
偶然の出会いから加山雄三と育んだ友情
――喜多嶋さんは琵琶などを探求していらっしゃいましたが、どういう経緯で日本の楽器に興味を持ったのでしょうか?
「私の家庭は、日本のなかでは非常にウェスタナイズされていたんです。戦後まもなく茅ヶ崎に米軍が上陸して、キャンプ隊の基地を作ったわけですよね。で、サージェントの連中は夜に癒しの場であるクラブで踊ったり、米国の音楽をかけてお酒を飲んだりしていたんですが、私の両親はそのサージェントクラブを営んでいて、そこが自宅でもあったんです。
私は生まれてから3歳までそこにいて、その後、父親の仕事が変わり、東京に住むことになりました。小中学校は雪が谷大塚の清明学園に通ったんですけど、中学2年からまた神奈川県に戻り、湘南学園に転入して。それがすごくいいきっかけで、清明学園では音楽的な友達が1人(ザ・ランチャーズの大矢茂)しかいなかったんですが、湘南学園は音楽の交流がすごくあったんです。文化祭のときに1学年上の連中がバンドでベンチャーズの曲をやっていたので、ライブで一緒にできる人がいるんだ!?と思い、14歳のときに湘南学園の連中と自分のバンドを結成しました」
――早熟ですね。
「それと、当時は海外のペンパルとの文通が流行っていて、私のペンパルがイギリス人だったんです。で、私はベンチャーズが好きだと書いたら、相手はビートルズが好きだと。〈ビートルズ? 知らないな〉と思っていたら、そのペンパルの女の子が彼らの英国チャート初の1位になった“Please Please Me”のシングル盤を送ってくれたんです。それを聴いて、〈うわっ、なんだこれ!?〉とぶっとんでしまって。それでもう、〈アメリカじゃない、イギリスだ!〉とその世界にまっしぐらでした。
16歳のとき、親戚の伯父貴がパシフィックホテルや映画館を運営していて、茅ヶ崎に1,000坪ぐらいのものすごい邸宅を持っていたんです。子供たちは親兄弟とそこでよく野球をやったり、その家の25mプールで泳いだりしていました※。
ある日、私は1人で海に行き、波乗りをして帰ってきて、砂を流して帰ろうかなと思ってそのプールに寄ったら、たまたまその日は他に1人しかいなかったんです。それが、加山雄三です。そばにギターが置いてあり、〈お兄ちゃん、これいじっていい?〉と聞いたら〈いいよ。お前、弾けるのか?〉と言うので、ベンチャーズっぽい曲を弾いたら〈おっ、けっこういけるじゃん! 今夜、うちに遊びに来ないか?〉って言われて。それで意気投合し、2人ともハマりきってしまったんです。夜中までギターを弾きまくりました。それが、我々の新しいランチャーズの始まりですね。
その後は、加山に〈お前、来い〉と年がら年中呼ばれるようになり、撮影からの移動のステーションワゴンの車内では2人でギターを弾きまくっていましたね。その車のなかで作った曲は“夕陽は赤く”だったり、“蒼い星くず”や“旅人よ” (いずれも1966年)などなど、他にもたくさんありますよ。あの時代はおもしろかったですね。もちろん彼に影響されたこともあるし、逆に私がビートルズから学んだフレーズなどを弾いていると、彼からまた新しいアイデアが生まれたようなこともあります。
私の親父は60年代に入ってから加山のマネージャーを始めたんですけど、1965年頃にバカ当たりしたのが“君といつまでも”でした。ランチャーズでは日本全国、北海道から九州まで45日間ツアーをしたりしたんですが、当時の私は17歳ぐらいで、途中で学校から活動を禁止されてしまったんですね」
――高校生ですもんね。
「ええ。それで、教頭先生に加山本人が私と一緒に直接抗議しに行って、〈修は学業成績もいいはずなのに、なぜ?〉と伺ったのですが、学校側は〈すみません。成績の悪い不良連中がみんなギターにハマっているので、禁止しています。禁止された子の両親たちが、『なんで喜多嶋くんだけはテレビに出て演奏しているんですか?』と訴えてくるんですよ〉と言うんですね。で、私だけをOKにすることはできないということで、高校2年から大学に入るまで、私はテレビには出なくなりました。でも、実際、テレビに映っているのは別人のギタリストでも影では私が弾いている、というパターンでした(笑)。
その後、慶應義塾大学に無事合格したので、即座にランチャーズの正規メンバーとして復帰しました」