日本のロック・ミュージックにおける最高峰の異才。それが国府達矢だ。2003年にリリースされた前作『ロック転生』は、現在に至るまで彼のよき理解者であり続けている七尾旅人をはじめ、さまざまなリスナーや音楽家に強烈なインパクトを残した。日本の土着性が色濃く漂う彼のヴォーカルと独創的なギター・サウンドがこの国に残した爪痕は、極めて大きいものといえる。

それから約15年の時を経て、新作『ロックブッダ』がぼくたちの手に届いた。あらかじめ断言しておくと、本作は2018年を代表するロック・ミュージックの傑作だ。彼がMANGAHEADという名義でメジャーからリリースしていたという事実や、『ロック転生』という伝説的作品の存在、Salyuとのいくつかの共同制作など、それらのすべてをあなたは知らなくてもいい。すでに知っているあなたは、それらを忘れてしまって一向にかまわない。あらゆる文脈を越えて、『ロックブッダ』に込められたサウンドはきっとあなたを撃ち抜くに違いない。

現在はSkillkillsとして活躍しているメンバーが繰り出すリズム、偏執的なまでのポスト・プロダクションが施された空間を所狭しと駆け回るサウンド、〈歌〉と〈語り〉の垣根が限りなく崩れたヴォーカルが混然一体となり、唯一無二のロック・ミュージックとなっている。〈ジャック・ホワイト meets Cornelius〉なんて戯言をつい呟きたくなるくらい圧倒的なサウンドを彩った、過去も現在も未来も肯定する、果てしない輝きを持った歌詞もまた素晴らしい。

しかし、国府達矢はここに辿り着くまでに15年かかった。この15年の間、国府達矢という稀代の音楽家は何を考えていたのか。そして本作が完成するまでに、なぜそれほどの月日が必要だったのか。そこには終わりの見えない制作プロセスがあった。国府自身によって、そのプロセスを丹念に紐解いてもらうとともに、あらためて自身の音楽を、ギター、ヴォーカル、歌詞など、さまざまな側面から訊いた。

国府達矢 ロックブッダ felicity(2018)

 

ギターと歌だけ、自分なりのやり方で進化を遂げたんだと思う

――前作『ロック転生』から15年の時間が経過しての新作ということですが、本作が最終的に出来上がった時期はいつなんでしょうか?

「マスタリングはこの間終わったばかりですね。ミックスでいうと、去年の夏前くらいです」

――クレジットを見ていると、ミキシング・エンジニアが3人携わっていますよね。なので、時間がかかった理由はミックスにあるのかなと推察したのですが(笑)、そこのところはいかがでしょう。

「ミキシングはサード・シーズンまでありました(笑)。ある一定の基準を超えていればフィニッシュするつもりではあったんですが、そこに届かなかったんです。制作に何年もかかっていたせいで、途中で自分のエンジニア的な耳のレヴェルが上がってしまったんですよね。見えたくないものが見えてきたりして。他にも機材が途中で導入されたりだとかさまざまな理由で、何度か仕切り直しをするという無限の地獄に入っていってしまいました」

――ぼくが本作を聴いてまず思ったのは、このサウンド・プロダクションの異様さだったんですよ。ポスト・プロダクションに神経を注いではいるけれど、それがいわゆる〈クリアな音〉にもなっていないし、かといって〈あえてラフな音〉にもなっていない、極めて独特のもので。曲によっても方向性がかなりバラバラ。この混沌とした迫力はどうやって作り上げられたのかが気になっていたんです。今の話を聞いていますと、エンジニアの貢献が本作の魅力に大きく作用している気がします。

「録音とファースト・ミックスに携わってくれた鶴田伸太郎から、こういう音をちょっと足したらどうか、さりげなくシンセを重ねてはどうか、などサウンドの装飾的な部分に関するアドヴァイスを貰いました。たとえば“薔薇”の間奏で、真ん中でブイ――――ンっていうのが鳴っているじゃないですか。僕はギター・ソロだけで考えてたから、ああいう発想は無かった。そういったサウンドにおける情報の厚みというのは、彼がいたからこそ出てきたものです。

あとは、“続・黄金体験”がいろんな音が点在している感じになったのも、エンジニアからのアドヴァイスですね。とりあえず音を重ねてみようみたいな感じだったんですけど、ある瞬間にエンジニアが引き算をしたんですよ。実はもともとメインのリフがあって、ずっとワンループでメインのギター・リフが鳴って進んでいく曲だったんだけど、それを彼がバッて抜いたんですよ。そしたら、あっ! めっちゃいいやん!みたいになって。他にも多岐に亘るやりとりが3人のエンジニアとの間にあって、そのおかげで、さまざまな要素が混ざり合ったものになったんじゃないかと思います」

――複数のエンジニアが関わってるからこその、いい意味での異様さなんですね。また、空間の使い方は、本作の大きな特徴の一つですよね。この作品を聴いた人の印象に残るのは、ギターの定位やパン二ングのおもしろさだと思うんですけど、ああいったイメージは国府さんに最初からあったんですか?

「〈360度から聴こえる音楽〉というイメージは、2000年くらいから僕のなかにありました。それを実現するためのプロセスを重ねるなかで、今の形になっているというのはあります。でもこの部分は、今ならもっと発展させたものが作れると思っているので、今後がんばっていきたいですね」

――本作はなんといっても国府さんのギターが肝なわけじゃないですか。どんなにポスト・プロダクションを通じてエディットされても、リスナーの耳にはギター・リフが耳にこびりついてくる。国府さんのギターのルーツってどこにあるんですか?

「あえて挙げてみると、布袋寅泰とジミー・ペイジですかね。なんで布袋さんかというと、彼のギター・フレーズというのは、歌メロしか耳に入らないような人の耳にも飛び込んで印象を残してくるんですよ。布袋さんのギターって歌えるじゃないですか。それは断然すごいことなんですよ。ジミー・ペイジもやっぱり歌にも勝るようなギターのフレーズで耳を奪いにくる。そういう意味で2人が浮かびました。ギター・ファンタジスタというか。僕もそこは意識してきたし、もっと言えばドラムもベースもそうであってほしいので、個々のアレンジもかなり詰めている。ある意味、王道のクラシック・ロックの輝きをアップデートしているはずだと思ってやっています」

――具体的な影響がどうのというのではなくて、〈歌として入ってくるギター〉というところで通じているところがある、と。

「ちょっと話が逸れるけど、2000年頃のちょっと前の頃から、ロックやってた人たちもみんな打ち込みの音楽を導入しはじめたじゃないですか。でも僕は、お金も機材もなかったから、ギター1本で行くしかなかった(笑)。時代に対応したいという願望や、進化を遂げたいという気持ちを、どういう形で結実させるかをみんなが試行錯誤していたときに、僕はギターと歌だけで、自分なりのやり方で進化を遂げたんだと思う。その結果がこういうサウンドに結び付いていった」

――国府さんって他人の音楽を聴いて、これを取り入れたいとか思うことは、あんまりなさそうですよね。

「MANGAHEADの頃は、グランジと日本の歌モノをくっつければ売れるでしょ?みたいな感じで、今と比べると、とても軽率にやってたんですよ(笑)。そんな舐めたことをやってたら、それで痛い目食らいまして。そこで本気になったおかげで、『ロック転生』に繋がっていくんですよね。特に2000年以降は、ひたすら自分の内を探索・冒険していくというようなことの積み重ねでした」

2003年作『ロック転生』収録曲“躁タレヤ”

 

境界線は無くて、全部が歌なんです

――『ロック転生』を初めて聴いたときにぼくがビックリしたのは、国府さんのヴォーカル・スタイルだったんです。民謡のような日本の土着性に根差したといえるような歌唱でありつつ、そういった民族性やローカリズムには決して回収されない普遍性を感じて、これはなんなんだろうなと。

「それは、もしかしたらMANGAHEADで初めて味わった人生の挫折が関係しているかも知れない。自分の精神がバキッと折れてしまって、音楽が全く作れなくなった時期があったんです。精神が死んで肉体だけが残った。そんな自分から自然と立ち顕れて来たのが日本の土着性へのフェティシズムみたいなものだった。とにかく気持ちよかったんです。それは狙ったんじゃなくて、僕のなかにはじめから備わっていたものが、たまたま表出したんだと思う。巨大な挫折を経験したことで、図らずも根源的なものへの接続を経ることができた、みたいな流れが何かしら影響しているのかもしれません」

2000年のサントラ『AMON-デビルマン黙示録 SOUND EDITION』収録曲“目のまえのつづき”
 

――MANGAHEADでの挫折で一度自分が空っぽになって、そこで自分と向き合ったときに、日本の民謡のような土着的なものが立ち顕れてきたと。

「あと、ブラック・ミュージックとかも好きでいろいろ聴いてはきてたんですけど、彼らの真似をしても絶対勝てないし、こっちはこっちのやり方を作り上げなくちゃいけないというのは考えてはいました。で、そういった考えの下で、この方法論でいけるかな?とか試行錯誤をしながら、自分の音楽を組み立ててきたのもあります。〈歌〉というものに執着してきた自分が、節や民謡やそこから繋がってくる演歌にもシンパシーを感じた。

『ロック転生』に辿り着いてからは、余計にそういう視点が補強されていって、より本質的になっていったとは思っています。いろいろなものを混ぜ合わせるにしろ、根底的なところまで辿り着いていると感じられるものじゃないと嫌だと思うようになった。雑に足し算されて出来上がっているような創作物は好きじゃないですね。2000年以降、そういう美意識が出来上がっていった感じはあります」

――曲によっては、かなりこぶしが効いてて、このへんも徹底してて凄いなと。

「本来の日本の音楽って節の文化みたいなところがあるみたいで。歌謡曲なんかは、それが西洋音楽と混ざって音楽的になっていくという流れがあると思うんですけど。そういう文脈をふまえつつ、さらにはラップなどとも攪拌して自分の音楽のフォルムに落とし込めないかという欲望が『ロッブッダ』に結実していったんです」

――あと、新作の『ロックブッダ』では〈歌〉と〈語り〉の境界線があまりないような感じがするんですよ。この両者が矛盾しないで一つの曲の中で一体になっている。

「それはラップにも繋がる話だけれど、僕にはあらゆる現象が音楽や歌に聴こえたり、見えたりする。ラップも僕にしたら、細かい音階の歌でしかない。そこに境界線は無くて、全部が歌なんですよ」