Page 5 / 6 1ページ目から読む
90年代の喜多嶋修。吉澤正和、ヴァン・ダイク・パークスと

細野晴臣との録音で味わった感動に適うものはない

――琵琶などの和楽器を西洋楽器のアンサンブルに合わせようとしても、間合いが違うのではないでしょうか?

「そのとおりです。それはすごくいいポイントで、要するに、日本など東洋の音楽は何もかもが自然体なんですよ。簡単に言えば、動物の鳴き声や波、風、川の流れとか、そういう大自然や宇宙のエネルギーの流れを表現しているんですね。なので、リズムと〈間(ま)〉の関係がすごく微妙なんです。

洋楽の世界では、4分音符や8分音符といった、決まった長さの音を何回か繰り返すことでビートを感じるわけですね。で、その4分音符や8分音符を半分にしても、ビートは感じられる。理論的にはそれは永久に半分に割っていけるので、言ってみれば、どこで楽器を打っても間違いではありません。和楽器奏法はその宇宙の〈気〉の流れを〈空〉で捉えて、それを〈間〉と呼んでいます。

ジャズミュージシャンの友達と、箏や三味線、琵琶、尺八、鳴り物などの演奏を聴きに行ったとき、最後の〈タンタンタンタンタンタン……タタン〉という部分はどうやって合わせているんだ?と聞かれたんですね。途中までは4/4拍子だったからついていけたけど、そのあとの拍子はどう数えているんだ?と。で、〈あそこは拍子じゃなく、『間』っていうものを捉えて、お互いのバイブレーション、その時の『間』を読み合っているから全員が揃っているんだ〉と説明したことがあります」

――『弁才天』の話に戻りますが、細野晴臣さんがベースで参加しています。これはどういった経緯だったんですか?

「私が〈日本にはなかなかいいベーシストがいないから、また自分でベースも弾くしかないかなあ?〉と呟いていたところ、吉野くんが〈最近、私が一緒に仕事をした素晴らしいベーシストが1人いるんだけど、たぶん喜多嶋くんも気に入ってくれると思うんだけどなあ〉と言うので、私が〈じゃあ、その人でぜひやってみましょう!〉と間髪を入れずに答えたことが、細野くんとの出会いのきっかけです。

そして、その結果、『弁才天』の楽曲”天狗”で生まれたのが、細野くんのあの世紀の名演奏です。私自身、アメリカに来てからエイブ(ラハム)・ラボリエルやバニー・ブルネルほか、世界有数の超一流ベーシストと何度も共演してきましたが、『弁才天』のベース録音のときに味わったあの深い感動に適うものはいまでもありません。あの曲であのように斬新で卓越したベースを弾けるベーシストは、世界で彼1人しかいなかったと思います。私は常に〈ありがとう!〉と、細野くん、ならびに彼を紹介してくれた吉野くんに感謝しています」

――細野さんは後年、日本の音楽を意識した作品を作っているので、喜多嶋さんとの共演がきっかけになったのかもしれないなと思いました。

「それは、多かれ少なかれあるかもしれませんが……。坂本(龍一)くんも沖縄の音楽を取り入れたことがありましたし、どこかで日本の原点を見つめてみたくなったのかもしれませんね。

細野くんと一緒に写った写真は残っていないのですが、この間、坂本くんとの写真は発見しました。私がアルファで仕事をしていた頃、日本に戻って武道館で開催された〈世界ジャズ・フェスティバル〉に参加したとき、別の日に中野サンプラザで私自身の〈お帰りなさい音楽大使〉と銘打ったコンサートがあり、その流れで私のためにアルファが開いてくれた〈お帰りなさい音楽大使・喜多嶋修さん〉という名目のパーティーがあって、坂本くんも来てくれ、そのときに撮った写真ですね」

――それにしても、喜多嶋さんの特に70年代の作品は突出していますが、当時はあまり聴かれていなかったと思うんです。

「そうですね。私が欧米での活動に集中していた時代、日本ではほとんど存在すら忘れられていたと思います」

――インフォメーションがなかったですからね。

「そうですね。私自身は祖国日本を捨てたわけでもなく、逆に日本古来の衣食住を学びつつ、伝統音楽と日本人の根底にあるスピリットを徹底的に学ぶという姿勢で、ずっとアメリカで日本人としての誇りをもって音楽活動をしてきました。ですが、日本のマスコミとの接点はほとんどなかったので、日本の方々からは忘れ去られてしまったのでしょう。

アメリカに移住することを目的にしていた70年代前半の一時期は、米国での生活費・軍資金を蓄えてから訪米したほうがいいと思い、私はテレビコマーシャルの作曲家として多忙を極めていた時代がありました。それはそれでとてもいい経験で、いろいろと学びましたし、目測どおり渡米後はそれが経済的にも役立ちました。

渡米後の5年間ぐらいは、意識的に日本との付き合いはしないようにしていました。アメリカでミュージシャンとして食べていけるようになりたかったので、日本の仕事で食べられてしまったら意味がない、と考えていたからです。アメリカで困らずに生活できるようになってから、日本との仕事を再開しようと思ったんですね。

無事にアイランド・レコードとアーティスト契約もし、正式にロスのミュージシャンズユニオンのメンバーにもなれたことで、法律的にも胸を張って米国で仕事ができるようになりました。アイランドのおかげで永住権も獲得し、生活も安定したので、また日本との交流も再開しようと思い、日本の音楽業界の連中に連絡を入れたことによって、日本の仕事がまた復活し、たくさん入るようになったんです。

渡米5年後に日本との仕事を再開したら、またCMの仕事がドサッと入ってきて、セイコーのCMではハリウッド・テレビジョン・アワードも受賞しました」