今年、デビュー20周年を迎えたGOMES THE HITMANが、2005年リリースの『ripple』以来、14年ぶりとなるフル・アルバム『memori』を完成させた。

90年代末、“僕はネオアコで人生を語る”という強烈な宣誓と共に姿を現したGOMES THE HITMAN。デビュー当初は、〈ネオアコ〉という言葉が示す通り、初期~中期フリッパーズ・ギターに通じる瑞々しいギター・ポップを奏でていた彼らだが、しかし2000年代に入ると、フロントマンでありコンポーザーである山田俊明の作家性の目覚めと共に、作品ごとに内省と物語性を深めながら、バンドは独自の音楽世界を展開していく。

〈ネオアコ〉、もとい〈ネオ・アコースティック〉という言葉が和製英語であり、そのオリジネーターたちが、本来的にはカテゴライズや既成概念を疑い、出会いや摩擦から生まれる発明を形にしようとしてきた〈ポスト・パンク〉の文脈に位置するアーティストたちであったことを考えれば、GOMES THE HITMANの歴史が〈変化〉に満ちたものであったことも、頷ける。

そして2019年、新作『memori』においてGOMES THE HITMANが証明したのは、変化し続けることこそが、〈普遍〉へと至る道なのだということだ。『ripple』のリリース以降、2014年にライブ活動を再開するまで長らく沈黙期間にあった彼らだが、その沈黙も含めて、バンドが〈変わり続けること〉によって守ってきた〈変わらないもの〉が、『memori』には宝石のように閉じ込められている。

この素晴らしい新作の誕生を祝して、山田稔明の単独インタビューを前後編に渡ってお届する。まず前編では、93年の結成から2000年代後半のバンド活動休止に至るまでの期間をメインに、GOMES THE HITMANはどこからやってきて、そして、どんな道を辿ってきたのか、そのあまりに特別なバンドの軌跡を、山田に振り返ってもらった。

GOMES THE HITMAN memori ユニバーサル (2019)

 

「これで最後になってもいいかも」と思えた最高傑作『memori』

――GOMES THE HITMAN(以下、ゴメス)は今年デビュー20周年を迎え、14年ぶりの新作アルバム『memori』もリリースされます。この〈20年〉という年月を振り返ってみて、いかがですか。

「全然、あっという間ではなかったですね。〈気づいたら時間が経っていた〉というのとは違って、ちゃんと20年経ったなっていう感じがします。

僕らはレコード会社をいくつも変わっているけど、それぞれの場所で思い出がたくさんあるし、そもそも最初から完成していたバンドではないので、ずっと変容し続けてきたっていう感覚があるんです。安定感がないまま、ゆらゆらしながら、20年目に辿り着いたなっていう感じがします」

――ゴメスが変容し続けてきたバンドであるということは、この20年間にリリースされてきた作品群を振り返ると、よくわかります。

「音楽が好きであることは、ずっと貫いてきたことだと思うんです。新しい音楽を聴くと、それに影響を受ける自分がいるわけで、僕らは意固地になって自分のスタイルを貫くタイプではなかったんですよね。

20年前の作品は20年前の音がしているし、2000年代の作品は、その当時聴いていた音楽から影響を受けたバンドサウンドになっている。イギリスのネオアコに憧れていた時期もあったし、〈USインディーっぽくやりたい〉と思っていた時期もあった。ずっと〈○○みたいな作品を作りたい〉という感覚をずっと持ち続けながら作品を作ってきたんです。それは、いま振り返ると微笑ましくもあるんですけど、今回、14年ぶりにアルバムを作ってみて思ったのは、今は、〈GOMES THE HITMANみたいな作品を作りたい〉と思っているんだなって」

――なるほど。

「すごく客観視できているんです。長くやってきたけど、〈GOMES THE HITMANってこういうバンドだったよな〉っていうことを、今回のアルバムには落とし込めていると思います。20年目にして、今回のアルバムを作れたのは、すごく嬉しいことで。

今まではアルバムを作っても、最高傑作だと思えたことがなかったんですよ。いつも〈はやく次の作品を作りたい〉とか、〈もうちょっといけたはずなのにな〉っていう気持ちがあったんですけど、今回は達成感がすごくて。20年経って、やり方がやっと掴めた感覚があるんです。〈これで最後になってもいいかも〉って思えているくらい、今は清々しい気分でいます」

『memori』ダイジェスト・ムービー

 

GOMES THE HITMAN結成、そして山田稔明は日本語で歌った

――今回の記事は、前編と後編の2つの記事にわけようと思っているんです。まず前編ではゴメスのこれまでのキャリアを振り返り、後編で、じっくりと新作『memori』の話をしていただこうと思います。

「はい、よろしくお願いします」

――そもそもの話になりますが、山田さんがゴメスを始めたとき、このバンドでなにをやろうとしていたんでしょうか。

「当時の自分がやりたかったことは、自分で曲を書いて、歌詞を書いて、ギターをジャカジャカ弾きながら歌う、そして、そこにバンドがついているっていうこと。基本的なことは、ずっと変わっていないんですよ。

GOMES THE HITMANっていうのは、僕が19歳、大学2年生の頃に組んだバンドで、僕が初めてヴォーカルをやったバンドなんです。それまではずっとギタリストだったんですけど、作詞作曲をするようになり、〈自分で作った曲なら、自分で歌わないとな〉と思ったんですよね。それで、自分がヴォーカルをやるバンドを作ろうと思って、ゴメスを作ったんです」

――歌詞は、最初から日本語詞でしたか?

「いや最初は英語で書いていたんですよ。洋楽を聴いていたし、大学で英語も勉強していたので、英語で書くことは自然なことだったんですけど、ゴメスを結成した93年に小沢健二の『犬は吠えるがキャラバンは進む』というアルバムが出たんですよね。それを聴いて、〈日本語でこんなにかっこいい歌が書けるのか〉って、ビックリしちゃって。そこからはもう、英語で歌うのは意味がないと思って、日本語で歌詞を書き始めたんです。

それで自分で歌い始めて、当時は歌には全然自信がなかったんですけど、それが今でも生業になっているのは、自分の誇りでもありますね」

 

僕はネオアコで人生を語る

――初期のゴメスと言えば、やはりファースト・アルバム『GOMES THE HITMAN in arpeggio』(97年)の1曲目“僕はネオアコで人生を語る”が、タイトルからして強烈ですよね。

「後悔しているんですけどね、そのタイトルに関しては(笑)」

97年作『GOMES THE HITMAN in arpeggio』収録曲“僕はネオアコで人生を語る”

――そうなんですか(笑)。

「事ある毎に、〈山田さん、この曲のタイトル、すごいですね〉って言われて、〈なんでそんなに大きいこと言っちゃったんだろう〉って(笑)。

この間、ナタリーのコラムで僕らが取り上げられたときも、この曲のSpotifyのリンクが貼り付けられていたんですよ。〈これ、一番下手な曲だよ〉って(笑)。……まぁ、言葉としてもキャッチーだし、リリースした当時も〈なんだ、このタイトル〉って引っ掛かって曲を聴いて下さった人たちも多かったので、いいんですけどね。

今、45、6歳になって、こういう話を笑いながらできていることは、幸せなことなのかもなって思います。〈ネオアコで人生を語る〉なんて言って、1枚で解散しててもねぇ(笑)?」

――そうですね(笑)。

「まぁ、いまだに語り続けていますけど。60歳くらいになって、あの曲を演奏できたらすごくかっこいいなと思いますけどね」

 

普段着でいい――〈ネオアコ〉というアティテュード

――当時の山田さんにとって、〈ネオアコ〉とはどのようなものだったのでしょう?

「〈ネオアコ〉というジャンルを深く掘り下げて聴いていたかというと、大体は後追いだったりするんですよね。自分にとって〈ネオアコ〉というワードは、どちらかというと、姿勢、アティテュードに近いものだったんです」

――アティテュード、ですか。

「僕の世代はハード・ロックやヘヴィメタルがめちゃくちゃ流行っていて、中学生の頃にはガンズ・アンド・ローゼズやメタリカなんかをギターでコピーしていたんです。ああいう音楽って、〈黒い服を着なきゃいけない〉みたいな、形がある音楽だったんですよね。

でも、そんなときに出会ったネオアコのバンドたちは、普段着で、歪んでいないぺらっぺらなギターの音で、日常的に思っているなんでもないことを歌にしていた。そこで、〈俺でも日常の延長で音楽ができるんだ〉という感覚が植え付けられたんですよ。ライブをやるにも髪の毛を立てなくていいし、スーツも着なくていいし、ボロボロのTシャツでいい。大学で勉強して、ご飯食べて、家に帰って友達と電話で話す……その延長で音楽をやるのって、すごく自分に合っているなと思ったんです。肩ひじ張らなくていいし、形から入らなくていい、自然でいいんだって。

それまではヴォーカリストであること恥ずかしくて、サブでギターを弾いていたのが、こんなにかっこつけなくてもいいんだったら、自分でオリジナルをやろうと思えた。そのきっかけが、僕にとってのネオアコだったんですよね」

 

なによりも大きかったR.E.M.というバンド

――〈ネオアコ〉は〈ネオ・アコースティック〉の略称ですけど、日本で生まれた言葉なんですよね。そこに括られるアーティストたちの源流を辿ると、本来的にはパンク~ポスト・パンクの文脈ですよね。

「そう、掘り下げていくと、〈ポスト・パンク〉ということなんですよ。捻くれているし、人が聴かないマニアックなものに惹かれるしっていう、自分のなかにある〈メインストリームではないんだ〉という概念を言語化しようと思ったときに、〈オルタナティヴ〉という言葉が出てくる前に、〈ネオアコ〉という言葉があったという感じなんです。そういう意味で、〈僕はネオアコがやりたいんだ〉ということは、自分の所信表明として、すごくハマりがよかったんですよね」

――当時、特に好きだったバンドはいますか?

「トラッシュキャン・シナトラズというバンドがすごく好きでした。鍵盤がいるネオアコ・バンドだったので、音作りの面で、すごく参考にしましたね。あと、ちょうどスウェディッシュ・ポップが流行ったタイミングとリンクしていたので、エッグストーンやカーディガンズも好きでした。

トラッシュキャン・シナトラズの90年作『Cake』収録曲“Obscurity Knocks”

でも、当時の自分にとってなによりも大きかったのは、R.E.M.です。中学校2年生の頃にR.E.Mを知って、〈俺しかこのバンドを知らないんだ〉という優越感も秘めながら、ずっとそのバンドが好きでした。もう解散してしまいましたけど、今でもR.E.M.が一番好きなバンドです。音楽的な影響は、そんなにわかりやすい形では出ていないけど、その精神性は、ネオアコの源流がポスト・パンクにあるのだとしたら、R.E.M.のことはずっと自分の頭の中にありますね」

R.E.M.の87年作『Document』収録曲“It's The End Of The World As We Know It (And I Feel Fine)”

 

長くて平坦ではなかった20年間を、そんなに簡単にカテゴライズしないでくれよ

――ちなみに、先ほどお話に出たナタリーのコラム記事が公開された際、山田さんは〈00年代当時“喫茶ロック”からもあぶれたGOMES THE HITMANが今シティポップという言葉とともに語られるのが不思議で面白い。〉とコメントされた上で、記事をリツイートされていましたよね。今、〈シティ・ポップ〉という枠組みのなかに自分たちが入れられることには、違和感がありますか?

「自分が〈シティ・ポップ〉というものを意識して音楽を作ったことが、今まで一度もなかったんですよ。『cobblestone』(2000年)というアルバムを杉真理さんにプロデュースしてもらったときに、杉さん、佐野元春さん、さらに大瀧詠一さんにまで遡って、そういう人たちが〈シティ・ポップ〉の祖だといわれるのも知っていたし、僕はその方たちの隔世遺伝の世代なんだという認識はあったんです。でも、その感覚が、あるタイミングから言われるようになった〈シティ・ポップ〉という言葉と、自分のなかで直結しなかったんですよね。だから、〈あれ、僕らはシティ・ポップなのか〉と思って。

それこそ、僕らが今年、アルバムを作るうえでキーワードとしてあったのは〈90年代〉だったんですけど、一番近くて、でも、そんなに重要視されていない90年代の音楽が、僕はいまだに大好きで。80年代や70年代から影響を受けて音楽を作ったことが、今まで一度もなかったんです。

でも、よく言われるシティ・ポップ的な音楽を作っている人たちは、70~80年代を意識してやっているんだろうなって思っていたので、そこと自分たちとでは、棲み分けられている印象があったんですよね」

――なるほど。

「まぁ、僕がああいう形で、あのコラムに関してツイートをしたのは、自分たちが途中休みながらも、90年代の終わりからずっと普遍的なポップスを作ろうと思ってやってきたことに対して、〈シティ・ポップ〉という便利な言葉で語られそうになっていることに対しての抵抗ですね。〈いやいや、そんなに簡単なものではないですよ〉ということを、自分は言いたかったんだろうと思います。〈この、長くて平坦ではなかった20年間を、そんなに簡単にカテゴライズしないでくれよ〉って」

 

〈サバービア〉という視点と〈まちづくり三部作〉

――98年にリリースされた『down the river to the sea』には、“平和なるサバービア”という曲が収録されていますよね。初期のゴメスを語る上で、〈ネオアコ〉と並んで重要なワードとして、〈サバービア〉があるのかなと思っていて。

「うん、それはあると思います。自分が東京出身じゃないというのが大きいと思うんですけど、渋谷・新宿のような都会に馴染めない感覚がずっとあって。

吉祥寺、武蔵野という、都心からちょっと離れている場所で奏でられるポップスというのは、自分のなかでテーマだったのかもしれないです。地方出身者である自分が、東京で暮らしながら作っている音楽……その視点は忘れないようにしたいなとずっと思っていました。

東京の街並みを眺めていても、心のどこかには生まれ故郷がある、そういう二面性。〈自分の居場所はここじゃない〉とずっと思っている人間の歌、というか。騒々しい雑踏を、一歩引いた、冷めた目線で眺めているっていう自分の性格が、歌にも出ているのかなって思います」

――今話していただいた感覚が、99年~2000年にかけてリリースされた『new atlas e.p.』『cobblestone』『maybe someday e.p.』の3作品、いわゆる〈まちづくり三部作〉のコンセプトにも根深く関わっているのではないかと思うんですけど、この〈まちづくり三部作〉が当時どのように作られたのか、振り返っていただけますか。

「まず、ファースト・アルバムを出したときに、周りから〈短編小説集みたいだね〉とよく言われたんです。僕自身、〈これは11編の短編が入った、音楽の短編小説集です〉という言い方をしていて。

〈じゃあ、2枚目のアルバムをどうしようか〉と考えたときに、〈1枚目が短編だったから、2枚目は長編ですよ〉って、考えもなしに僕が会議の場で言ったんですよ。〈全部の曲が関連していて、ストーリーとして成り立っているものが作りたい〉って。そうしたら、〈じゃあ、シングル、アルバム、シングルっていう3作品を使ってやろうよ〉という話になって。曲の重複もなし、先行シングルがアルバムに入ることもないっていう形でやらせてもらったんです」

GOMES THE HITMAN Ariola years - lost weekend in the suburbia Bridge(2019)

99年作『weekend』、〈まちづくり三部作〉、2001年のシングル『饒舌スタッカート』を収録した3CDセット『Ariola years - lost weekend in the suburbia』

2000年作『cobblestone』収録曲“午後の窓から”

――かなり特殊な形ですよね。言ってしまえば、バンドとしてもレーベルとしても、労力がすごくかかるだろうし。

「そう、かなり特例的でした。で、そうなったときに、ひとつの街を舞台にして、そこで繰り広げられる長編小説にしようっていうことで、最初に入れ物として〈架空の街〉を作ったんですよね。その〈架空の街〉というのもやっぱり、東京じゃないどこかだった。その街のなかで、自分がどこに住んでいて、どこに上り坂があって、みたいな設定も細かく、すべて考えたし、その街の風景が、歌の描写に出てくるように作っていって。

最初は曲のストックがなかったので大変だったんですけど、杉真理さん、斎藤誠さん、村田和人さんという先輩たちが制作に入ってきてくれたので、サウンドも色とりどりのものになって。そんななかで、僕はただひたすら一生懸命歌詞を書いていたんです。この歌詞とこの歌詞は繋がっていて、ここはこう繫がっている……みたいな感じで、20曲近くを使った物語を構成していた。それを、〈まちづくり三部作〉と名付けたんですよね」

――ディスコグラフィーを見ていると、やはり、この〈まちづくり三部作〉の頃から、山田さんのコンセプトメイカーとしての作家性が際立ってくる印象があります。

「それまで、自分はあくまでバンドマンであり、ヴォーカリストなんだと思っていたけど、〈まちづくり三部作〉の頃から、〈自分もひとりのシンガー・ソングライターなんだな〉という意識が芽生えたところがあって。それ以降も、〈この曲はあの曲の続編なんだ〉みたいな感じで、出していく度に時系列で説明ができるような曲の作り方になっていったんですよね。僕は、同じことを何回も、言い方を変えて歌のなかに散りばめるのが好きで。それも〈まちづくり三部作〉で面倒くさい作業をしたからなんですよね。あのときで培ったもので、僕は今までずっと曲を書いてきたなって思います」

 

2000年代の傑作群『mono』『omni』『ripple』、そして活動休止へ

――ここからは、2000年代にリリースされた『mono』(2002年)、『omni』(2003年)、『ripple』(2005年)という3枚のアルバムを振り返っていただこうと思うんですけど、やはり90年代に比べて作品の質感がガラッと変わっていくというか……端的に言うと、重くなっていきますよね。

「そうですね(笑)。その3作は、30代の頃に作った作品ということになるんですけど、ずっと悩んでいた感覚があります。

99年から2001年まで、最初のレーベルでやっていた頃のゴメスの作風は、いわゆるギター・ポップというか、色鮮やかな音楽を作っていたんですけど、そこで一度契約がなくなってインディーズになり、お金もあまり使えないっていうことになって。

で、ちょうどその頃、いわゆるDTM、パソコンを使って自分で録音できる環境が整ってきたことが重なって。大きいスタジオが使えないから、ある程度は僕が家で作るっていう形になっていったんですけど、それにしたがって、メンバー全員が顔を合わせることがどんどん減っていったんですよね。なので、この頃の作品は、どんどんどんどん、視点が個人的になっていって……その極致が、『mono』だったんです」

GOMES THE HITMAN 00-ism [mono/omni/ripple] compilation of the works in 00's (including some miscellaneous debris) VAP(2018)

『mono』『omni』『ripple』を収録した3CDセット『00-ism』

2004年のシングル“夜明けまで”。『mono』収録曲の新録ヴァージョン

――『mono』の頃の山田さんは、どんなモードだったのでしょうか。

「当時、アルバイトをしながら音楽を作っていくことになったんですけど、〈この先、どうやって生活していくんだろう?〉っていうところまできたときに、それまで〈自分はミュージシャンです〉と思っていたところが、何者でもなくなった感覚があって。そこで、生活を見つめ直す感じがあったんですよね。時間はやたらあるし、本を読んだり、ずーっとなにかを考えて思い悩んだりしていて。

ちょうど、9.11(アメリカ同時多発テロ事件)が起こってウワーってショックを受けてしまったのもあったし、『mono』で一番ドーンと落ちたんです。で、そこからもう一度、新しいレコード会社でやれることになり『omni』で、また浮上するんですよね。『omni』の頃は〈またスタジオに帰ってこれたぞ〉という感覚があったと思います」

2003年作『omni』収録曲“愛すべき日々”

――確かに、『omni』は『mono』に比べても開けている質感のある作品ですよね。

「でも、『omni』を作ってみても、なにか満たされなかったんですよ。〈あれ? もっといけるんだけどな〉って……それでまた考えすぎちゃって、『ripple』でなにかをグーッと見つめている感じになっていく。

『ripple』の頃は、〈バンドって、どうやっていくものなんだろう?〉ということに悩み始めた時期だったなって思うんです。ずっと一緒にいるメンバーなので、コミュニケーションも段々おざなりになっていくし、自分が自宅で作りこんだデモをすごく気にいっているから、〈なにも手を加えないでほしい〉と思ってしまう。それをメンバーに伝えるのがしんどくて、ディレクター経由で伝えてもらったり。

2000年代は、メンバーと顔を合わせないで演奏している感じがずっとあったんですよね。でも、僕はその質感も面白いものだなって思っていたところがあって。すごく奇跡的なバランスでできたのが『ripple』だったんです。

で、そのツアーが終わったとき、〈しばらく先の予定を入れるのはやめよう〉ということになったんです」

2000年作『cobblestone』収録曲“手と手、影と影”

 

バンドって、自分のためだけにやるものじゃないな

――去年、RealSoundに掲載されたインタビューで、2000年代の山田さんにとって、大きな影響源となっていたのがウィルコだったと仰っていましたけど、具体的に、ウィルコのどういった部分に惹かれていたのでしょうか。

「2000年代は一番ウィルコから影響受けたと思うんですけど、やっぱり大きかったのは、〈普通にやらない〉というところでしょうね。そこに惹かれました。ギター、ベース、ドラム、ピアノがあって、ただただいい曲になるはずが、なにかが欠けている。そのバランス感覚の違和感みたいなものに惹かれたんですよね。

当時の僕は、〈一丸となっている〉状態ではないものを作りたかったのかもしれないです。どこか歪なものを作りたかったんだと思う」

ウィルコの2001年作『Yankee Hotel Foxtrot』収録曲“Jesus, Etc.”

――望まずに孤独になってしまった部分と、自ら孤独であろうとした部分が、2000年代の山田さんにはあるんですね。バンドの活動が途絶えて、ソロ活動を開始されて以降の期間、山田さんにとってゴメスとはどのような存在でしたか?

「ゴメスの存在は、亡霊のようにずっと自分の後ろにあるものでした。今でもそうなんですけど、自分のソロ名義でやっているものは、本当にインディペンデントなもので、誰からの指図も受けず、やりたいことをやりたいようにやっている感じなんですよ。

でも、ソロでも充実した活動ができるようになって、〈これで一生、死ぬまで自分は音楽をやっていくんだな〉っていうことがわかったときに、〈バンドをもう1回やり直してみたいな〉と思ったのが、今から5年前で。それで、2014年に〈GOMES THE HITMANのライブ活動を再開します〉って言ったんですけど、そのときのお客さんの嬉しそうな顔を見ると、〈みんな、そりゃあバンド見たいよね〉と思って。僕だって、自分の好きだったバンドが久しぶりに作品を出すと嬉しいし、実際、バンドの方のチケットはめちゃくちゃ売れたし。

そう考えると、〈バンドって、自分のためだけにやるものじゃないな〉と思ったんです。お客さんがこれだけ喜んでくれて、昔ライブに来てくれていた子たちがまたライブに来てくれたりもして……バンドって、僕がひとりで〈辞める〉と言って辞めることができるようなものではないんだなって思いました」

 

GOMES THE HITMANと山田稔明ソロのバランス

――それから今に至るまで、ソロとバンドを並行して活動されていますよね。

「自分でも不思議な感覚なんですけど、山田稔明とゴメスをレースさせている感覚があるんですよ。ここ5年間、山田稔明とゴメスの2デイズ・ライブを毎年やっているんですけど、そのチケットの売れ行きを、自分でずっと見比べているんです。〈やっぱりゴメスの方が売れるの?〉とか、〈あれ、ソロの方が売れてる!〉とか、ひとりで一喜一憂しながら(笑)」

山田稔明の2016年作『pale/みずいろの時代』収録曲“calendar song”

――ははは(笑)。

「その感じが、すごく面白くて。ソロのライブでは、MCでゴメスのことをクサしてみたりして(笑)。今のやり方が、一番バランスがいいなって思うんですよね。バンドでやるときには、バンドとしての使命を果たして、ソロでやるときは、本当に自分でやりたいことをやって……そのバランスでやれるようになったのが、この数年で。それぞれ全く違うことをやっている感覚だから、自分にはソロとバンド、ふたつないとダメなんだなって思います。

2000年代は自分のエゴを突き通すことでしんどくなってしまったけど、今、ゴメスをやるときには、〈みんなが嫌なことはやらない〉という暗黙の了解もあるし。90年代の頃も含めて、こんなに調子がいいことは、今までなかったんじゃないかな」

 


LIVE INFORMATION

GOMES THE HITMAN presents
new album『memori』 発売記念公演
“MEMENTO – TOKYO”

2020年2月25日(火)東京・渋谷 WWW
開場/開演:19:00/19:30開演
ゲスト:PLECTRUM
前売り/当日:4,500円/5,000円(いずれもドリンク代別)
主催:GOMES THE HITMAN.COM
​協力:UNIVERSAL MUSIC

GOMES THE HITMAN presents
new album『memori』 発売記念公演
“MEMENTO – NAGOYA”

2020年3月21日(土)愛知・名古屋 K.Dハポン
開場/開演:18:00/18:30
前売り/当日:4,500円/5,000円(いずれもドリンク代別)
主催:GOMES THE HITMAN.COM
​協力:UNIVERSAL MUSIC

GOMES THE HITMAN presents
new album『memori』 発売記念公演
“MEMENTO – OSAKA”

2020年3月22日(日)大阪・梅田 シャングリラ
開場/開演:18:00/18:30
前売り/当日:4,500円/5,000円(いずれもドリンク代別)
主催・企画制作:GOMES THE HITMAN.COM/Shangri-La
協力:UNIVERSAL MUSIC