1986年当時の未発表写真

〈幻の名盤〉と言ってしまうのは簡単だが、実際に松永夏代子という人物も、1986年に発表された『微少女宇宙』というアルバムも、多くの人に知られているとは言い難い。その存在を知っていたとしても、実際に聴く機会がなかったというリスナーも多いことだろう。このたび、発売40周年を記念してCDとLPで再発されることになったのは、非常に喜ばしい出来事だ。玉置浩二、小室哲哉、久保田利伸といった錚々たる作家陣が参加し、銀色夏生が全編の作詞を手がけたというスタッフィングの豪華さに加え、松永夏代子という個性的なシンガーの魅力を存分に味わえる傑作と言っていいだろう。彼女の知られざる傑作がどのように生まれたのか、本人にじっくりと語ってもらった。

松永夏代子 『微少女宇宙』 ユニバーサル(2026)

 

安全地帯“悲しみにさよなら”のレコーディングを目撃

――最初に音楽に興味を持ったのは、いつ頃ですか。

「我が家は常にテレビが点いている家庭だったので、自然とテレビから流れる歌番組やアニメの主題歌などを歌うようになったのがきっかけだと思います。小学生の頃はピンク・レディーですね。お楽しみ会などがあると、友だちの女の子と組んで、一緒に振り付けをしながら歌っていたのを覚えています。

兄が音楽好きでレコードをよく買っていたので、それで流行りの音楽も聴いていました。サザン(オールスターズ)とか(松田)聖子ちゃんとか、もう少し大きくなってからはオリビア・ニュートン=ジョンやアース・ウインド&ファイアーなど、ごくごく普通のラインナップでした」

――楽器を習ったことは。

「それが全然。一応、幼稚園の時からエレクトーンやピアノは習って、小学校の低学年までは発表会にも出た記憶はあるのですが、とにかく練習が嫌いで(笑)。でも、歌うことはずっと好きでした」

――17歳でデビューすることになりますが、どういういきさつがあったのですか。

「中学生の時、テレビに出ている人、いわゆる〈向こう側の人〉になりたいと思って、俳優を養成する劇団に入ったんです。芝居の稽古を受けて公演に出演することもありましたが、よく〈役が見えていない〉〈松永が前面に出すぎている〉と言われていました。

そんな中で、劇団にいた歌手志望の子と出会って、そういえば自分は歌が好きだったんだとあらためて気づき、歌のレッスンを始めました。そこからオーディションを受けるようになったんです」

――それはいつ頃からですか。

「中学3年生くらいですね。最初は書類審査が通っても2次で落ちることが多かったんですが、ある頃から2次も通るようになりました。

中学生の時点でエキストラ出演のために髪を染めたりパーマをかけたりしていたので、学校の先生にも目をつけられて内申点が悪くて、そのままでは高校に進学できなかったんです。結果的に浪人することになりましたが、バイトもできるし、オーディションもたくさん受けられるし、とにかく前向きでした(笑)」

――それはかなり激動の10代ですね。

「そうやってたくさんオーディションを受けていた中に、文化放送が主催していた〈決定!  全日本ヤング選抜スターは君だ!!〉があったんです。これも最初は2次審査まで行くんですけど、最終的にはダメでした。でも〈君、面白いからまたおいで〉と言われて何度も通っているうちに、全国大会まで進んだんです。その時に、当時大好きだったチェッカーズの“ジュリアに傷心”を歌いましたが、ここでもデビューの条件となる優勝は逃しました。

ただ、その会場に当時キティ・レコードのディレクターだった近藤(由紀夫)さんが来ていて、〈受かっていないのに、なんだか嬉しそうなやつがいる〉ということで目に留まったみたいなんです。その後の懇親会で電話番号をもらいました。名刺を切らしているということで、番号が書いてある紙切れでしたけど(笑)」

――それで連絡をしたんですか。

「いえ。一応話は聞いたものの、私はすごく冷たく、そっけなく対応したんです。でも母がその場にいて、勝手に家の電話番号を渡してしまったらしくて。母には、そんなことしちゃダメだとすごく説教しました(笑)。

でもそれがきっかけで電話がかかってくるようになって、〈スタジオに遊びに来ない?〉と言われたんです。それが1985年の4月で、中目黒にあったKRSスタジオに行ってみたら、なんと安全地帯の玉置浩二さんが“悲しみにさよなら”のレコーディングをしていたんです」