長年続けてきたStudio WUUでのソロライヴ、2024年夏のライヴ音源をCD化!

 新しいアルバム、という。

 どのくらいこのアーティストのアルバムを聴いていなかったろう。配信とは距離をおいているので、久しぶり。できるだけ、ことばやイメージにひっぱられないようにと、できるだけジャケットに目をやらず、盤を起動する。

 みるみるうちに、す、す、と色が変わってゆく。ハーモニーの、タッチの色が。池をのぞいていると、ちいさな金魚がやってくる。ゆらり、ゆらり、と泳いでいたのが、つと、泳ぐ速度を変え、さっとべつのほうにむかう。水の外にいるのに、水のなかの光や温度がちょっとだけ変わったようにかんじる。音楽は、水は、おなじにあるのに。

 ふと、拍手。あ、ライヴだったんだ……。おそらく大きくはない会場。そこにいるひとたちの顔が、ぼんやりと、でも、ひとりひとり、わかるような近さの、か。聴き終える。あ、終わっちゃったんだ、と、しばらくそのまま。音楽がなっていること、あること、と、ないこと、との温度差が、ちかい。いや、音楽ののこしていったものが、なかなか心身からひいていかない。やさしい拍手は、砂浜によせる波のように、そっと、ひく。

FEBIAN REZA PANE 『Field Of Eternity』 Amphibian(2025)

 全10曲収録とある。曲数は気にしていなかった。アーティスト本人のコメントもある。どんなとき、どんなきっかけでつくったものか、が。“光琳と三日月の夕暮れ”“古書とあじさいの夕暮れ”がはじめの2つ。〈夕月〉や〈夕涼み〉と、〈夕〉の字がほかにもある。タイトルをみずに聴いたとき、感じていたのは、やはり〈夕〉だった。昨年夏、天草で水平線に沈む夕日をみていた、その。

 1音1音がきらめく。なかからメロディがうかびあがってくる。なつかしいのに、音そのものはみずみずしいひびき。いつもピアノの音はきいている、耳にはいってきているのに、このアルバムでは、あらためて、ピアノだ、と、ピアノの音だ、とおもう。鍵盤に指がふれ、下まで押しこまれるさまがスローモーションのように〈みえる〉。〈みえる〉あいだに音はつぎつぎに生まれては消えてゆくから、錯覚だし、夢のようなものなのだが。

 演奏されているあいだ、聴くひと、聴くひとたちは何をどう感じ、どういうときを過ごしていたのだろう。静かな拍手が紡錘のかたちに生まれ、消える、そんなとき。

 CDとしては約6年半ぶり、なんだな……。