、その流れをリイシューしてくださるなんてありがたい話です。

私のキャリアは、まだ高校生だった頃に私の従兄弟である加山雄三のバンド、ザ・ランチャーズというグループでギターとベースを弾きはじめたことが始まりでした。そして、私が慶應大学に入学してからランチャーズは加山から独立して、自分が書いた”真冬の帰り道”という曲で世の中で知られるようになりました。おそらく、日本人の印象は〈喜多嶋修といえばランチャーズの“真冬の帰り道”〉でしょうね。1974年からアメリカに引っ越し、ほぼ100%欧米でしか活動してこなかったので、喜多嶋修の印象は日本ではほぼ消えかかっていたと思います。

そんななか、アルファさんやソニーさんとご一緒し、日本との交流も多少ありましたが、そのときに制作させていただいた作品もすべてターゲットは欧米で、欧米のチャートには何度か顔を出していましたが、本国日本ではほとんど報道もされていなかったし話題にもならなかったのです。それでも、どの国の方々とやらせていただいた仕事も私にとっては大切な歴史であり、大変素晴らしい思い出になっています」

ザ・ランチャーズ 『フリー・アソシエイション THE UNHEARD EDITION』 SUPER FUJI(2026)

――喜多嶋さんは1967、1968年頃からすでにサウンドにこだわっていましたが、そんなミュージシャンは当時、日本にいなかったと思うんです。

「ゼロに近かったと思います。失礼かもしれませんが、当時の日本の録音技術や機材は欧米と比べたらとても貧弱でした。特にビートルズ以降、欧米ではサウンドクオリティが一気に何倍も進み、〈ああ、こんなに違うのか〉と痛感しました。それで、日本のなかでサウンドを多少なりともよくしようと試みたんですけど、やっぱり限界がある。理解してくれるエンジニアも少ない。これは海外、しかもアメリカじゃなくイギリスに直接行って、アビー・ロード・スタジオなどを見学させてもらうしかないだろう、ということで渡英しました。

当時の日本のレコード会社や音楽出版社の伝手で紹介状を頂いて、アポイントメントは取れたんですが、日本人のアーティストは100%相手にされませんでしたね(笑)。〈ロイヤル・アルバート・ホールのコンサートの一番いい席を取ってあげるよ!〉みたいな、観光客扱いでした。そういう意味で最初の渡英は厳しかったんですが、いまでも覚えているのは、ロンドンにいたとき、新聞に〈A Man On The Moon〉という見出しが出て、ついに人類が月まで行ったのか!と思ったことです(月面着陸は1969年)」

――喜多嶋さんがまだ19歳ぐらいの頃ですよね。当初は、まずサウンドの作り方がわからないから、それを探ることがメインだったと。

「そうですね。その頃、オノ・ヨーコさんのお姉さんがたまたま近所の辻堂にいらして、私の友達の知り合いだったので、〈ロンドンに行くなら、妹に届けてほしいものがある〉と言われ、電話番号も頂いて、2回目にロンドンに行ったときにヨーコさんに電話しました。ということは、ジョン・レノンの家に電話したということなんですが、何の意味もなく、まるで門前払いって感じで、〈じゃ、そのセーターはアップル・レコードの受付に届けておいてくれる? ガチャン!〉でおしまいでした。もちろん、ちゃんとアップルに届けておきましたが……。

アビー・ロードがダメならどこがいいんだろう?と調べて、辿り着いたのがモーガン・スタジオです。エリック・クラプトンなど、いろんな連中が録音していたところですね。そこに行って、ドアをトントンとノックしたら応答はなかったけど、ロックされていなかったのでスーッとドアを開けて、〈日本から来た者ですが、スタジオを見せていただきたいんです〉と言ったところ、運よく〈いま、あるグループが録音しているから見てみたら?〉となかへ入れてくれたんです。それでスタジオに入ったら、キング・クリムゾンがレコーディングしていたんですよ。ちょうどローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズがプールの底に沈んで亡くなり、大ニュースになっていた頃でした」