――いま交響曲第9番を作曲中とのことですが、そもそも交響曲とは何ですか。

「交響曲は音楽の古典的形式の一番重要なジャンルのひとつです。20世紀以降も、ショスタコーヴィチは4楽章からなる典型的な交響曲も書いています。しかしシェーンベルクやストラヴィンスキーはそういうものはあまり書いていません。

 マーラー以降は交響曲は掘り尽くされたと言ってもいいかもしれません。交響曲といえばベートーヴェン、というふうな作曲家は20世紀以降見られなくなりました。

 私にとっては6番の交響曲がピークです。4番以降はわりとそうなのですが、5巻からなる本をぎゅっと1巻に凝縮したような感じかもしれません。

 私の交響曲はショスタコーヴィチやプロコフィエフと違って、ポスト・シンフォニー、つまり交響曲の後に来るもの。発展し尽くしたジャンルとしての交響曲の後に来るもの。交響音楽のコーダのようなものかもしれません。

 私のピアノの小品、バガテル集はみんなアタッカでつながっていますが、それを冗談半分でバガテルの交響曲と呼んでいます。ピアノ・ソロ用の交響曲と言ってもいいかもしれません。

 全体を聴きとおすと、たとえば京都という場所が浮かんでくるような。場所が浮かんでくる。70分間の小品からなる、曲間の拍手の入らない、次から次へとアタッカで続けていく、それがもしかすると、小品からなるひとつの統一という意味での新しい交響曲になるかもしれません」

――ということは、交響曲の定義とは?

「統一性ですね。ベートーヴェン時代の統一性を繰り返さなくとも、別の統一性を使えば、それはそれで交響曲になるのです。新しい統一性を作っていくのが作曲家の役割ともいえます。

 たとえば、かつての交響曲のように、一つのモチーフの発展で一つの統一性を作っていくのではなく、一つの作品が終わって扉が開いたら、次の作品では誰かが入ってくる感じで次から次へと展開していくのも、それはそれで統一性があるわけです。

 交響曲というものは、小さな形式を大きくまとめることなんです。主題が展開され再現されるのも音楽だけれど、音楽の瞬間においては展開する必要はない」

――あなたの音楽からは、風の音、霧の中の出来事、こだま、雲のようなものが聴こえてきます。その正体を知りたいのです。

「でも印象主義ではないです。休符の使い方だと思う。残響、空間……。ドビュッシーのようにわざと印象派的な音楽を作るようなことは私はしません。

 休符とか空間の作り方は、自然に似ているところがあって、自然にも空間がありますよね。それと同じ使い方だと思う。特にバガテルは、素材を詰め込みすぎずに空間を入れているので、空間の遊びが、もしかしたら風とか霧の印象を与えるのかもしれません。その空間の上にメロディが乗るのです。そのメロディがあって、その周りに空間がついていくというか、空間がメロディの周りを伴奏している。

 私は、風の声を呼吸のようにいくつかの作品に入れています。風は強くなったり弱くなったりしますが、人間もそうです。音楽に呼吸をさせるということが、風を感じる要因なのかもしれません」

※武蔵野市民文化会館で配布された当日プログラムにも一部掲載

 


Valentin Silvestrov Reference Discs

 


PROFILE: Valentin Silvestrov(ヴァレンティン・シルヴェストロフ)
1937年9月30日、ウクライナ・キエフ生まれの作曲家。独学で音楽の勉強をはじめ、55年からキエフ音楽大学夜間学部に学び、58年からキエフ音楽院でボリス・ リャトシンスキーに作曲を、レフ・レヴツキーに和声法と対位法を師事。モダニズムや新古典主義音楽の流れを汲んだ独自の作風を構築し、旧ソ連の同世代のなかでも屈指の実力を持つ作曲家と評価される。74年にソ連作曲家同盟から除名されると隠遁することを選び、非公開で演奏されることを意図した作曲も少なくない。前衛の停滞後、作風を転向してからは望郷や回顧といった感覚を機能和声の枠内で取り戻すことに成功。代表作は“交響曲 第5番”など。

 


寄稿者プロフィール
林田直樹(Naoki Hayashida)

1963年生まれ。音楽之友社「音楽の友」「レコード芸術」編集部に在籍したのち、フリーの音楽ジャーナリストに。著書に「クラシック新定番100人100曲」(アスキー新書)、「バレエおもしろ雑学事典」(ヤマハミュージックメディア)、「読んでから聴く厳選クラシック名盤」(全音楽譜出版社)、「ルネ・マルタン プロデュースの極意」(アルテスパブリッシング)。CDライナーノートやオペラ、バレエ、コンサートのプログラムにもたびたび寄稿。月刊「サライ」の〈今月の3枚〉連載などを担当。 インターネットラジオ〈OTTAVA〉プレゼンター。〈カフェフィガロ〉パーソナリティ。